第6話 アウェー
予約の患者さんが来院する時刻だ。
家で犬を飼っているらしい。犬好きの人は、遠くからでも分かる。吾輩はうれしくなる。つい、興奮してしまい、いつも隆になだめられる。
吾輩はその犬と面識がない。何でも、会社の横に、きょうだいと一緒に捨てられていた、と聞いた。その子たちは、いい人と出会ったものだ。
「疲れた。来週、小学生が球根を植えるので、今日、サギソウ園の草刈りをしてきた。肩と腰の治療お願いね」
ボランティア活動をしていて、近くの高原に小学生がサギソウの球根を植える手伝いをしている。
高原に自生していたサギソウは、いったん絶滅してしまった。失われゆく自然を目の当たりにして、環境保護に立ち上がったのは、地元のボランティア団体だった。民家の庭や田んぼの畦道などに生えていたサギソウの球根を持ち寄って小学校で栽培し、移植してきた。
「もう二五年、活動しているけど、サギソウは増えんなあ。最初は、院長の卒業した小学校の後輩たちも参加していたのですよ」
ため息をついている。
小学校の廃校ラッシュの中でも、活動は次々とリレーされたとのことだ。そういえば、隆の孫娘の紗耶香ちゃんが球根を植えている様子が、テレビや新聞で報道されていた。
「私が小学校・中学校に通っていた頃は、サギソウが話題になることはなかった。それよりも、モウセンゴケを、学校に持ち寄っていました。食虫植物です。アリや蝿を粘液で絡めて溶かす。食物連鎖と分かってはいても、残酷ですよね」
隆がガキ大将のころを思い出している。
「モウセンゴケ? 聞いたことがないなあ。今でもあるのかなあ」
患者さんは首を傾げた。
サギソウはその名の通り、三〇センチ前後の茎の先に、二、三センチほどの真っ白い花を咲かせる。まさにシラサギが飛び立とうとしている姿だ。花期は七月半ばから八月下旬とされる。
吾輩は生まれてこの方、これほど可憐で美しい花を見たことがなかった。
美しいが故の乱獲のせいか、それとも環境汚染のせいか、絶滅の原因は不明だ。
毎年、球根を移植しても、増えないという。やはり、よそからの移植では根付かない種もあるということだろうか。
人間の場合も、移住は簡単にはいかないようだ。最近、こんなことがあった。
近所に引っ越して来た老夫婦がいた。
東京の田園調布と並ぶ、関西の有名な高級住宅地に住んでいたらしい。旦那さんはいわゆる一流企業を定年退職し、生まれ故郷にUターンした。婦人とメスのチワワが一緒だった。
その婦人が隆の治療院を受診した。
「こんなところに治療院がありましたの。わたくし、若い頃から大変な肩こりでございまして」
チワワのチャットちゃんを抱いていた。
「まあ、怖そうな犬ですこと。ちゃんとスペイし、しつけもしてあるのでしょうね」
と、吾輩に初対面の挨拶があった。
スペイとは去勢手術のことだ。隆が例によって吾輩を簡単に紹介し、婦人とチャットちゃんを招き入れた。
「あら、あなたも都会からお帰りになったの。わたくしの場合、生まれも育ちも関西でしょ、田舎は苦手なのよ。特に虫は見るのもイヤ」
婦人は顔をしかめた。
「主人が去年大病してね。『どうしても、人生の最期は生まれ故郷で迎えたい』と申すものですから、仕方なく…。わたくしは永住する気がございませんのよ」
よくしゃべる婦人だった。
知り合いだという有名人や芸能人のことも出てきた。隆が聞き流していたので、少しご機嫌を損ねたようだった。
チャットちゃんも負けていなかった。
血統書のことや、家の庭にあったドッグランのこと、食事や洋服のことなど、次から次へと話題の豊富なチャットちゃんだった。
「あなた、エヴァン君っていうの。田舎で頑張ってるのね。偉いわねえ。もっと似合うお洋服さしあげたいけど、うちの子のおさがりじゃ、サイズが合わないわね。ごめんなさい」
隆の治療で婦人はずいぶんリラックスしてきた。
「ちゃんと、お食事は召し上がってるの。そうだわ、今度おすそ分けしましょうかしら。スペシャルプレミアムフードだけど、お口に合うかしらね」
吾輩のペットフードは盲導犬訓練所から、決まったものを購入しているので、と隆がやんわり断った。
二週間後、婦人がまた治療を受けに来た。
相変わらず、訊かれもしないことをおしゃべりしている。
あまりの一方通行なので、隆が話の腰を折った。
