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練習短編:サイハテの行方

作者: 浅井 直正


 よし、ついに時は来た。

 ・・・・・・行こう。

 わたしはおぼつかない足取りで駅のベンチから立ち上がった。

 聞こえるアナウンスがやけに遠い。

 考えた。考えましたとも。何度も何度もその瞬間を頭の中で思い浮かべた。それによって悲しむお父さん、お母さん、おばあちゃんのこととかも数少ない友達であるみっちゃんのことも考えた。でも、わたしはそれ以上にもうラクになりたかった。

 少なくとも、もうなにも考えられないくらいぐったりと疲れ切っていた。

 体が水気を含んだ雑巾のように重たい。

 もうなにも考えたくない。

 満員電車で感じる重圧やオフィスに行く狭くて古いエレベーターのカタカタという音。就業前のロッカー室で毎日自分で閉めるロッカーの音とか、コピー機のがーっとかシュレッダーのバリバリ音や無関心な世界が回っていくキーボードのカタカタ。

 そして、わたしにはなにもできない。成し遂げられない、なにひとつとして。そういう現実。それがわたしの体を押しつぶしにかかる。か細い心を毎日折りにかかる。

 やっと入社できたのはもちろんブラック。電話の音が鳴る度に体がビクッとする。

 震える手で勇気を出して電話に出てみても相手がなにを言っているのかまるで分からない。言われたことが次から次へとするすると落ちていく。慌てて頭の中を精一杯整理しようとするもむしろいっぱいいっぱいになってわたしの頭は考えることを放棄してゆっくりと白に沈んでいく。電話中にメモを取るといったごく普通の行為がわたしにとっては至難の技だった。

「サイハテさんは電話ひとつ取ることができない」

 わたしがコピー機でコピーを取ろうとすると紙詰まりを起こすことが多かった。

 うまくとれたとしても紙のどこかに黒いインクの線が不吉の印のように走ることが多かった。

「サイハテさんはコピーひとつとることもできない」

 なにもやっても、いつも何かの失敗があった。そのたびに怒号が飛んだ。それにも慣れた。ような気がした。

 昼休みのトイレでお弁当を食べ、声を殺して泣いた。

「サイハテさんはお昼休みに毎日トイレで泣いている」

 わたしのデスクの上はいつも散らかっていた。みんなと同じように整理整頓ということができない。

 もちろん仕事から帰った部屋の中も散らかっている。

 整理しよう。整理しようと思うも体が動かない。

 休みの日は部屋の壁にもたれて座ってただ時を過ごした。仕事に行きたくない。行きたくないと思いながら。

 どうしてわたしはみんなが当たり前にできていることができないんだろう。

 どうしてわたしはこんなにも欠陥品なんだろう。

 いや、いいんだ。もうそんなこと考えなくていいんだ。

 楽になる。ラクになる。らくになる。

 「あの、ちょっと待ってください」

 黄色い線の外側に出ようとした瞬間、後ろから腕を強く掴まれそして引っ張られた。警笛が鳴り響く。引っ張られてわたしは線の内側に戻った。電車が鼻先をかすめていく。

 振り向くと中学生くらいの詰め襟の学生服を着た男の子がいた。

 あぁ、こんな年金も納税もしていないガキにわたしのなにが分かるというのか。

 わたしが口を開くより先にその口はこう開かれた。

 「僕が代わりにやりますから」

 一瞬、思考が停止した。男の子がなにを言っているのか分からなかった。

 「僕が代わりにやります」

 ホームは人で溢れている。みんな行き先を持っている足でずんずんと進んでいく。

 間髪入れずに次の電車が来るアナウンスが鳴り響く。

 「見ていてください。そしてできれば生きてください」

 その言葉の意味を図りかねているうちに男の子は次の電車に轢かれた。


 ・・・・・・


 目が覚めたときには病院にいてその天井を見ていた。

 なにをしたんだっけ? わたしはいったいなぜ病院にいるのだろう?

 思い出すまでに時間が掛かった。

 あぁ、電車に飛び込んだんだっけ。

 あれで改心して生きようなんて思えるほどわたしは強くもなかった。

 むしろ羨ましいとさえ思った。

 両手と右足の感覚がない。

 あぁ、と思う。

 生き残ってしまった。

 みんなができることがわたしにはできない。

 いつものことだ。

 含み笑いが漏れる。そして漠然と思った。

 生きていかなきゃなぁ。これから。

 仕方ないなぁと呟いたあとわたしはため息をついた。

 ベッドの横ではお母さんのすすり泣きが聞こえる。

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