第5話 代償
隆の治療院で従姉の春江さんがよく治療を受けている。
春江さんは犬好きを自認する。体力的に面倒が見切れないので、飼い犬はいない。吾輩を見ると、必ず近寄って来る。
「エヴァン、待ってくれよったんか。おー、よしよし」
スキンシップを欠かさない。完全に身内になり切っている。
春江さんは家庭菜園をやっていて、よく季節の野菜を差し入れしている。
「トマト、これだけしか獲れんかった」
いつもは明るい春江さん、肩を落とした。
「もう来年からは作らん。そろそろかなあと、収穫に行くと、サルにやられとる。あほらしいわ」
旧市街地にもサルやシカ、イノシシが出没するようになった。
これらの野生動物はもともと奥地で、木の実や山菜、小動物などを食用としてきた。ところが森林は杉が占領し、エサとなるクヌギやナラ、樫などの木の実は見かけなくなった。太陽の光が届かないことから、土地は荒れ、草やコケ類も生育しなくなった。
こうして、生活圏を旧市街地にまで広げるしか生存の道はなくなってきた。それどころか、最近では町なかでも野生動物を見かけるようになり、都市の風景に溶け込んでさえいる。
春江さんの近所では、サルがダイコンを脇に抱えて歩いていたらしい。留守の間に家に上がり込み、冷蔵庫を物色された家もあったようだ。年々、増長している。
幸いにして、吾輩はクルマで移動中に、道路を横切るサルの群れを見るくらいだ。家に近づこうものなら、盲導犬の職務を逸脱して、吠えてやってもいい。仔ジカのバンビ、イノシシでもウリ坊くらいなら追い払える自信がある。
余談ながら、サルとイノシシは見た目以上に、趣味・嗜好が異なる。
隆の患者さんが青色をした、細長い木の枝みたいなものを持ってきたことがあった。なんとも、珍妙なものだった。東南アジア原産のウリだという。ヘビウリという名前が付いていた。サル除けに栽培しているとか。サルは人間に近いから、ヘビを毛嫌いするのは無理もない。
ところが、イノシシはヘビをバリバリ喰う。豚も同じであり、昔から知られている習性らしい。イノシシの場合はブルドーザーよろしく、岩を転がし、土地を掘り返してヘビを見つけ出し、食するのである。
吾輩が注目しているのは、イノシシがマムシをも喰う大食漢である点だ。
吾輩が往診に同行し、畑の際を通ったことがあった。数日後、なんとそこにマムシが数匹いたと聞いた。
隆はもとより見えないし、吾輩にもヘビとマムシの区別がつかない。ヘビは逃げ出す一方、マムシはすくんで戦闘態勢に入る、というから、厄介きわまりない。
田舎はなんとも物騒だ。マムシハンター・イノシシの活躍に期待したいのは、やまやまだ。しかし、彼らは収穫前の田んぼでぬたくり、稲をダメにする。
シカにしても、新芽を食いつくし、ことごとく荒れ地にしてしまう。人間は、あの顔に騙されてはいけない。四国ではクマの被害が報告されていないのが、救いと言えば救いだ。
これら有害獣を駆除しようと、市では予算を組んではいる。猟師に報奨金を出すものだ。ただ、猟師にも高齢化が進んでいる。隆の患者さんにも腰痛などで通院する猟師がいる。
「鉄砲を担いで山に入るのはきつい」
と例外なく訴える。
「あいつらはエサは豊富で、どんどん繁殖する。害獣駆除なんて、できるわけがない」
というのが、残念ながら大方の見方だ。
外に人の気配がする。取り敢えず、軽く唸って、隆にサインを送る。「おるか」 隆の幼馴染み・野田氏だった。
「これ、食うてみてや」
キャベツを差し出した。
畑仕事の帰りか、麦わら帽子を被っている。今どき麦わら帽子が似合う人は少ない。農民のDNA(遺伝子)を持っているのだろう。
野田氏は製紙メーカーを定年退職し、近くに畑を購入して野菜作リに精出している。いつも季節の野菜を届けてくれる。ご相伴にあずかったところ、確かにうまい。野田氏の場合、電気柵で完全に防御してサルから作物を護っている。
それでも収穫は安定していない。
「今年は暑かったからなあ」
毎年、同じことを言っている。
「いつもありがとう。今度、マツタケ狩りに連れて行ってよ」
隆が催促している。
「いやあ、それだけは勘弁して」
野田氏は先祖伝来のマツタケ林を所有していて、かなり儲けているというのがもっぱらの噂だ。農夫の生活がかかっているから、ガードは堅かった。
現物の匂いを嗅ぎ、一口でも味見させてもらえば、吾輩ならいとも簡単に見つけ出せる。なんたって、キャリア・チェンジ犬の中には麻薬探知犬となって活躍しているものもいるのだから。まあ、余計な情報を提供し、仲間がマツタケ泥棒のお先棒を担いだなどと、汚名を着せられるのは本意でない。
隆の幼馴染みにもう一人、農夫がいる。小西氏で。隣の県の農家に婿入りした。いわば生え抜きの農夫だ。
小西氏はコメや野菜を栽培している。小西氏の作るシイタケは一級品らしい。「このしいたけ、肉厚やなあ」
隆が驚いている。
「最近はみんなこうよ。薄い、小さいのは売れん」
と小西氏。
「味も変わったよなあ。七〇年くらい前のトウモロコシを発芽させて育てたけど、今の味に馴らされたせいか、全然うまくなかったわ」
小西氏は研究熱心だった。
「確かに、昔のコメはうまかったよ。ウチは棚田だったせいかな。何しろ狭いので耕運機などは入らず、牛で鋤いていた。畑にしても傾斜地であり、水はけはいいのでおいしい作物が育った。でも、しょっちゅう土を搔き上げる必要があった。よく駆り出されたものだよ」
隆もつられて昔話を始めた。
このあたりの農業は「にし阿波の傾斜地農法」として、世界農業遺産に認定されている。この農法には、山間部で営々と農業を続けてきた先人の知恵が、凝縮されているわけだ。
「そうよ。雨で土が流れるから畑に藁や茅などを敷いていた。それでも限界があり、搔きあげるための専用の鍬があったよなあ。平地じゃ、そういう苦労はないけど、耕運機で耕すと土が痩せる。そこで、化学肥料や農薬をいっぱい使う。これでは、農作物本来の味はしなくなるよ」
小西氏は残念そうに言った。
吾輩の主食はドッグフードだ。生まれてこの方、ほぼ同じ味だ。度重なる品種改良の末、まがいものの味に馴らされてしまった現代人。一体、舌はどうなっているのだろうか、心配になってきた。
「覚えているのは、強力な農薬が使われ始めて、田んぼや畑からヘビやカエル、ミミズ、ホタル、タニシ、アメンボ、イナゴ、バッタなどがことごとく姿を消したことだな。山では昆虫も見かけなくなった。あれは、異様な光景だったよ」
隆は静かな口調だった。吾輩なら身震いするところだ。
この二人は歴史の生き証人なのかも知れない。自然環境は破壊され、人間から野生動物へと、主役交代が進んだ。日本の農林水産業にはどんな未来が待っているのだろう。
二人の話を聴いていて、ふとガラにもないことを考えてしまった。