クチナシの戯れ言 03
すっかり暗くなってしまった空に意識を向けるとよく見える点々とした星とそれに付随する星座が、冬から春へと既に移り変わったということを示していた。煩わしく感じていた寒さが段々と少なくなってきたというのは分かるが、かと言って陽が落ちるとやはりまだ寒さは残る。しかし、あの頬を掠める冷たい風がもうそろそろ無くなるのかと思うと、どうしてか寂しいなんて感じてしまう。もしかすると俺は冬が好きだったのかも知れないだなんて思ってしまう程だが、別に四季にそこまでの感情を覚えるくらいの思い出はまだ存在しない。
図書館から出て、街灯が夜を照らし始めている中を歩く。すぐ近くの歩行者用の信号は、赤く染まっていた。学校から来た場合はいつもその横断歩道を通るのだが、帰りは遠回りになるため渡らずに左に曲がるのが常だ。なのだけれど、今日は少しだけ様子が違った。
信号待ちをしている誰かがいるというのは分かったが、少ない街灯のせいでそれが一体誰かというのを把握するには多少なりとも時間がかかる。ただ、明らかに図書館で見た制服を着た誰かであるということだけは瞬時に理解が出来た。そうなってくると、自ずと人物は絞られてくる。絞られてくるというか、距離が近づくにつれてそれは見たことのある人物であるという確信に変わっていった。
「あ……」
車の音に混じった俺の足音に気付いたのか、声を上げたのは振り返った某人だった。かと言って特に何を話すでもなく続く沈黙が、通り過ぎる車の音によって尚更際立っていた。車の音がようやく落ち着き始めたのは、信号が変わる時だ。
「あ、あのっ……」
しかし、どうやらその某人は信号の色が変わったということに気付いていないらしい。
「その……えっと……。さ、差し支えなかったら、お名前聞いてもいいですか……?」
「え……」
その問いに、俺はどうしたもんかと思わず考えあぐねてしまいそうだった。別にやましいことがあるわけではないし、教えたくない理由があるわけではないけど、赤の他人にそう簡単に名前を教えていいのだろうかという何処か冷静な自分によるものだった。教える必要も義理もないわけだから、断ることだって出来た。そのはずだ。
「……神崎、拓真」
かと言って、某人の質問に答えないというのは余りにも心象が悪すぎるというものだ。
「神崎さん……」
まるで、大切なものでも口に含んだかのように某人は俺の名前を噛んでいく。
「あっと……わたしは雅間 梨絵です。よ、よろしくお願いします……?」
「……どうも」
「その、えっと……」
続けてなにかを言いたげにしている雅間という人物だが、そこから先の言葉が放たれるのに時間が必要だったらしい。このまま話始めるのを待つべきか、それとも俺が半ば強引に切り上げてここから去るべきか。さてどっちが適切だろう? こういう状況で相手が話しやすくなるように配慮が出来る人間ではないということは、俺が一番よく分かっている。宇栄原だったらそういうことが出来たのかも知れないが、生憎俺はそんなスキルを持ち合わせていない。
「な、何でもないです! 失礼しますっ! ってあ、赤……」
一体いつの間に切り替わったのか、信号の色はすっかりと一周してしまったらしい。街灯に照らされた雅間の表情は明らかに焦っており、おおかた早くここから去りたくて居たたまれないといったところだろう。この如何にも気まずい状況の中、一番最初に動かないといけないのは一体誰か。その答えくらいは、まあ考えなくても分かる。
「……じゃ、また」
「え……?」
この時車が通り過ぎていたら、きっとその音にかき消されてしまうくらいの声量だっただろう。絶対に後ろは振り向かないという強い意志のもと、俺は雅間に背を向けて歩きはじめた。
しかし、これは予想していない展開になってしまった。図書館でよく見かける人物というだけだったのに、お互いに名前を把握してしまう事態になってしまうだなんて思わなかった。それに、別れる時に自身が発した「また」という言葉にどういう意味があったのかもよく分からない。またあいつと会うことになるのか? いや、図書館に行けば何かしらのタイミングで出会ってしまうのだろうが、果たしてそれは本当に歓迎するべきことなのだろうか? ……少し考えてみたものの、その答えを出すことはどうやら相当難題らしい。
だが、こういうのは次に会ってしまった時が一番困るというのは明白だ。




