夏の学校にて
その年は全国的に災害続きで、僕らの地元も例外じゃなかった。
夏休みが終わって間もない、まだ残暑の厳しい中、僕は久しぶりに地元の中学の校門をくぐった。
赤く長い髪を後ろで束ねた大人しそうな子が校庭で遊んでいる。僕の姿を見るとぱっと嬉しそうに肩を弾ませて、駆け寄ってきた。
「久しぶり!」
「久しぶり……香澄」
「人数全然居ないからさぁ、いま1クラスしかないんだよ。だから俺も一緒のクラス」
彼……香澄はにっこり笑った。
香澄と僕は以前から知り合い同士だった。一年生の時は同じクラスで、僕にこんな風に笑いかけてくれるのは香澄ただ一人だけだった。
彼について校舎の中を歩く。僕に嫌がらせをしてた連中の姿はない。そのことが嬉しいような、悔しいような、複雑な気分になる。
教室には向日葵の花があった。
香澄はそいつに水をやってにこにこ笑っている。香澄は花や小動物なんかをよく世話して可愛がった。枯れそうな花や傷ついた生き物を放っておけないみたいだった。弱い者を何の打算もなく助けた。
……僕のことも嫌な連中から庇ってくれていた。
僕は香澄を友達だと思っていたけど、対等な友達同士だって言い切るには、一方的に守られて助けられていた自覚もあった。僕らの事情を何も知らない別の学校の友達の方が、よっぽど対等な関係を築いてた。
香澄が向日葵の花に向き合って黙って水やりを続けるので、僕の方が口を開く。
「花って不思議だよね」
たとえばこの向日葵とかさ、と。
「不思議って?」
香澄は応えて、縦に長くて薄い綺麗な爪で花びらをはじいた。香澄の手を僕は綺麗だと思う。
「どう不思議?」
「ただ光の方を向く性質があるのを、一途だって思われるんだ。花は生きているだけ、自分が生きるためにそっち向いてるだけだよ。それでも太陽をずっと見ていることに人間が良い意味をつけたりする。……花は人間に、良いように思われすぎる気がするよ。それが不思議」
そこに咲いているだけで、好かれたり 特別な日の贈り物になったり 香澄に大事に世話されるんだ。
僕が言い終えると、「あはは」――――それは花が不思議なんじゃなくて、人の感じ方が面白いんじゃない、と香澄は笑った。きっと花を良いように思わない人だって居るよ、綺麗だと思うかどうかも、きっと人それぞれだ、だって
「俺は別に花とか、全然好きじゃないしね」
彼が笑いながらそう言った気がした、僕は自分の耳を疑って彼の方へ身体ごと振り向いた。
「……っ」
怯み、目が泳ぎそうになる。
「どうしたの?」
さっきの声が幻聴だったみたいに香澄はきょとんとして首をかしげている。
香澄の瞳の虹彩は向日葵の花が開いたようで 間近で見つめると少し怖かった。
学校から帰る途中、幼馴染の郁に会った。
と言っても、中学は別々の学校に通っていた。幼稚園と小学校までは一緒だったけど、僕たちの学区は二つの中学に分かれて進学する地域だったから。
「……今学校帰り?今ってどこの学校に通ってるの?」
「べつに、移動先も同じ方向にある学校だから」
「……ふーん」
こいつは無事だったんだな、ってほっとしてから、そりゃそうか、とも思う。
記憶に在る小学生のこいつのまま成長したなら、災害のとき逃げ遅れるようなタイプの奴じゃ無い。
でも、僕だっていじめられるようなタイプじゃなかった、と思う。郁は僕が中学でどんなだったかを、知らない。
あくる日も学校に行くと、香澄が向日葵に水をやっていた。僕に振り向かないままに、おもむろに話し出す。
「こないだ馨が言ってたこと……ただ生きてるだけで良いように思われる?だっけ」
「ああ……うん。花の話?」
「そういうもんかなって、ちょっと思った」
そういうもん?
