奪還篇 山奥の名医④
背筋をうっすらと駆け上がる寒気に身を震わせながら、リドナーは目の前の鏡へと映し出される映像に見入っていた。
リドナーが写本により生み出した鳥が送ってくる映像を映し出す鏡は、森の中で地面に座り込んで泣きわめくディアナと、そのすぐ背後で実に楽しげな薄ら寒い笑みを浮かべる姫桜の姿を鮮明に写しだしている。
鏡越しの映像だけではリドナーからは姫桜が何を行っているのか判別ができない。
たまにディアナの耳元に口を寄せた姫桜が何かを囁いているようにしか見えないのだが、その度にディアナの顔は引きつり血の気が失せ四肢をばたつかせ泣きわめく。
「いやはや。ほんと化けもんだねあの姫さんは。噂には聞いてたけど、本当に敵にしなくてよかったよ。あのディアナに簡単に暗示を掛けて、あれで遊び半分だっていうんだから恐ろしいね……心底」
純粋的な戦闘力だけで見れば師であるリドナーすらも上回っていたディアナが、姫桜によってあっさりと手玉にとられ物の十分で心を折られた。
『殲滅の九鬼」
その異名が現すとおり玖木一族の本領は、敵対者を全て討ち滅ぼす対集団にあるとリドナーは聞いている。
無論、その当主ともなれば実力は折り紙付き。対個人も苦手ではないのだろうが、それにしても異常な手際の良さだ。
優秀で可愛い愛弟子ではあるが同時にどうにも小生意気で自信過剰だった天才児のディアナが、手も足も出ずに泣きじゃくるだけの無力な子供となっている様を、リドナーは冷静に見守る。
「すこしやりすぎだ……いいのか?」
落ち着いたリドナーとは真逆に横に立ち鏡を見つめる地味な容姿の中年騎士は渋面を作っていた。
側近魔導騎士であり夫でもあるファランの声に微かに苛立ちが混じり、私的な場以外では使い続けていたリドナーに対する敬語が形を潜めている。
「かまわないよ。あんたも納得してただろ。第一あの子達の勝手の所為でどれだけの人が迷惑してると思ってんだい……甘いんだよあんたは。それに他の十二聖人には『殲滅の九鬼』の戒めを受けさせるから勘弁してやってくれって頭を下げてるんだよこっちは。まぁこれとは別に後で私がディアナにはきっかり償いはさせるけどね」
「……お前はディアナに厳しすぎだ」
リドナーの意志が変わらないと察したのか深い溜息をこぼしたファランは泣き叫ぶディアナの狂乱した様に辛そうな顔を浮かべた。
男親ってのは本当に娘には甘いもんだとリドナーは肩を竦める。
これでもまだ温い方だというのはファランも判ってはいるはずだ。
ディアナのこれまでの行いはカルネイドに対する背信行為だけではなく、無断召喚と言う他世界に対する明確な敵対行為となる。
しかも相手は異世界条約を結んだ同盟世界であり、稀鬼院を筆頭とする悪名高い組織を抱える日本。
最悪、ディアナ諸共カルネイドを全て討ち滅ぼしかねない相手が、ディアナ個人に対する戒めで済ませ、他者の罪を問わないと言ったのはリドナーには存外の僥倖であった。
とは言ってもおそらく他のメリットがあり、軽い行為で済ませたのだろうと推測するのはさほど難しくない。
しかもその日本側のメリットも、リドナー達にとってさほどデメリットではないだろうとも気づいていた。
「ミオの方はあんたに任せるからね。しっかり叱っておくれよ……それにしても、あのお姫さんがあれだけ近くにいてもディアナは気づいてないみたいだね。一体どんな幻覚を見させられてるんだか。クスノキ分かるかい?」
ファランと反対側に立つ大柄な異世界人楠木に目をやりリドナーは尋ねる。
その楠木は鏡の映像に時折目をむけてはいるが、その目線の大半は自分の手元の掌サイズの黒い箱に向かっている。
リドナー達には判らないが楠木が弄るのは支給品の携帯電話型端末機。
荒事の時は自分の出番はまだ先だと知る楠木は、今のうちにと貯まっていた報告書や各世界の協力者から送られてくる雑多な情報へと目を通していた。
他世界で起きた違法召喚事件が現世での召喚事件に関連がある場合もあれば、こちらで掴んだ情報が他世界の事件を解決する鍵になるやもしれない。
