奪還篇 山奥の名医⑤
沢へ降りていく脇道を進むリドナーに、ディアナは未だ震える右手を引かれながら顔を俯けて付いていく。 リドナーの話ではこの先でファランが、汚れてしまった身体を拭くための湯を用意してくれているそうだ。
孤児であったディアナを引き取り育ててくれた師であるリドナーと、その夫である魔導騎士ファラン。
ディアナは二人には大恩という言葉も軽いほどの恩があり、道を違えた今は複雑な思いがあるがそれでも強い敬愛の念も抱いている。
姫桜によって殺されたと想っていた彼等が生きていてくれた事は何よりも嬉しい。
しかしそれでもリドナーに対する気まずさや溝が埋まるわけではない。
異界へと渡り新たな知識を得る重要な役目を放棄し出奔した聖人。
リドナーとファラン。二人の大切な一人息子を拐かした娘。
師匠の信頼を裏切り説得に対して力で反抗した『元弟子』
異世界より筑紫亮介の召喚を行った違法召喚主。
異界関連知識が書き記された聖書『四月の書』の聖人にして、カルネイドの異界関連事項を管理する最高責任者そしてミオレイドの実母。
リドナーの立場からすれば、今のディアナは公私共々に敵対者のはず。
このままリドナーのペースで進めば、ディアナが連れ戻されることになるのは間違いない。
聖人としての役割を果たすために異世界に送られるか。
それとも罪人として一生幽閉されるか。
どちらにしてもせっかくできた”家族”と引き離されるのは間違いない。
それだけは絶対嫌だ。
かといって玖木姫桜に叩き折られた心には、再度刃向かおうと思えるほどの気力は残っていない。
自分は今どうすればいいのか、どれだけ考えても答えが出ず、迷子の子のようにリドナーの後をついていくことしかできなかった。
一方でリドナーも表情には出していないが、どうにもやりにくさを感じていた。
優秀で可愛くもあるが小生意気な『弟子』で、実の子と変わらずに時に叱り時に愛情を注いだ養女。
ディアナは今でもリドナーにとって大切な家族。
とりあえず頭に拳骨の一つでも落としておけば、昔の関係に一瞬で戻れるかと思っていた。
しかし先ほどのように号泣している時に叩くのはさすがに可哀想であったし、今のようにただ黙ってついてくるようなしおらしい態度をとられると今更やりにくい。
そして何よりディアナとの距離感がとりづらい。
口に出して説明するのは難しいが、自分の愛弟子にして義子はこんな娘だったかという違和感だ。
リドナーの知るディアナはともかく小生意気で強気の娘。
しかし今のディアナは姫桜によって叩きのめされたとはいえ、あまりにも弱々しすぎる。
それにリドナーの手を握りかえすディアナの手の強さやその動きにどうにも遠慮のような物を感じる。
(まいったねこりゃ。クスノキのいってた事が大当たりかい)
来訪者楠木が注意点として伝えてきた話を思いだして、リドナーは心中で嘆息をつく。
楠木から聞かされた時はそれはいくら何でもないと否定してみせたのだが、ディアナの一歩引いた態度から急に現実味を帯びてきていた。
(まったくほんと難しいもんだね。母親なんて……そして父親は甘やかせばいいってかい)
ファランとの打ち合わせていた河原へと降りたリドナーは、ファランの沸かした”湯”をみてもう一度心の中で溜息を吐き出した。
不意に前を歩いていたリドナーの足が止まり、顔を俯けて考え込んでいたディアナはその背中に軽く当たってしまう。
「あんたねぇ…………あたしは身体を拭く湯を沸かしくれっていったんだけどね。誰が岩風呂を作れっていったんだい」
「術を使えばたいした手間じゃない。気にするな」
呆れかえったリドナーに対して、微かに不機嫌そうなファランの返事が返ってくる。
出奔してからは一度も会っていなかったファランの声にディアナは俯けていた顔をそっとあげる。
リドナーのように真紅の目立つ石瞳ではなく、あまり目立たない髪と同じ茶色が掛かった石瞳。