香澄の手が見た目と裏腹の力任せな手つきで土をいじる。
教室の中、後方ロッカー前、正方形の板が敷き詰められた床の上に広がった土。そこに根を下ろして建物と土と自身とを一体にしている植物たち。一輪だけ背の高い向日葵。
その近くに 何かを埋めている。
「……蝶?」
「うん。……弱っていたんだけれど、もう……もう死んじゃった……だからこの子もお墓に埋めるんだ」
水やりでやわらかく湿った土の下へ蝶は埋められた。
また一気に土をすくう大きな手つきが、一瞬でオレンジ色の欠片を覆い隠した。
「生きていたんだね」
一生懸命生きてたんだね。
「一生懸命生きるほうに向かってくことって、良いように思われるんじゃないかな」
そういうもんじゃないのかな、……その声は墓の上にこぼれてしみこんでいく。
寂しそうにつぶやく香澄は、いつも浮かべてる朗らかな笑顔じゃなくて、少しだけ悲しそうにして見えた。
「おはよう……」
今日も教室には明るい晴天の光を浴びて向日葵が咲いている。半袖の制服を着た香澄は僕の方を振り返ってすぐ、
「どうしたのそれ……!」
心配気な表情になって駆け寄ってきた。僕の格好はシャツのボタンが引きちぎれて、まあまあ酷い有様だった。
「何かあったの」
「……こっちの校舎に来てることが家族にバレてさー。移動先に行けって怒られた」
嘘だった。家族は僕が外に出られるようになったのを喜んでいる。このシャツは元々、同級生に胸ぐらを掴まれた時に破損していた。
香澄の前ではボタンがちぎれてない服を選んで着て来てたけど、今までは家族にバレないようにこっそり洗濯していた。ここに来ていることを隠すために。
今回は家族の休みと重なって洗濯ができなかった。本当はそれだけの話だった。
「――ここ、廃墟みたいな感じだもんね。そっか」
香澄はちょっとうつむいて、不安気にしたあと「服貸して、ボタンつけてあげる」と手を差し出してきた。眉を下げてはにかんだように笑ういつもの困り笑顔が、ほんの少し視線を落として翳りを帯びて見えた。
「……香澄」
僕がその手首を掴むと「えっ」と声を上げて、うつむいていた視線も上がる。
「な、なに?」
「ここに来るよ。反対されても、僕は大丈夫だから」
「……」
香澄が目をぱちぱち瞬かせ、花柄の光彩が少し揺れた。それから、ふっと困ったように眉を下げて微笑んだ。花が綻ぶみたいに、儚げに。
帰り道、香澄が付け直してくれたボタンを上まで留めて、あちらこちらに瓦礫の見え隠れする土地を 遠目に眺めながら歩く。風が吹いて砂埃が舞う。ほとんど毎日陽が落ちてから学校を出ていた、今日も薄暗かった、段々陽の入りが早くなってきている。街路樹の葉が少し色づき始めている。肌寒い。あの教室ではそんなこと、感じないけれど
現実にはもう、秋も 暮れる。
帰り道で郁に会わなかったことに胸をなでおろす。
「――――また明日」
夢でもいい。
明日も教室には明るい晴天の光を浴びながら 向日葵が咲いていて 半袖の制服を着た彼が、笑顔で水を遣っているはずだ。
香澄はあの夏の災害で 僕を助けて死んでしまった
死んでしまったんだと――――思う
先生方も含めて十数名、顔のわからない遺体と 何人かは見つからないまま。
学校は流れ込んだ土砂と一体化して植物の咲き乱れる廃墟になった。
ほとんどの人は 別の居場所に移って日常を取り戻していたけど 僕は居心地が悪かったはずのあの学校に、今なら足を踏み入れられる気がして
そうしたら 香澄が、あそこに居て
あの夏の教室を……夏の学校を目の当たりにして
彼を供養するために 自分は 訪れたんだと ここに来たのはきっと彼に呼ばれたんだと、そう思った、
……僕が 夏の教室に訪れることができたのは 何か意味があるはずだ
今度は僕が彼を、救えるはずだ……と 思った
そうであってほしい、と。