「物価が高騰して、われわれ庶民の生活は大変なのですよ。特に食料品の値段。コメほどじゃないにしても、ホームセンターのドッグフードは高くなっているでしょうね。奥様宅のドッグフードはいかがですか」
「わたくしのところは、メーカーさんからいただくものですから、売るほどありますのよ。買ったことはございませんの」
なんともうらやましいご身分だった。
チャットちゃんは静かだった。吾輩が庶民犬の暮らしぶりを話すと興味を示していた。それからは、田舎暮らしの注意点などをガイダンスするとともに、機会があれば、田舎のすばらしさを話して聞かせた。
また、諸賢もご承知のとおり、最近、世の中の混乱ぶりには目に余るものがある。チャットちゃんも問題意識を持っていて、マスコミなどの伝える事案について、吾輩によくコメントを求めた。吾輩は無責任に言論の自由を行使するような輩ではない。そこのところは理解してもらうのに、時間を要した。
信頼関係ができたのか、何度目かにチャットちゃんが
「エヴァン君、きょうは、折り入って話があるの」
ということだった。
吾輩はチャットちゃんをそれとなく庭に誘い出した。
チャットちゃんは前より痩せていた。まるで存在感がない。
訊くと
「食事の量を減らされてるの」
という。
病気になり食事療法でもしているのか、と吾輩は気がかりだった。しかし、単にスペシャルプレミアムフードが値上がりしたせいだという。何しろ、値段が一年前の倍になっているらしい。
「だけど、君ん家はメーカーからもらうので、買ったことがないって言ってたじゃない」
チャットちゃんからは意外な答えが返って来た。
「あれは全部ウソ。旦那さんルートで共同購入してた時期があって、特典で付いてきただけ。それを大げさに言ってるのよ。それに、裕福だったのは昔の話だよ。いよいよになって、ゴルフの会員権や株券も全部売った。家は安く買い叩かれ、恥ずかしいから、夜中に運送屋さんを呼んで四国に引っ越したのよ」
よく見ると、チャットちゃんの洋服は擦り切れていた。チャットちゃんのあばら骨が浮き出ている。
「最近の異常気象で原料肉の、ある動物が大量に死んでしまったみたい。商品の値段が高くなって売り上げは激減したようなの。あたいたちの命を守ろうと、肉食からパンや麺類に切り替える家庭が増え、メーカーは慌てた。そこで、値段の手ごろな普及版を開発して、安く売り出したの。プライドの高い奥さんは『庶民犬クラスのエサなんか、ウチの子にはあげられません』と、スペシャルプレミアムフードにこだわり続け、あたいの食事は半分に減らされちゃった」
吾輩たちが食べているのは、エサに区分されることを初めて知った。多少まずくても、安全なものを十分食べられれば、エサとか飼料とか呼び方はどうだっていい。
「悪いことに、奥さん、ネットの格安サイトに引っかかり、スペシャルプレミアムフード一年分を先払いしちゃったのよ。もちろん、品物は届かない。弱り目に祟り目だよね」
好餌とは言いえて妙だ。ああいうタイプの人間は失敗談に事欠かないだろう。
「でも、このことは内緒にしておいてね」
チャットちゃんは前脚を合わせた。
「もちろんさ。吾輩には内部通報者を護る義務がある。どこかでしゃべったり、何かに書くようなことは絶対にしないから、安心しな」
吾輩は胸を張った。
突然、治療院から婦人の甲高い声が聞こえてきた。
「チャット! どこへ行ったの。まあ、先生とちょっとお話しているスキに、お庭に出てたの! 大丈夫? 乱暴な遊びなんか、してないでしょうね」
犬種こそ違え、同胞が食事量を減らされているという事態を、吾輩は座視しているわけにはいかない。吾輩は毎食、少しずつ残し、ケージの奥に隠しておいた。次回から、チャットちゃんが来訪の際、隠れて食べさせるつもりだった。
ところが、チャットちゃんはどこかに引っ越してしまった。旦那さんが亡くなり、婦人は産まれた街に帰った、という噂だった。
「女子大時代のお友達は皆さん、あちらにお住まいなの。もう寂しくて」
隣家にだけ、そっと挨拶したらしい。
やせ衰えたチャットちゃんはなかなかキャリーケースに入ろうとせず、婦人を手こずらせた。一部始終を隣人が目撃し、動物虐待の尾ヒレまで付けて、町内にアナウンスしてしまった。