それこそ新しい料理が作り出された、見た事の無いデザインの建築物ができたというゴシップ的な情報でも、その影には異世界召喚者いるではないかと疑う事もできる。
広大という言葉も生温い無量大数世界に対抗する為に、矮小な身である楠木の取る手はともかく人脈を広げるの一点だ。
だから常に協力者や将来的には友好関係を結べるであろう者達には、真摯でいようとした。
「存在が察知できないのは童謡『かごめかごめ』って奴。姫さんの得意技で後ろの正面。要はありとあらゆる意味での死角に入るって術らしい。俺も理屈は良くはわかんねぇが、あれでよく悪戯してくる……まぁ見せてるのは血みどろぐっちゃなグロ画像耐性者以外お断りな悪夢だろうよ」
顔を上げた楠木はリドナーの問いに丁寧ではあるが随分と伝法な口調で答える。
社会人として最低限の礼儀として敬語は身につけているが、どうにも似合わず嘘くさくなるのを楠木は自覚している。
だからリドナーに疑念を抱かせないためにあえて素の言葉で姫桜の能力を説明した。
姫桜の能力を明かしたところで、姫桜自身は意にも介さない。それだけ突出した実力の持ち主である。
『死角ね……頬とかに何度も触れているのに気づかないんだから段違いの術なんだろうね。ディアナには打つ手無しだねこりゃ。前に直接やり合った時はあの子は力だけは大きくなったけど、技その物はあたしと変わらないようだったからね』
現にこの世界カルネイドで聖人と呼ばれる有数の使い手であるリドナーですらも、姫桜の術の本質を聞かされてもすぐに対抗策が思いつかないようだ。
それは袂を分かったとはいえ弟子であり手の内もよく判っているディアナも同様のようだ。
「楠木。たまに思うんじゃが、あやつとっとと埋めた方が、世のため人のためではないか?」
定位置である楠木の右肩に腰掛けていた縁が鏡に映る楽しげな姫桜を見て、不機嫌に眉を顰めて半分以上本気が混じっているであろう意見を発する。
初対面の人間の弱点を突き憎悪を募らせる事に関しては天下一品。
憎悪を向けられれば向けられるほど、より力を強めていく玖木の特性。
精神鑑定を受けたのなら、軽く最低限ラインを下回り即強制入院コースとなってもおかしくない歪みっぷり。
立てば芍薬。座れば牡丹。歩く姿は百合の花……その性は三途の川に咲く彼岸花。
玖木姫桜をどういう人間だと人に問われたのならば、楠木はそう答える。
美しい薔薇には刺があるというが、姫桜の場合はその刺に猛毒が仕込まれているようなものだ。
「まぁ、そう言わないでくださいっての。あれで姫さんも毒は大分薄まったんだからよ。昔ならクスクス笑いながら相手を半殺しにして小馬鹿にしてから、周囲の殲滅に向かってただろ。んで絶望を与えておいて最後に殺すと……いやほんと性質悪いわ」
機嫌の悪い縁を宥めようとした楠木ではあったが、姫桜の過去の業績を思いだしてげんなりとした顔を浮かべる羽目になる。
姫桜が手を下す本人は楠木も自業自得だとは思うのだが、その巻き込む範囲があまりにも大きく苛烈すぎる。
殲滅の意味やその悪評がもたらす安全も心得てはいるが、違法召喚主本人は仕方ないにしても周囲は生かしておいてほしい。それが楠木の本音だ。
どうせなら必要な情報を絞り出せるだけ絞り出させてから……殺すならいつでもできる。
『……そういえば性質の悪さでは貴様もさほどかわらんかったな。反省しろ馬鹿者が』
楠木の心に一瞬浮かんだ暗くどす黒い影を見抜いたのか縁がさらに眉を顰め、叱りながらその耳を引っ張る。
軽い痛みと縁の言葉が僅かにズレ掛けていた楠木を正気へと戻す。
「反省しました……毎度毎度迷惑を掛けます」
目を瞑り自分の中に生まれた濁り汚れを出すように息をはいた楠木は謝辞を伝えると、縁は不機嫌に鼻を鳴らしそっぽを向いた。
「まったくこの若輩者は。貴様がそんなでは見出した妾の目が疑われる。精進しろ」
「あいよ。んじゃ反省ついでにそろそろ幕引きと参りますか。ではお二人とも出番といきますので頼みます」
「どこが反省しておる……この戯けは」
リドナー達に向け人の悪いにやりとした笑顔を浮かべた楠木の肩で、縁は楠木と姫桜どちらの方が性質が悪いだろうかと悩み始めていた。