冬が来ても、教室には明るい晴天の光を浴びながら向日葵が咲いていて 学校は夏のままだった。
「おはよう、馨」
「……おはよう、香澄」
変わらない。
オレンジの蝶のようにここへ紛れ込んできた生き物の墓だけが、教室の中に増えている。その中で彼は変わらない。
僕が会いに来ても一緒に過ごしても、彼は変わらなかった。会いに来れば嬉しそうで、帰るときは寂しそうだけど
思えば彼はいつだって何にだってそうだった。花とか全然好きじゃない、と言いながら穏やかに微笑む。優しく、平等に。
「どうして笑ってんの」
靴の先から溶けた雪が床にしみをつくって 僕の髪や 頬からも 水滴が滑り落ちた。
「……え?」
急に難癖みたいに笑ってる理由を聞いたら、香澄は困惑したように首を傾げた。
……どうして
「……どうして 僕なんか助けたんだ」
僕を庇うだけの情が、彼にはあるんだと……彼には僕に対しての何かが、優しさが あるんだと思ってた。
僕が無事なのがわかったら、香澄は自分の死に意味を見いだせるかもしれないと思った。何か香澄に未練のようなものがあってここに居るなら、香澄が助けた僕が生きていて、会いに来ることで 今度は僕が香澄を助けられるんじゃないかって
僕なら香澄に関わることで彼をこの止まった時間から解放できるんじゃないかって、期待した、香澄が僕を庇って死んでしまったことを僕はずっとずっと引きずってきた、
僕なんかの代わりに死んでしまうほどに香澄にとって僕の存在は何か意味があるはずだって、
この場所に来れば僕は香澄に会える、それは何か意味があるはずだって……
彼が 僕に意味を与えてくれるんじゃないか って 思ってた
だけど
そうじゃ なかったのか?
「……人を助けるのは ふつうのことでしょ?」
香澄は
眉を下げてはにかんだように笑ってそう言った。
いつもの笑顔。
何も
特別な感情なんて どこにも見当たらない。
花のように無垢な 少し怖い両眼が 真っ直ぐに僕を映している
「………… あはは」
勝手に喉から笑い声が転がり出た。 震える声 乾いて冷たくて、僕はこんな風に笑えたのか。身体が芯から冷える感覚がある。関節が到底なめらかに稼働できないほど固く凍ってしまう。
―――― 寒いんだ。
「……馨?どうしたの」
「寒いよ、香澄」
「……」
「寒いんだ」
夏の教室で
彼は変わらない。……もう変わらないんだ。もう。死んでしまったから。
僕の記憶の中の彼。
「香澄」
変われるのは
「……香澄」
変わってしまうのは、僕の方、だ
「………… さよなら、香澄」
教室の中に吹雪が舞い込んできた。耳元でひび割れそうな風の音がする。視界が真っ白に染まる。死体の埋まった箱庭が、ひとつ墓標のように立つ向日葵が、白く塗り替えられてしまう。
香澄の赤い髪の色だけ、最後まで僕の目に焼き付いた。
病院で目を覚ました。
学校跡の廃墟で凍死しかけていたところを郁に助けられた。と思う。
今も郁が病室で僕を見てくれてなかったら、全部夢だったんだと思ったかもしれない。
「……おはよう」
「……おはよう、郁」
起き上がる。
僕はもうあの学校の制服を着ていなくて、入院患者らしい前開きのパジャマを着ていた。
「家の人、今ちょっと外してるけど、飲み物買いに行っただけだから。すぐ戻ってくると思うよ」
「そうなんだ」
「あんたが帰ってこないってすごく心配してた。私めっちゃ感謝されちゃったよ。偶然勘が冴えたんだよね」
「……ありがとう」
郁は僕に何も聞かなかった。どうしてあそこに居たんだとか、何をしてたんだとか、何も。
いつになく身体が軽い気がした。おぼつかない、重石を取っ払った後みたいだ。
それは大事なものを失くしたような、ぽっかり穴が空いたような軽さで、
けれど僕が生きていくのには、必要な軽さで、必要な空虚だった。




