奪還篇 山奥の名医⑦
ディアナの先導で木々に囲まれ薄い霧の掛かる山道を進んでいた楠木の眼前に鋭い棘を持つ蔦でできた壁が現れる。
一本一本が巨体である楠木の腕ほどもある太い蔦が幾重にも絡まり五寸釘のような棘が飛び出て頑丈な防壁となっているようだ。
壁は道沿いに緩やかな湾曲を描きながら霧の向こうまでずっと延びている。
『蔦壁か。ディアナこれはあんたかい?』
『うん。昔は獣除け用に立派な土壁があったんだけど、あたし達が来たときにはほとんど崩れていて、お金もなくて修復もできないからって、だから術でちょっと。もう少し先に門があるから』
リドナーの質問に答えたディアナが、霧の向こうにうっすらと見える壁から飛び出た高い影を指さした。
その指さす先に進むと立派な物見櫓付の煉瓦のような物を積み重ねた門と、楠木の倍ほどの大きさの木の扉が姿を現す。
煉瓦は風雨に表面が削られているが一つ一つに細やかな装飾が施されていた痕跡が残り、門を塞ぐ扉も過ぎた年月を感じさせる艶を放つ。
周囲に広がる蔦の壁と壁の向こうから伝わってくる人気の無さも相まって、何処か古代の遺跡のような景観となっていた。
門構えから見るにディアナから聞いていた通り昔は栄えていた村なのだろうが、街道が変わった事で今はほとんどの人から忘れ去られてしまったのだろう。
『昼間は門は開けてるのに…………すぐ開けてもらうからちょっと待ってて』
門が閉まっていた事に訝しげな顔を浮かべたディアナが物見櫓から外に下がっていた大きな紐を引くと、上の方からがらんがらんと鈍い鐘の音が響く。
霧の中に開門を知らせる合図が響くと門の内側からざわざわとした声や人の気配が聞こえてきた。
どうやら門の向こうに少数だが人が集まっているようだ。
「なぁ姫さん。つかぬ事を聞くんだけど……あの婆さんどうした?」
そこはかとなく中から伝わってくる警戒心に、ディアナと接触したときに幻術と入れ替えた老女のことを姫桜へと楠木はそっと尋ねる。
「桜真に村へとお連れするように指示を出しておきましたので大丈夫だと思いますよ」
「桜真か。なら大丈夫か。あいつ老人と子供受けはいい……姫さん。あいつ大きさどのくらいで呼んだ?」
クスクスと笑いながら返す姫桜の回答に一瞬安堵を覚えかけた楠木だったがその頬に微かに朱が差していることに気づき、一つの可能性に思い至る。
姫桜と本当に血が繋がっているのかと疑いたくなるほどのお人好し……もとい、人の良い性格は兎も角として、今は桜真が姿形が鬼になっていたことを思い出す。
異形の存在である鬼ならば、優菜達の前に姿を現した縁サイズから、巨人と呼べる巨大サイズまで自由自在だ。
「運びやすいようにと3メートルほどでしたでしょうか」
「あぁ……そりゃ騒ぎになるわ」
武芸百般に通じ技量に優れた桜真といえど、三メートルの巨体で人一人を抱え込んだまま隠密行動をとれるはずもない。
おそらく老女を連れてきたときに村人に姿を見られたのだろう。
3メートルを超えた見た事もない鎧姿の巨人に連れられた村人。警戒するなという方が無理だという物だ。
そして姫桜に気遣いをしろという方はもっと無理だ。
人が驚き戦く感情は姫桜の好物。今も村の中から漂ってくる警戒する気配に蕩蕩とした心地よさを覚えているようだ。
『ゼン爺。あたし! なんかあったの!?』
呑気に会話を交わす楠木と姫桜とは対極的に、いつもと違う様子にディアナが不安げな声で門の内側へと大声で呼びかける。
すると上の櫓から人の顔がひょっこりと出て下をのぞき込んできた。
しかしその人物の顔は老人などではなくもっと若い少年と呼ぶべき年の顔つきだ。
『ディアナ!? よかった。無事っ!…………母さん。それに父さんまで!?』
ディアナの姿を見て安堵の声をあげた少年だったが、その脇と後ろに控える人物達をみて驚きの表情を浮かべる。
『おや馬鹿息子。元気そうだね』
リドナーが顔を覗かせていた少年をじろりと睨む。
ファランは特に返事を返さず、ただ感慨深そうに少年の姿を見ていた。
おとなしそうな外観とリドナーに似た色のルビーのような質感の目。そしてファランと同じ燻った茶色の髪。