ずば抜けて背が高いわけでもなく、かといって低いわけでもない。
精悍な顔立ちでもなく厳つい顔でもない。街中ですれ違っても記憶に残らないような地味な容姿。
所謂ありふれた中年の容姿と存在感で唯一目立つといえば騎士姿くらいのものだ。
それがリドナーの懐刀と呼ばれるディアナの養父ファラン。
懐かしい養父の姿は離別したときのまま。あまり変わっていない。
こうやって変わらないファランに会えたことに、ディアナは嬉しさを覚えていた。
眉間に皺を寄せながら立っているファランの横では湯気は立っている。
どうやら河原が広く浅く掘ってから、術で石を敷き詰め露天風呂としたようだ。風呂は湯気を立てる温かそうなお湯で満たされていた。
「……お、おじさ」
「そこの木の裏側で見張りをしている。終わったら声をかけてくれ」
懐かしさからファランに話しかけようとしたディアナだったが、その声を遮るようにファランはリドナーへと言葉少なに告げると、少し離れた太い木を指さして、ディアナ達の横を早足で通り過ぎていった。
声をかけるどころかファランはディアナを一瞥すらしなかった。
ファランはきっと優しい言葉で慰めてくれる。
そんな甘えがディアナの無意識にはあった。
ファランの態度に自分の無自覚の甘えに気づき、そして予想が外れたことにディアナは愕然とする。
いつでも優しく自分を守ってくれる存在。
それがディアナの中のファランだった。
ファランに無視され、弱り切っていたディアナの心はさらに抉られる。
「っ……ぅ……ぅぅ……しっひょう……お、おじさん……おこってる。あたし……っぅ……き、嫌われ」
ボロボロと泣き出したディアナをリドナーちらりと見てから、ファランが身を隠した木へと視線を向ける。
「まったく。これだから男親は……ほらディアナ。泣いてないでとっとと服脱ぎな……ってそれも二度手間か」
リドナーが空いていた右手をさっと振る。
するとディアナの着ていた服が淡く光り始め、ついで服や靴のあちらこちから何十もの細い文字列が変化してほどけて糸のように抜けていく。
文字こそがカルネイドを構成する最大要素。
人。鳥。魚。木々や大地まで。この世界カルネイドの全ては文字が基礎にある。
無数の文字が集まり単語となり文章となり一つの存在となる。
リドナーの行った術は、物質を原初の状態へと戻す術で、聖人の基本技の一つだ。
身につけていた衣服を文字へと変化させられディアナは瞬く間に全裸になる。
ディアナから離れた衣服は光る文字となりリドナーが広げる右手の上へと集まっていた。
「さてとこれでいいね」
リドナーのいきなりの行動にディアナが呆気にとられていると、リドナーはディアナの手を握っている左手を振る。
「ふぇ!? え!?」
リドナーによって身体を強く引っ張られたディアナはつんのめるように前へと数歩進み、そのまま湯船の中に頭から飛び込む羽目になった。
「ぇご! けほけほ……し、師匠ぅ」
頭から落ちて気管に入った湯を咳と共にはき出しながらディアナは水面へと顔を出す。
「なんだいその目は。馬鹿弟子の汚れた服を綺麗にしてやろうとしている師匠に対して失礼だろ。ほらそんな事よりちゃんと使って汚れをおとしな。いい若い娘が小便臭いなんて…………恥ずかしくないのかねこの娘は?」
風呂の脇に置かれた石の上にリドナーは座りディアナを軽く睨みつける。
リドナーの赤石の瞳に微かに光が灯る。
これはディアナを説教する時のリドナーの癖だ。
「う…………うぅぅ」
実際に醜態をさらした後では反論もできずディアナはただ羞恥心に頬を赤く染める。
「おやさすがに恥ずかしかったかい。じゃあ見ないでいてあげるさ。とりあえず服から汚れの文字列を除去するからしばらく浸かってな」
ディアナから視線を外したリドナーは、右手に持っていった絡まり合った文字の塊へと左指の中指と人差し指を当ててまさぐり、時折汚れを示す文字列を見つけてはつまみ弾き飛ばしていく。