『ひくっ……止めてよぉ……お願いだから……もう止めてよぉ……』
足下でついには啜り泣きはじめたディアナを見ながら、姫桜はクスクスと笑いを漏らす。
この程度のことで泣き出すなんてなんと可愛いのだろう。
さて次はどのような幻覚を見せようかと、姫桜は弾む心で考える。
切断した頭部を使って手まり唄でも詠ってみようか。
えぐり出した目でお手玉でもして見せようか。
生身の達磨落としも良いかもしれない。
大切な者。父親を奪われた筑紫優菜と筑紫優陽の痛みと恐怖を10倍返しで教え込んでやれといった楠木の言葉もあり手加減はいらない。
本来の『戒め』とは多少趣は違うが、これにはこれで快楽を覚える姫桜は、クスクスと微かな笑い声をたてていた。
幼児じみた残虐性の一面をもつ姫桜の遊び兼趣味はますます冴え渡っていく。
「壊さない程度に、でも二度とお痛ができないように徹底的に戒めてあげますからね……楽しんでくださいね」
ディアナの耳元で囁きながら姫桜がまたも新しい幻覚を送りこむと、ディアナがまた悲鳴をあげて苦しみ始める。
その泣き叫ぶ絶叫にうっとりとしながら姫桜が聞き入っていると、不意に腰に吊した巾着の中から琴の軽やかな音が響いた。
楽しみの最中に水を差される形となるが、姫桜は嫌な顔一つ見せない。
むしろ嬉しげにいそいそと巾着から特三特製の携帯電話を取り出す。
今現在姫桜の携帯番号を知っているのはごく少数。そしてその中で通話が可能な同一世界にいるのは楠木のみ。
そして楠木と話せるのなら姫桜にはどのような時であっても嫌がる理由など微塵もなかった。
「どうかなさいました楠木様? ひょっとして何か不備がございましたでしょうか。私、婦女子を虐めて泣かすような事は心苦しくて苦手ですので」
忍び笑いの混じった声で、姫桜は心にも無いことを宣うと、電話口の向こうからは楠木の呆れ気味の声が響いてくる。
『姫さん。どうみても絶好調なんだけどな。それ以前に姫さんの腕は信用してるんで不備が出るはずもねえだろ』
楠木の声には、姫桜も自覚している人と違う異常性に対する嫌悪は一切無い。姫桜のやっている下手な演技にただ呆れているようだ。
「あらあらお褒めの言葉ありがとうございます。敬愛する主に褒められるのは従者として最高の喜びです」
『さて姫さんお楽しみの所悪いがそろそろ幕引きだ。あと上司と部下な』
姫桜の冗談に楠木はいつもの返しをする。
異常な本質を表面に浮かべている時の姫桜と接しても、いつも変わらずにいれる楠木が貴重な存在であると改めて自覚し姫桜は微かな喜びを覚える。
「つれない御方……それはともかくとしてよろしいのですか? 些か早い気はしますが。もう少し反省させてからの方がよろしいかと」
わざとらしい切なげな吐息で楠木をからかってから、姫桜は声と表情を改める。
相手を殺さず潰すなら二度と反抗する気が起きないまでに徹底的に。
その観点からいくならばもう一押し二押しが必要だと忠告する姫桜に対して、楠木も真面目な声で返す。
『まぁ姫さんの判断を信じない訳じゃないし、優菜達の苦しみ考えるとちと甘いかもな……だけど次のことを考えるとこれくらいだな。リドナーさんはまだいけるがファランさんに無駄な恨みを買いたくない』
最後の方は小声になって楠木が待機している場の状況を伝えてくる。
場の雰囲気やリドナー達の心情から、これ以上ディアナを苦しめない方が得策だと楠木は判断したようだ。
次……また同じような違法召喚が起きた時に備え、相手方の組織が友好的であるならばある程度の信頼関係を作っておく。
これが楠木を初めとする『特三捜救』のやり方。
姫桜達が元来所属していた『稀鬼院』のやり方は、次を起こさせないための違法召喚主の世界への徹底した戒め。
次を起こさせないことが大切なのに、次に起きたことを考えて手ぬるい真似をするなど。
相反する考え方に過去の姫桜は、『特三捜救』。そしてその一番の体現者である楠木を忌々しく思っていた。
だが結局の所、『特三捜救』も攫われた人達を一刻でも早く奪い返すためにいろいろな策を講じているのだと楠木によって気づかされた。