この少年がどうやらリドナー達の息子でありディアナと一緒に逃げたミオレイドのようだ。
12才で駆け落ちをするような大胆なことをしでかすようには到底思えない。学者風の少し気の弱そう印象を楠木は感じる。
『ミ、ミオ君! よ、よかった。ほんとに無事だったんだ』
ミオレイドの姿を見てディアナがあられもなく泣き出す。
いくら口で幻だと言われていても、本人を見るまでは何処か不安だったのだろう。
『ディアナ!? ……母さん。一体何をしたんですか? リーナさんを連れてきた巨人も母さんの仕業ですか』
泣きじゃくるディアナの様子に不審げな顔を浮かべたミオレイドが、リドナーを真正面に捉え見つめる。
睨みつけるようなその顔からは、先ほどまで楠木が抱いていて気弱そうな印象が薄れ、守る者を持つ男としての顔を覗かせている。
『おや一丁前の男の顔ってのができるようになったようだね……母親としてその過程をみられなかったは複雑といっておこうか』
『母さん。答えていただけますか』
息子の態度に僅かに目を見張ったリドナーが、一見感心したかのような素振りを見せて煙に巻くが、ミオレイドはリドナーのペースに乗る様子は見せず、強い声で再度問いかける。
『ディアナのそれやら巨人はあたしじゃないよ……あたしよりおっかない存在。チクシリョウスケを迎えに来た異界のお客人に罰を喰らったのさ』
肩をすくめたリドナーが後ろを振り返りちらりと姫桜へと視線を飛ばすと、姫桜がクスクスと笑って返す。
『っ!? ……先生の世界の人ですか』
筑紫亮介の名前を聞いた瞬間、ミオレイドの顔が強ばる。
その一言だけでおおよその事情を察したのだろうか。
『数多の世界に響く『鬼の戒め』。怖い物知らずのディアナには良い薬さね。ちょいときつかったけどどね……さて』
グズグズと安堵の泣き顔を浮かべているディアナの背を軽く撫でてやっていたリドナーが表情を引き締めた。
母と子の会話はこれで終了という意思表示だ。
『とりあえず落ち着ける場所で話そうじゃないか。その馬鹿弟子の行為がどんだけ危ない事だったかも含めてね……ミオレイド・ヒルディア。12聖人が一人リドナー・ヒルディアの命令だ。門を開けな』
リドナーが有無をいわせぬ強い意志の籠もった声で勧告を下した。
霧の中に響く軋む音を立てながら扉が外側へと開いていく。
門が完全に開いたところでディアナを先頭に楠木達は門をくぐる。
門を抜けた先は小さな広場となっていた。
右側には櫓へと登るためのハシゴが立てかけられ、その脇には扉の開閉用とおぼしき機器と文字が浮かぶ一握りほどのガラス玉が接続されている。
左側には、旅人用の足洗いもしくは運搬動物の水場でもつかっていたのだろうか、涸れた水場。
薄い霧の向こうには、平屋の家々がちらほらと軒を連ねているが数が少なく、静まりかえっている雰囲気も合わせて、どこかもの悲しさを覚える。
先ほど顔を覗かせたミオレイドと老人と老女が門のすぐ側に集まっており、門をくぐってきた楠木達を不安と物珍しさが混じった顔で見ていた。
ミオレイドが飛び出してくると、ディアナへと駆け寄り抱きしめる。
『大丈夫。怪我とかしてない?』
『うん。ごめんねミオ君……心配かけて。大丈夫だから。ゼン爺もカナ婆ちゃんもごめん』
少し照れているのかぐずりながらも僅かに頬を染めたディアナが、ミオレイドや老人達に頭を下げ謝っている。
『ディアナ様。ご無事だったようで。よがったよ』
ゼン爺と呼ばれた皺だらけの老人が人の良さそうな笑顔を浮かべて、ミオレイドに抱かれるディアナへと笑いかけた。
老人の姿をみたディアナはミオレイドの腕から抜け出ると老人の手を握る。
「ふぇ……ゼン爺。ぐす……生きてるよね。皮と肉だけになってないよね。ちゃんと骨あるよね」
姫桜の幻覚がトラウマになっているディアナは何度も手を握りしっかりとした感触を返すか確認しはじめた。
「どうしただディアナ様? 儂は先生と若先生のおかげでぴんぴんしとるでよ」
ディアナの突然の行動に困惑した顔を浮かべた老人がミオレイドに目で尋ねる。
しかしディアナの身に起きたことが判っていないミオレイドの方も答えようがない。