リドナーは軽々とやっているように見えるが同じ聖人。しかも自他共に認める天才であるディアナの目からはそれがどれだけ力加減の難しい作業かよく判る。
原初の文字状態は移ろいやすく変わりやすい。ちょっとでも力が強かったり触れる場所を間違えれば、服を構成する文字を壊すことになる。
そして奇しくもこの術はディアナが今もっとも必要とする技術だった。
「し、師匠。その技って!?」
「ん。これかい。あんたは力だけならあたしより上になったけど、こういった細かな扱いはまだ教えてなかったからね。慣れれば家事にも使えるんだよ案外ね。まったく天才の弟子を持った師匠は大変だよ。いろいろ教えてやる前に聖人になっちまうんだからよ。挙げ句の果てに大問題まで起こしてさ。もっと無能な弟子なら、とっととあたしが蹴りをつけられたんだけどね」
ディアナの驚きの意味を取り違えたのか文字をより分けながら懐かしげに語っていたリドナーだったがその口調が急に重くなった。
本題へ入ろうとする様子を察して、ディアナは驚きを抑えて思わず身体を硬くする。
「ディアナ……なんで逃げたまま大人しく隠れてなかったんだい。無断召喚とそれによる薬草の記述に裏とはいえ市場への流通。すぐにばれるに決まってるじゃないかい。しかもあんたが新しいポータルポイントを作った所為で世界のバランスまで崩れてるんだよ……ねぇディアナ。何でこんな事したのか教えてもらえる?」
リドナーに強く詰問する雰囲気はない。あえて例えるならそれは子供の心配をする一人の母親の声とでもういうべきだろうか。
リドナーが師や聖人としての立場ではなく、今はディアナの養母であろうとしてくれている事。
そしてディアナのことをどれだけ心配していてくれたのか。
何処か寂しげにも見えるリドナーの姿にディアナは初めて気づく。
「……だ、だって、助けてもらった村のお爺ちゃんお祖母ちゃん達が大変だったから。新しい街道ができて旅人いなくなって、若い人も出ていちゃって人も少なくなって、貧乏だったの」
この辺りは『ドノマの霧山』と呼ばれ、酷い時期には一日中濃い霧が立ちこめ、その中に盗賊や凶暴な獣が姿を潜めていることも多々あった。しかし山越えのできる唯一の街道としてそれなりの人の通りがあった。
それが20年ほど前に難儀な道のりを嫌った交易商人や旅人達からの要望で、麓に広がっていた大湿地帯を干拓して、新たな街道が敷設されそれに伴い幾つもの新しい街が作られた。
それ以来大変な山越えの道の人通りはめっきり途絶え、時代に取り残された道と村々だけがひっそりと取り残された。
若者は働き口を求め次々に村を出て行き、残ったのは愛着を持った年寄りだけ。そんな村の一つへと出奔したディアナ達は流れ着いた。
逆に過疎化が進み人の出入りがあまり無い村だったことが、歴代でもっとも若き聖人として顔の知られはじめていたディアナが隠匿するには幸いしていた。
「今のカルネイドのお薬は全部稀少な鉱物や薬草を使うから……一昨年の冬に村で流行病が流行って……でもそのお薬買うお金もなく……だから治せる薬とその知識を持つ人を喚ぼうって……それでチクシ先生喚んで」
「それで無断召喚かい。あんたそれは人攫いと変わらないって昔話してやっただろ。あんたはそれも忘れたのかい?」
ディアナはうつむき首を横に振る。
同意無き召喚がカルネイドでは認められない事は判っていた。
だがそれしかディアナには選択肢がなかった。
好きな村人達と好きな家族両方を守るためには。
「……判ってたけど。来てもらって教えてもらったらすぐに帰せばって……でも……でも、喚ぶことはできたけど……チクシ先生が帰せなくなって……だけど先生。気にしなくていいよって。村の人達助けられてよかったねって言ってくれて……だからちゃんと帰してあげようって。どんな事してでもって」
あの時の後悔を思いだしディアナは言葉に詰まる。
村は救いたいという強い気持ちはあったが、その為に恩人を不幸にする気など毛頭無かった。