その大元にある物は姫桜と変わらない。
自分達の世界と属する者達を守る。
そしてその楠木達の考えによって、姫桜も大切な弟も玖木に連なる者達も助けられた。
強大な力を有す姫桜に並ぶ化け物揃いで、無量大数世界の違法召喚主に恐れられる『稀鬼院』
規模が小さくとも強い信念と、絆を結んだ数多の世界の力を借り無量大数世界へと挑む『特殊失踪者捜索救助室』
どちらも間違ってはいない。
自分達の世界から見ればどちらも正しいやり方であるのだろう。
「クス……さすがは正義の味方ですわね」
楠木は数多くの召喚被害者を救おうと時間を割き救ってきた。そして楠木が救ってきたのは現世からの召喚者だけではなく、異世界の召喚者すらも多い。
召喚主が例えその世界の最高権力者であろうとも、望まない召喚によって無理矢理に連れ去られた者がいるならば救い出してみせる『最高の奪還者』
今はまだ小さく関わった世界の間でしか知られていない異名ながら、楠木の名は徐々に広まり始めている。
だがその一方で楠木が最初に救おうと決断した者の行方は未だつかめず。楠木にとって『正義の味方』は自虐でしかないと知りながら姫桜は口にする。
その自虐と負い目こそが楠木をより前に進ませると知っているからこそ。
『おう……つーわけですぐ向かうからその辺りで切り上げてくれ。ただ俺等がいく前に正気に戻ると厄介なんで』
「ご心配なく大丈夫ですよ。あら…………楠木様。リドナーさんにディアナさん用のお召し物をご用意して欲しいとお伝えください」
楠木の心配に対してディアナを見て笑って答えた姫桜は、微かな水音と僅かに濡れだしたディアナの足下に目をやり楽しげに笑う。
「どうやらディアナさんは、恐ろしさと恐怖の余り御失禁なされてしまったようですので」
『さすがは姫さん。この短時間でよくもまぁ……『恐怖』を与えることに関しては右に出る者はいねぇな』
「あら言ったではありませんか。楠木様の頼みとあらば鬼にでも蛇にでもなってみせますと」
感心半分呆れ半分の楠木の言葉に、姫桜は笑って答えてみせた。
「……ナ! デ…………アナ! ディアナ!」
お世話になった人が目の前で次々に惨殺されていく。しかもその殺人者は遊び気分混じりで死者の尊厳すらも気にしない。
見たことのない恐ろしい術。
受けたことのない強く邪悪な悪意。
度重なる衝撃でただ泣きじゃくっていたディアナが、自分の名を呼ぶ声にしばらく気づく事はなかった。
「目をさましな。あんたって子は昔から寝覚め悪いね。ほらとっと起きないと顔に落書きするよ」
呼びかける言葉に心が懐かしさを覚える。
幼かった子供の時に何度も言われ揺り起こされた記憶がディアナの意識を浮上させる。
泣いたままだが俯けていた顔をあげたディアナが最初に目にしたのは、宝石のように輝く赤い硬質の瞳だった。
混じりっけのない真紅の色はディアナがよく知っており、永遠に失ってしまったと思った人物の色だった。
「ふぇ……し、師匠? ……い、生きふぇるの? ……えぐ……ふぁんで? ふぁに……ふぉうなってるの?」
自らの漏らした小水で濡れる地面にぺたんと座り込んだまま、ディアナは涙と鼻水で汚れた顔で師匠であるリドナーを見上げる。
玖木はリドナーを殺して奪った真紅の目を舌で転がしながら、クスクスと悪魔の笑みでディアナを嬲っていた。
師匠は殺されたはずだ……なのになぜ生きているのか。ディアナは意味が分からず混乱したまま問いかける。
リドナーは軽い溜息をついてハンカチを取りだすと、汚れたディアナの顔をごしごしと拭く。
「……あんたは幻覚を見てたんだよ。落ち着いて周りを見てみな」
しょうがない子だねぇといった顔を浮かべてリドナーが告げる。
泣き顔のままディアナは周囲をゆっくりと見渡す。
つい先ほどまでディアナの周囲には、無数の肉と骨。そして不快な臭気を放ち吐き気をもよおす内臓が散乱し、苦悶の顔を浮かべる村人達の生首がいくつも転がっていた。
腰が抜けて座り込んだディアナの足元に貯まった血が、じわじわと服に染み込んできていたはずだった。