『ゼンさん好きにさせてあげな。ディアナ様随分怖い目あったみたいだんで。ところで若先生、そちらの方々がぁ? 聞いてりゃけど紹介してもらえんかねぇ』
固まっている男二人を見かねたのか、痩せた骨と皮ばかりの老女が仲介に入り、紹介してほしいと楠木達を視線で指し示す。
『はい……僕の父と母です。それにチクシ先生を迎えに来た方々だそうです』
ミオレイドの紹介に老人達がざわめくとリドナーが一歩前に踏み出した。
「ご老人方お初にお目に掛かる。十二聖人が一人『四月の書』リドナー・ヒルディアだ。私の後ろに控えるのが魔導騎士ファラン。後ろのお二人と肩の小っちゃな御仁が異界のお客人だよ」
背後のファランと、その横に控えた楠木達をリドナーを一人一人指し示してリドナーが紹介する。
『これはこれはようこんな辺鄙な村まで。生きとる間に聖人様お二人にお目に掛かれるなんてぇ光栄ですわ。それに異界の方まんで、長生きはするもんだで』
驚きの顔を浮かべた痩せた老女がしみじみと呟きながら目を見張る。
現世日本で言えば聖人とはその国の最高指導者とも匹敵する存在。早々目に掛かる者ではない。
そしてカルネイドでは知識を導入する関係で異界の存在は知られていても、異界から訪れる人は少ないのだろう。
『お客人は兎も角、あたし等はそんなたいした存在じゃないさ。息子と娘が散々に世話になっているようで恐縮するのはこっちの方さ』
『リドナーの尊大だ。まったく……夫婦共々に深く恩義を感じています。ミオレイドとディアナをお助けいただきありがとうございます』
恐縮した様子を見せる老人達にリドナーがふっと微笑みを浮かべ深々と頭を下げ、後ろに控えていたファランが咳払いをして注意し言葉を改めて老人達へと礼を述べる
頭を下げるリドナーとファランの様子に、ミオレイドとディアナがばつの悪い顔をうかべた。
リドナー達が出奔したミオレイドとディアナの二人を強く心配していた事。
そして行き場のない二人を快く迎えてくれたであろう老人達に対して心より感謝していること。
親の心子知らず。
自分達の行いが剛胆なリドナーにさえ強い負担を与えていた事に改めて気づいたのだろうか。
『頭あげてくだされリドナー様。ファラン様。むしろ世話になっとるのは儂らのほうだで。ディアナ様が村の修繕をいろいろやってくださる上に、チクシ先生を呼んでくださって。んで若先生がチクシ先生に師事して薬をいろいろこさえてくれるんで村人全員が助かっとるんよ』
リドナー達の謝辞に老人達は申し訳ないといった顔を浮かべて何度も頭を下げ返す。
互いに礼を述べ合う緊張感が薄れた光景を見て楠木は肩へと目をむける。
「まったく。小っちゃいは余計じゃ」
楠木の肩に腰掛けた縁が釈然としない顔を浮かべぼそっと文句を吐き出していた。
どうやらリドナーの言葉が気に障っているようだ。
「抑えて抑えてせっかくいい雰囲気なんで。それに筑紫先生も無事のようですから」
召喚被害者である医師筑紫亮介はどうやらディアナ達に協力的のようだ。
状況は悪くない。不幸中の幸いだ。
そう思い楠木は心をさらに奮い立たせる。
自分は復讐者ではない。奪還者である。
どのような事情。
例えそれが世界を救う為だとしても、異なる世界から対価も無く、本人の同意も得ずに略奪する違法召喚は”絶対”に正しくない。
攫われた者と奪われた者達の縁を取り戻す。
奪われた者達の嘆き悲しみ怒りを深く知るが故に選んだ一本の真っ直ぐな道。
だが怒りに支配されてはこの後の一番重要な儀式。召喚者奪還は成し遂げられない。
異なる世界の者達の中でも、現世へと災いをもたらす者を魔と呼ぶ。
その魔を現世より祓いのける古今無双退魔神刀『縁斬り』としての異名が、縁のもっとも有名な代名詞
過去の縁の神官にして継承者達は、怒りと悲しみに飲まれ縁を振るい続けてきた。
怒り悲しみを背負うからこそ偽なる『縁』を断つ力となる。
だがそれだけでは足りない。
縁の真名は救心神刀『退魔捜世救心縁』
喜怒哀楽。
喜び楽しみを知りそれを大切に思うからこそ、切れてしまった真なる『縁』を紡ぐ事ができる。
偽りを断ち、真を紡ぐ。
それが楠木の在り方だ。