返還できないと告げた時、チクシリョウスケはディアナ達を責める事は無かった。異世界へと連れてこられた本人がショックを感じていないわけがないのに。
「いろいろ考えて思いついたの。ちゃんと元の世界に元の状態で帰す方法。でも使うにはあの時のあたしの力だと全然足りなくて。それで師匠が昔教えてくれた、ポータルポイントつくって流れ込んでくる力を自分の物にする術を思いだして必要な力を得ようって…………」
ここに至るまでの経緯を全てを吐露したディアナは言葉を無くし俯き黙りこくる。
改めて口にしてみれば、どのような理由がありどう弁解しようとも、法に当てはめれば自分が重罪である事に変わりはないと嫌でも気づかされる。
だがどうすればよかったのか。どうしたら間違えなかったのかは判らない。
ただ自分は好きな人達と一緒にいられればよかったのに……
それがディアナの本心であり切なる願いだった。
「アレは話半分で聞かせただけだから教えたって代物でもなかったんだけどね。召喚術もそうだけどほとんど独力でやっちまう辺りが本当にあんたが天才っていわれる由縁だね…………それにしても嫌になるね。他人どころか、来たばかりの異世界人のクスノキの方が、あんたのことを判ってるんだからね」
自虐気味な口調でリドナーがぽつりと呟いた。
「ディアナ。顔あげて。ちゃんとあたしの顔を見な」
背を向けていたリドナーがいつの間にやら振り返りディアナの顔を見つめていた。
「ディアナ。あんたさ……あたしの事を信用してないだろ」
そう告げたリドナーは今までディアナがみた事が無いリドナーの表情だった。
とても悲しそうでもあり、そしてとても怒っているようにも見えた。
「まぁあれだな。お嬢ちゃんの境遇を考えるとある程度の推測は楽だった。事情ありとはいえ親無しの拾われ子。しかもこの世界で最も重要な聖人と成れるかも知れない才能の持ち主とくれば、本当に小さい頃はともかくある程度でかくなれば、自ずと自分の立ち位置を悟るだろうよ」
楠木が予想した事。
それはディアナはリドナーに対する強い敬愛と共に、どうしても拭いきれない不信感が胸の奥底にあるというものだ。
自分が拾われたのは聖人と成る才能が有るから。
聖人にならなければ自分は捨てられる。
そんな脅迫観念が無意識とはいえあったのだろう。だからこそ才能があったとはいえ、史上最年少の聖人となり得た。
「そして努力の末に聖人になったはいいが、今度はあらゆる意味で遠いそれこそ時間の流れも違う異世界に行ってこいとくるだろ。せっかく恋仲になった恋人と離れてな。しかも恋人はそのリドナーさんの息子。大切な息子を拾った娘になんかやれるかって、姑のいやがらせってな。っていうか、そんな根も葉もない噂が実際あって、それを耳にした嬢ちゃんは信じちまったんだろうよ」
その悪意に満ちた噂の出所は年若くしかも孤児であったディアナに聖人の座を取られた他の聖人候補の親類縁者。
城持ちのリドナーを見ていれば判るが、聖人ともなれば大きな責任を負うが同時に多大な利益や役得もあり、そしてその恩恵は近くにいる者にも恵まれる。
利益を奪われたという逆恨みからの妬みや恨みから出た悪意が、ディアナの心の底に棘のように刺さった不信感を増大させ出奔という事態へと陥らせた。
「そんでもってリドナーさんの言っていた嬢ちゃんの印象。小生意気で強気ってのは地もそれなりにあるだろうが大半は虚勢って予想してた。聖人候補となった段階で嫉妬や妬みもそれなりに受けてたはずだ。そこに嬢ちゃんが孤児ってのをプラスすると、大抵の人間は卑屈になるか逆に強気で押し切るかってな。まぁそこらは姫さんにやられてすぐに折れたの見ればどっちかなんてよく判るだろ」
「…………ぐだぐだ説明はよい。結論を述べよ」
軽い口調で説明をする楠木と違い、縁の声には隠そうともしない不機嫌と怒りが籠もっている。
しかしその縁の怒りを向けられた楠木は意にも止めず軽く頷き返す。