だがそんな物は一つもなかった。
「…………ここ……村じゃない」
ディアナは呆然と呟く。目にしたのはいつもの静かな森。
自分は村に帰ったはずなのに。そこであの鬼によって村人が次々に殺されていったはずなのに。
あの恐怖と絶望が全て幻だったというのか。
ではあの……
「……鬼も……幻?」
『あら鬼ですか? ひょっとしてこんな顔ではありませんでしたか?』
背後から声が聞こえたかと思うと、横から何者かがひょいっと飛び出してディアナの顔をのぞき込んできた。
微かな微少と愉しげな笑い声。そしてディアナ達とは違う黒い柔らかそうな異世界の目。
先ほどまでディアナを地獄へと叩きこんでいた女の顔。玖木姫桜だ。
「ひっぃぃ!」
ディアナは悲鳴をあげて地面を這って逃げ出すとリドナーの足にすがりつきながら振りかえる。
怖い。怖い。
笑顔を浮かべているこの存在が怖い。
心の奥底まで刻み込まれた恐怖感がディアナを震えさせる。
「クキの姫さん。少し離れていてくれるかい。話が進みそうもないんで」
ガタガタと震えて必死にしがみついてくるディアナの背中をリドナーが優しく撫でながら、呆れ顔を浮かべて姫桜へと告げる。
『あらあら……楠木様。私そんなに悲鳴をあげられるような邪悪で恐ろしい顔をしていますでしょうか?』
クスッと一つ笑った玖木は、目元に服の袖を当て下手な泣き真似をしはじめた。
一瞥で遊んでいると判る巫山戯た態度。だが先ほどもこの態度のまま虐殺していた恐ろしい女。
見るのも怖いが、目を離すのも何をされるか判らなくてさらに怖い。
結局、震える事しかできないディアナが玖木を見ていると、その背後から現れた大男がぽんぽんと軽く玖木の頭を撫でた。
『安心しろ姫さんは一度見たら忘れられない美人だから……いろんな意味で』
苦笑を浮かべる大男の肩には憮然としている小さな人が腰掛けている。あれは話にきく異世界の住人妖精だろうか。
『ふん。貴様の場合は顔よりも存在その物が邪悪なのじゃ……おい赤毛の小娘』
ディアナを指さした妖精が大男の肩を蹴って空中に飛び上がりディアナの顔の前に来る。
羽根も無いのに空中でピタと止まった妖精は、白と赤のゆったりとした細かな装飾をほどこされた服の裾をひるがえしながら、今度は玖木を指さした。
『貴様が何を見たかは知らんが……まぁだいたい想像はつくが……ともかく。あれは幻じゃ。だが此奴。鬼畜娘はやろうと思えばいつでも現実で実行が出来る。それだけの高い実力と腐った性根の持ち主じゃ』
『あら縁様に褒められてしまいましたわ』
縁という小さな少女の高い実力という言葉だけに、都合よく反応した玖木が照れたような顔でにこりと微笑む。
姫桜の態度に縁が忌々しそうに舌を打つ。
余計な茶々を入れるなと玖木を睨みつけてから再度ディアナへと目をむける。
『誰も褒めとらん……よいか赤毛の娘。これは妾の命じゃ。貴様が攫いし筑紫亮介をすぐに妾達に引き渡せ。さもなくばこの悪辣卑劣な輩共が何をするか。先ほどの景色を思い出せ……判っておろうな』
声と共に縁の目の色が徐々に深い銀色に染まっていく。
あふれ出す強い気配と荘厳たる声がディアナに先ほどの景色を思いだせと命令すると、それだけでも思い出したくもない記憶がディアナの目の前に浮かび、血みどろの景色が現実感を持って浮かび上がり視界を埋め尽くし始める。
「っ! っ!」
足元に貯まった血の池がびちゃびちゃと音を立て、吐き気が催すほどの死臭。あまりの恐怖に頷くことも首を横に振ることも出来ずディアナは強く震えて、唯一安心できるリドナーの足へとさらに強くしがみつく。
『いや縁様。それ命令じゃなくて脅しだっての。しかも言霊込みの相当質の悪い。つーか俺を姫さんと一緒にしないでくれ』
今まで黙っていた大男が声を発すると縁は不機嫌に眉を顰めて鼻をならす。
するとディアナの目の前に浮かんでいた地獄があっさりと霧散して消え去り、元の静かな森が戻ってきた。
『よう嬢ちゃん。怖がらなくても大丈夫だからよ。この神様は見た目ほど性悪じゃないからよ。先生さえ帰してくれればこれ以上怖い事はないからよ』