猟や畑仕事に出ている他の村人も呼んでくるという老人達に対して、それはまた後ほど用事が済んだら改めて挨拶させてもらうとリドナーが軽い断りを入れ、ディアナ達が今現在居住するという診療所兼住居へと向かう事となった。
村の中には楠木が最初に感じた通り人気が少ない。
猟や畑仕事に出ていることを差し引いて考えても活気が少ない。
長い事空き家となっていたとおぼしき朽ちかけた建物も、ちらほらと見受けられる。
新しい街道ができて、人や物の流れが変わり、便利な街へと若い者が次々に出て行き、残るのは年寄りばかり。
過疎化し地域社会の機能が著しく低下した状態では、いろいろな物が不足がちになっている事だろう。
「なるほどね……この世界でもあんまりこの辺は変わらないか」
今の日本の山間部と似た風景を、異世界の村で楠木は感じる。
被害者である筑紫亮介は若いときは最貧国に、日本へ帰国してからも限界集落が数多く存在する過疎地域へと自ら志願して赴任するような医者であったという。
この村の現状を見て、筑紫亮介という医者がどのような感情を抱くのか。
先ほどの老人の話もある。想像するのはそう難しくはない
「縁様……呼応してるかもしれねぇな。その場合ちと説得が面倒だな」
あごに手を当てた楠木は微かに眉を顰める。
異界に新たなる家庭を築いた者。
現世で叶えられなかった夢や栄光を掴んだ者。
純粋に召喚者の境遇に共感を覚え助力しようとする者。
理由はそれぞれの事情で異なるが、 召喚者の中には現世への帰還を拒む者も度々現れる。
「ふむ……楠木。妾は好まぬがあの戯け異神に予測状況を送れ。あやつの副業の出番やもしれん」
縁も同じ考えに到ったのか極めて不機嫌な憮然とした顔を浮かべながら楠木に命じる。
縁が言うのは特三の管理である金瀬八菜。
彼女は交差外路の管理人である以前に、もう一つの顔を持つ。
それが異世界派遣業の総元締めという縁が嫌う役目だ。
「はい了解です」
縁へと軽く返事を返した楠木はポケットから携帯を取りだし手早く指を動かす。
瞬く間に状況報告のメールを製作した楠木は世界間交信状態へと変えて、メールを八菜へと送った。
公私共々いろいろと忙しい相手ではあるが、その処理能力は文字通り神懸かっている。
しばらくすれば返事が返ってくるだろう。
楠木が携帯を折り畳んでしまうと同時に先頭を歩いていたミオレイドの足が止まった。
『つきました。ここです』
ミオレイドが案内したのは、元々は宿屋か商店につかわれていたのか平屋ばかりの村の中では目立つ二階建てとなった建物だ。
建物の横には庭が広がり小さな菜園らしき物もあった。
「あら楠木様。あれはヨモギでしょうか?」
庭の菜園へと目をむけていた姫桜がそこに植えられた植物を指さす。
姫桜の指さす先には裂けた形状の裏側には産毛が生える深い緑色大きな葉が特徴的場草が生えている。
しかし野草の知識を持たない楠木にはそれがヨモギなのかと聞かれても答えようがない。
ヨモギと聞いて思いつくのは縁が好きな和菓子屋の一つ三百円もするやたらと高いヨモギ饅頭くらいだ。
「ん? 縁様。判るか?」
鑑定をあっさりと諦めた楠木は、肩の縁に答えを委ねる。
「蓬で間違いない。妾達の世界に関わり合いのある者。筑紫亮介がここにおるのは確かなようじゃな……それよりも楠。蓬くらい判らんのか。妾に聞けばどうにかなるなど楽を覚えおってからに。この木偶の坊が」
「いやほら高校中退で頭が悪いから。博識の縁様のおかげで助かってますよ」
苦笑気味に答え楠は頬を掻く。
仕事関係や剣道関連ならともかくそれ以外となるとどうにも疎く、かといって勉強する時間もない楠木にとって、長く生きているため幅広い知識を有する縁をある意味便利な辞書。
それを縁も判っているのか不満げに楠木の耳を引っ張った。
『皆さん此方へ。先生は居間の方にいらっしゃいます』
「はいよ。いよいよご対面か」
そんなやり取りを小声でしている楠木達に、何を話しているのだろうと不安げな様子を見せながらミオレイドが手招く。
まさかこんな呑気な話をしているなど夢にも思っていないだろうと、楠木は苦笑を浮かべながら後に続いた。