「嬢ちゃんの精神を姫さんで一回完全ぶちこわし。んでもってその後でリドナーさん達で癒し。リドナーさんに対する不信感を取り除くってのが肝だ。それが今の最終段階」
「楠木……お主。自らのやり口をどう思う。弱みにつけ込み情を操る。いつものお前の手じゃ」
目の前に浮かぶ縁がプルプルと震える拳を握り締め青筋を立てる姿を見ながら、地面に直接正座させられた楠木はどう答えた物かとしばし迷う。
推測を建てた後は一応裏付けやら確信を得るために周囲への聞き込み。場合によってはこの世界で恐れられている姫桜の威光を笠に着ての脅しにすかしに、情報提供代として持ち込んでいたこの世界の金銭での買収まで。
とりあえず時間内で集められるだけの情報を集めて推測を予測へと昇華。
後は推測に合わせてもっとも効果のある懐柔策を計画実行。
今回は姫桜がいるので力業の心配も無かった。
今はまだディアナの説得まで辿り着いてはいないが、リドナー達はディアナを心底から可愛がっている。
説得という名の懐柔策はおそらく上手くいくだろう。
「そりゃ卑怯者ってことで。ほら縁様も知ってるでしょうが俺の代名詞『卑怯悪辣な正義の味方』って。本当に言い得て妙って奴ですね」
やった事やら狙いから考えるととても褒められた物でないなと思いつつ楠木はとりあえず高らかに笑って返す。
「くっ! 笑うなこの戯け! 貴様の悪評は妾の悪評じゃぞ!」
場の雰囲気を和ませるように笑ってみた楠木だが、それが縁の怒りを逆なでする。
もっとも楠木もこの辺りは承知の上だ。
真面目な者を見るとからかいたくなるそんな悪癖が楠木にはある。
「いやほら笑うのはトランス状態へと向けてテンションをあげてる副作用ですって」
奪還の総仕上げの祭事に必要な縁との一体感を得る。所謂トランス状態へと到るには少しずつ精神を高揚させていく必要がある。
自らの策が成功する達成感とさらに悪癖で得た精神高揚を使い楠木はトランス状態へと到る。
「ならもっとあげてやるわ! 玖木の娘! そこの石をもってまいれ! この阿呆の膝につめ! 痛みで精神高揚をあげてやるわ!」
楠木のテンションのあげ方は縁も十分承知しているがそれでも腹が立つのは腹が立つらしい。
楠木と縁のやり取りをクスクスと笑いながら見ていた姫桜を呼び。近くに転がっていた軽く見積もっても百キロはくだらないだろう大きな石を指さす。
「はいかしこまりました。その前に地面に正座させられた楠木様が寒そうですので、この石をよく温めてからにしますね」
縁に呼ばれた姫桜は着物の袖をまくって石に手を掛けた。
見た目は箸より重い物は持ったことはないといった細腕。
だが姫桜はその細い片手で重たい石を苦もなく軽々と持ち上げたかと思うと、さらには硬い石に対してまるで発泡スチロールのように指をズボッとくい込ませた。
姫桜の指がめり込んだ辺りから石の表面が赤色化していき、生えていた苔がプスプスと煙を立ちのぼらせて瞬く間に焦げていく。
「いや姫さん。それは温める通り越して焼き石の処刑だっての。まぁ気持ちはありがたいんで、どうせなら姫さんが膝の上に乗ってくれた方が気持ちいいし温かい。ついでにテンションも上がるだろうし。ほれ俺も男なんで」
「あらあら。それでしたら喜んで」
「よし貴様ら二人そこを動くな。滝行にしてやろう。液状化した岩のな」
楠木がわざとらしいスケベ顔を浮かべて喉の奥で笑うと、姫桜も指に刺していた岩をポイと投げ捨てて楠木の膝に治まりながら楽しげな笑みで返し、縁は姫桜の投げ捨てた己の数倍はある石を空中で固定してさらに熱を加えて溶岩へと変化させ過激な発言を放ち二人の頭上へと移動させる。
テンションがあがり始めた楠木の軽口は増えていき、従者に呼応し縁も本来の姿である荒々しい神の性と立ち戻っていく。
騒がしく騒々しく。
『縁断ち縁紡ぎ』の祭事へと向けて楠木と縁は一見仲違いしているように見えながらも、着々と準備を進めていた。