苦笑を浮かべた大男がディアナの前にしゃがみ込み目線を合わせてニカッと笑う。
しかしその笑みはどこか嘘くさい。
何よりあの恐ろしい玖木や異様な気配を醸し出す縁と親しげに話すその態度が、余計に恐怖を感じさせる。
得体の知れない大男から逃げるようにディアナが僅かに後ずさろうとすると、ディアナの背から手を離したリドナーが、ディアナと大男との間に割ってはいる。
「お三人。ちょっと待っててもらえるかい。先にすることがあるのさ」
ぱんぱんと手を叩いたリドナーが三人を止めると、ディアナの手を取り無理矢理に立ち上がらせた。
それからリドナーはディアナの全身を頭からつま先まで見て情けないねぇと首を振る。
泣きじゃくった顔は涙でくしゃくしゃ。服は泥まみれでしかも小水付き。どこからどう見ても年頃の女の子の格好ではない。
「全くこんなに汚れちまって……しかもお漏らしって。ガキだねぇあんたは。とりあえずこっちきな。身体拭いてから着替えだよ。ファランが湯を沸かしてくれてるから」
「ふぇ……師匠?」
未だ完全に泣き止んでいないディアナは、意味も判らないままリドナーに引き摺られていった。
リドナーに引き摺られていく泣き顔のディアナを見ながら、楠木はにやっと人の悪い笑みを浮かべる。
「さてと策はほぼ成功かな。後はお二人さんに仕上げをお任せと」
「ふん。やり過ぎじゃ。妾にまで嫌な役目をやらせおって……意固地になって返さぬと言ったらどうするんじゃ」
「その時はもう一度……となるとファランさんが黙ってねぇな。マジで姫さんと一戦交えかねないな」
不機嫌な目を浮かべて睨みつける縁の視線から逃れるように、楠木は頭をがじがじと掻く。
姫桜が負けるとは思わないが、厄介なことに変わりはない。
もっとも読みが当たっていれば、そういう事態にはならないだろうと楠木は楽観的に考えていた
姫桜も同じ考えなのかにこりと微笑む。
「そうですね。お二人にとってあのディアナさんは実の娘みたいな存在。袂を分かったとはいえ大切なんでしょう」
「まぁだからこそ飴が効くんだけどな。姫さんと縁様の鞭が強力な分。倍増ってな」
楠木の物言いに縁がますます不機嫌な顔になった。
「それじゃ……誰が性悪じゃ楠木! 一等性質の悪い貴様に言われとうないわ! 毎回毎回善人面しおってからに! 玖木の娘! 貴様もじゃ! こやつに頼まれたからといって少しは加減してやれ! さすがにあの姿と怯えを見て可哀想になったわ!」
縁は先ほど性悪と言われた事が不満なのか、楠木の肩へと飛び乗り耳を何度も引っ張っる。
姑息な回りくどい手を多用する楠木に対しては縁もいつも思う所があるが、今回は姫桜の全面協力もあるためかさらに質が悪い。
悪役を全て姫桜と縁に押しつけて、説得役はもとより強い関係を持つリドナー達に任せ、楠木本人は傍観に徹していた。
「ほら俺はリドナーさん達に対する飴だから。後ついでに人質。なぁ姫さん」
縁の説教に対して楠木はどこ吹く風で答える。
楠木からすれば何もしないのではなく、能力的に何もできないと言った方が正しいからだ。
年若い少女であってもディアナはこの世界の実力者である聖人の一人。楠木の力など遠く及ばない。
しかるにリドナー達を信頼させる甘い条件を出す飴役と、万が一姫桜が暴走した時の人質位しかやれる事がないという判断だ。
「私はリドナーさん達に対する鞭ですから。楠木様と私はやはりぴったりの相性ですね……閨での役割は逆ですけど。いつも私は攻められてばかりですので」
楠木に話を振られた姫桜は嬉しそうな笑顔を浮かべてからクスクスと笑うと、楠木は勘弁してくれと息を吐く。
「いや……どっちかって言うと姫さんの方がガン攻めだろ。歯で噛むは牙で噛み千切る。爪をたてて引っ掻いた上に、かぎ爪で傷口は抉るわで」
艶っぽいと言う言葉とは真反対の言葉。どちらかというと獣に襲われた表現した方が良い返しをする楠木を見て、縁の額に青筋が浮かぶ。
「っく! き……貴様らは! 少しは真面目にならんか! そこに座れ! 説教をくれてやる!」
縁がその小さな手で楠木の顔を力一杯に殴りつけていた。