『おんやぁ若先生。ディアナ様おかえんりぃ』
ミオレイドとディアナの二人が先に居間に入るとのんびりとした老婆の声が部屋の中から響いた。
『いきなー気づいたら村ぁだで、わてぇもえろう驚いたんよ。なんかぁ巨人に運ばれたらしいけど覚えたらんしぃ、ディアナ様になんかぁあるんか心配して若先生も慌てたご様子んだったんよぉ』
『うわーん! よかったリーナ婆ちゃんも生きてる! もう会えないかと思ったよぉ!』
『どうなさったんよぉディアナ様?……そちらの方はどちらさんでぇ?』
楠木達が部屋の中に入ると日当たりの良い窓際で椅子に座っている老婆にディアナが抱きついていた。
老婆はどうやらミオレイドの代わりに留守番をしていたようだ。
その膝の上には一歳くらいだろうか。小さな幼児が抱きかかえられている
その幼児は泣いているディアナを不思議そうに見ながらも、自分の身体ほどもある大きな本をぱたぱたと開いたり綴じたりして遊んでいる。
「あらあら感動的な場面ですね」
うれし泣きをするディアナを見ながら姫桜がクスクスと笑う。
自分がディアナをそこまで追い込んだというのに、全く罪悪感を感じさせないほほえましい顔だ。
「ふん。諸悪の根源が白々しい……それよりも楠木。あれが筑紫亮介のようじゃ」
鼻を鳴らして姫桜を睨んでから、優菜達から受け取った縁を感じ取った縁が老婆の膝の上を指さす。
縁が指し示すのは本を抱えた赤ん坊だ。
「幼児化ね。人間状態ならそこまで戻すのは難しくねぇか」
なるほどこれがディアナが言っていたすぐに返せない理由か。
だがこの程度の変化なら戻すのは容易いと楠木が安堵の溜息を吐こうとした所でミオレイドが申し訳なさそうに声をかけてくる。
『あのすみません……あれは僕とディアナの息子で……そのチクシ先生は。息子が抱えている本の方なんですが』
ミオレイドの言葉に敏感に反応したのは楠木ではなくその両親だった。
さすがに予想外だったのかリドナーが額を抑えながら、ミオレイドとディアナを睨み、ファランがぴっしと固まっている。
『男の顔じゃなくて父親の顔かい…………ガキ共がガキ作ってたと。親にあれだけ心配かけている間に自分達はよろしくやってたと』
沸々とした怒りを抑えようとしているリドナーの声にミオレイドとディアナの二人が萎縮して身を縮めた。
『ディアナ……あたしと久しぶりに顔を合わせたときにそんな事を伝えようともしなかったねぇ』
リドナーが言うのは、ディアナを最初に捕縛しようとして返り討ちにあったというときのことだろうか。
『だ、だってあのとき師匠。お、怒ってたから。赤ちゃんが生まれたって、いえる雰囲気じゃ』
実力的にはディアナの方が勝っているが、リドナーの怒りが極めて強い事を察したのか、ディアナが後ずさりミオレイドの影に隠れる。
『……クキの姫さんだけで勘弁してやろうかと思ってたけどそうもいかないみたいだねぇ』
『落ち着け。今は他にやる事がある……それに男女の仲だ。少し早すぎただけだと思おう』
ククと喉の奥で笑い凄味を増しその真紅色の目が強く輝いているリドナーの肩を優しく叩いたファランがなだめる。
その口調は部下として仕える者としてではなく、夫としてまた父親としての物であった。
「とりあえずリドナーさん、ファランさんよ。お二人さんに初孫おめでとうと祝いの言葉を送らせてもらうわ……んで肝心の被害者は姿が本になってると」
古いハードカバーに使われている動物の皮のような表紙。
縦横の長さは雑誌ほどで厚さはさほどなく薄く、幼児ですら持てる程度には軽い一見なんの変哲もない古びた古書。
これがカルネイドにおける筑紫亮介の姿。
少し厄介なことになったと思ってはいるが、楠木の心にはさほどの驚きはない。
大観衆の前から消えた歌姫は、言えず動かず無反応の石像となっていた。
都市一つ分の人命が変化したカジノの高額チップ。
魔王城と化していた某国のミサイル搭載潜水艦通称BOOMERと、滅びの雷と恐れられていた核弾頭搭載SLBM。
洗脳怪電波を垂れ流す龍として暴れまわっていた対東京タワー奪還戦。
過去の奪還対象達を思い浮かべ、楠木はこの程度はまだ序の口だとにやりと笑って見せた。