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夫に「黙って笑っていろ」と言われ続けたので、この国で笑うのはやめにします  作者: 九葉(くずは)


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第7話「届かない返事」

サヴェリアとの通商条約が締結されたのは、エルデヴァイスに来て二か月目の朝だった。


署名式はルシアン殿下の執務室で行われた。サヴェリアの通商大使がペンを置き、殿下が続いて署名し、最後にわたくしが顧問として副署した。


わたくしの名前が、条約文の末尾にある。


セレーナ——もう「ヴァイスフェルト」ではない。旧姓をまだ名乗る気にもなれず、ただ名だけを書いた。それでも、署名欄にわたくしの筆跡がある。三年間、一度もなかったもの。


ペンを置いた時、指先にインクの青が残っていた。拭わずに眺めた。この青が、わたくしがここにいた証になる。



午後、執務室で翌月の交渉日程を整理していると、マルタが封書を持ってきた。


「奥様、お手紙です」


「どちらから?」


「ヴァイスフェルト公爵家から」


手が止まった。


ペンを置き、封書を受け取る。封蝋は深紅。ヴァイスフェルト家の鷲の紋章。この紋章を毎日見ていた頃が、もうずいぶん前のことに感じる。


封を切った。


便箋は一枚。グレイス様の筆跡。大きく、力の強い文字。以前と変わらない。



「セレーナ


三国同盟の条約が失効した。エルデヴァイス、ブリューゲル双方から更新の回答がない。

お前が管理していた外交書簡の暗号慣例と、条約各条の注釈を送れ。

あれは公爵家の外交に関わる記録であり、持ち出されるべきものではなかった。

至急の返答を求める。


グレイス・ヴァイスフェルト」



読み終えた。


もう一度、目を通した。一語ずつ。


「戻ってくれ」とは書かれていない。「すまなかった」も、「元気にしているか」も。


送れ。


記録を送れ。道具を返せ。お前が持ち出したものを返却しろ。


便箋を机の上に置いた。


窓の外でエルデヴァイスの鐘楼が三時を告げている。午後の会議の資料がまだ半分残っている。サヴェリア条約の発効に伴う関税調整表の最終確認。ルシアン殿下に渡す報告書の清書。


やることがある。


便箋の上にペン立てを置いた。紙が風で飛ばないように。それだけの処置をして、関税調整表に目を戻した。



夕方、マルタがお茶を持ってきた。


机の上の封書に目をやり、すぐに視線を戻した。この人は訊かずに待てる人間だった。


「マルタ」


「はい」


「お返事を書いた方がよいでしょうか」


マルタは茶器を静かに置いた。


「奥様がそうお思いなら」


わたくしは便箋をもう一度見た。深紅の封蝋。鷲の紋章。力の強い筆跡。


何を書くのだろう。


「記録は私物ですので、お送りできません」。それは事実だが、わざわざ書くほどのことではない。


「条約失効についてはお気の毒に思います」。思わない。気の毒だとも、当然だとも、何も思わない。


「お元気で」。それも違う。元気であってもなくても、もうわたくしの知るところではない。


「……書くことが、ないのです」


マルタが顔を上げた。


「怒ってもいないし、恨んでもいないし、心配もしていません。ただ——書くことが、ないのです。一文字も」


マルタは黙って頷いた。


お茶を一口飲む。エルデヴァイスの茶葉は苦みが柔らかい。この味にも、もう慣れてきた。


便箋はそのまま机の隅に置いた。破りも、捨てもしない。ただ、返事を書かない。


それだけのこと。





——フランツが執務室の扉を叩いた時、旦那様は窓際に立っていた。


「失礼いたします。ご報告が」


「なんだ」


「エルデヴァイス王国が、サヴェリアとの通商条約を締結いたしました」


旦那様は振り向かなかった。窓の外を見たまま。


「……それで」


「交渉の席にいたのは、元奥様です。エルデヴァイスの外交顧問として副署されたと」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。窓の外で風が木の枝を揺らす音が聞こえるほどの。


「……あれは」


旦那様の声は低かった。いつもの断定する声ではなかった。


「あれは、本当に出ていったのだな」


今さら——と思った。思ったが、口にはしない。


旦那様の背中が、ほんの少しだけ小さく見えた。窓枠の中に収まっている背中。以前はこの執務室全体を支配しているように見えた体躯が、今は窓の四角い枠に囲われている。


「セレーナに送った書簡の返事は」


「ございません」


「届いていないのか」


「いえ。受領の確認は取れております。お返事がないのです」


旦那様は窓から離れ、机に戻った。未処理の書簡が積まれている。三週間前より増えている。雪崩のように広がった紙の山の中に、辞書が三冊、使われないまま埋もれていた。


「……もう一度書く。今度は、戻ってくれと」


「旦那様」


「なんだ」


「——いえ。便箋をお持ちいたします」


言いかけた言葉を飲み込んだ。今さら「戻ってくれ」と書いて何になるのか。あの方が求めていたのは、戻る場所ではなかった。あの方の言葉を聞く人間が、この家にいなかったことが全てだった。


けれど、それを旦那様に申し上げる役目は、私のものではない。


便箋を取りに廊下に出た。





翌朝。


ルシアン殿下の執務室に呼ばれた。


窓の外は曇り。灰色の空に、エルデヴァイスの尖塔が黒く突き出している。殿下は机の前に立ったまま、一枚の書面を読んでいた。


「セレーナさん。お知らせすることがあります」


「はい」


「三国同盟の失効を受けて、関係各国から再交渉の要請が出ています。近く、三国の代表が一堂に会する席が設けられます」


「……そうですか」


三国同盟の再交渉。わたくしが三年かけて維持してきた同盟の、その残骸の上に新しい枠組みを作る交渉。


「あなたに出席してほしい」


殿下はこちらを見た。灰色の瞳が、曇り空の光を受けて薄く光っている。


「ただし今度は——エルデヴァイスの代表として」


エルデヴァイスの代表。


かつてわたくしが扇の裏で支えていた同盟の、相手側の席に座る。あの方と同じ卓について、向かい合う。


「お受けいただけますか」


殿下の声は穏やかだった。命令ではない。判断をわたくしに委ねている。


窓の外の灰色の空を見た。曇っている。けれど、暗くはない。雲の向こうに光があることを知っている空の色。


「——お受けいたします」


声は震えなかった。


殿下が頷いた。いつもの、一度だけの頷き。


机の上に、昨日の親書がまだ置いてある。深紅の封蝋。返事のない手紙。


あの手紙への返事は、きっとこれになる。


言葉ではなく。文字ではなく。


あの席に座ること、それ自体が。

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