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第2話 過疎地からの便り

挿絵(By みてみん)


 四国での初めての夜が明けた。

 吾輩のケージは二階に上がる階段の下に置かれている。

 午前六時、二階で隆がトイレに行っている。トイレがしたいのは吾輩も同じだ。隆が降りてきて、駐車場に連れて行ってくれた。

 トイレベルトを着け、ビニールの袋をセットしてくれた。

「ワン・ツー。ワン・ツー」

 と隆が声をかける。業界用語で、ワンは小、ツーは大を意味する。


午後、建築士の西山氏が軽トラックで訪ねてきた。

 道具を出して何やら始めた。吾輩のブラッシング台を作ってくれる、という。訓練所にあったブラッシング台の写メを予め送っていたらしい。


 西山氏は瞬く間に台を完成した。

玄関のアプローチに木製の柱があって、そこに厚い板をセットした。蝶番(ちょうつがい)で板を取り付け、使用する時は水平にし、折り畳まれた二本の脚を伸ばす。無駄のない、完璧な出来だった。


「ありがとう。いくらかかった」

 隆が訊いている。

「ええよ。また来るわ」

 西山氏は道具を軽トラに積み込み、帰って行った。

 盲導犬は清潔にしておくことが求められ、毎日のブラッシングは欠かせない。しっかりしたブラッシング台は何よりのプレゼントだった。


 西山氏は阿讃山脈の南面に開けた高地に住む。

 氏は幼少期を山あいの谷底で過ごした。冬などはお天道様を拝む時間はあまりなかったので、家を新築するとなると、勢い陽当たりのよい高地を好んだのだった。


 隆の生家について付言しておく。

 山奥の最奥部にあった。同じ村に奥さんの姉が嫁いでいた関係で、先般、法事が行われ、吾輩も同行する機会があった。

 往時には二一軒あった民家が、今では三軒になっている。隆の生家は廃屋となり、杉林に覆われていた。


 戦後復興に大量の木材を必要とした。国土が荒廃していたこともあって、杉の植林が進められた。助成金が出され、崖っぷちなど、およそ人が寄り付かない場所にも植林された。

 折からの高度経済成長は田舎から都会へ人口を流出させた。高齢化と共に森林の手入れをする者は減少し、山は荒れ放題。さらに、家を出る時、周囲に杉を植林した。将来の資産価値に期待したのだ。

 三〇年、四〇年が経った。内外の情勢は大きく変化した。外国産木材がどんどん輸入され、国産木材の価格は下落した。成木となった杉を伐採しようにも原価割れする事態に立ち至ったのだった。


 これは隆がよく話していることだった。吾輩も耳にタコである。もう(そらんじ)ている。

 それにしても分からないのは、なぜ人々がそこまで、植林に走り、村を捨てたかということだった。

 あっと言う間に国土の七〇%近くが森林となり、うち九〇%以上が杉やヒノキなどの針葉樹林に姿を変えた。


 同じことが人口構成にも起きた。農山村漁村では過疎化が進み、一部の大都市に人口が集中した。まあ、田舎者を広葉樹とするなら、都会人は針葉樹かな。生物多様性も何もあったものでない。

 この流れに(あらが)うことは難しかったのだろうか。日本人は熱病に浮かされていたとしか、吾輩には考えられない。


 その日はドライバーが来て、隆と往診に出かけた。

 秘境に中年女性がひとり暮らしていた。

治療に三〇分あまり掛かる。吾輩は玄関で待つ。

家の前を広い街道が通っている。行楽シーズンでないので、クルマの音はめったに聞かない。

 女性は素敵な笑顔で出迎え、必ず吾輩にも飲み物を出してくれる。秘境の水はおいしい。


「今朝も、庭にシカが来てたのよ」

 まるでサファリパークだ。

「冬は寒い。都会へ出て行きたいわ」

 これが口癖だった。


 秘境の気候は悪いことばかりではない。夏などクーラーの世話になることはあまりないらしい。ただ、近年は温暖化により、クーラーの出番が増えてきたことも事実のようだ。ここも桃源郷ではなくなりつつある。


 次の往診先は、急な山の中腹にあった。

 杉林に覆われ、昼なお暗い山道を登ると、視界が開けてくる。はるか下方に川が流れる。


 特有の地形から、よく子供たちが山や川で遭難した。危険な場所に近づかないように、昔の人は一計を案じた。

「あそこへ行くと恐ろしい妖怪が出るぞ」

 これである。


 それなりの効果はあった。日陰の存在だった妖怪が、日の目を見た瞬間だった。

 ベビーブーム期などは妖怪は引っ張りダコだった。怪し気なプロダクションの紹介で、名前も聞いたことのないようなマイナー妖怪が集まった。勢い、妖怪の間でトラブルも多発し、治安が悪化した。

 しかし、少子化が進み、妖怪たちは手持ち無沙汰となった。妖怪は村人の意識から薄れて行った。オファーは激減した。たまに現場に出ても、ゲームなど文明に毒された子供には、うざったがられるばかりだった。妖怪のモチベーションはマイナスの域に達した。


 吾輩が妖怪から聞いた話だ。彼に限って、でたらめを言うような妖怪ではないことを、お断りしておく。


 ともあれ、往診先にはおばあちゃんが一人で住んでいた。おじいちゃんは街の病院に入院している。

 おばあちゃんは雨が降らなければ、畑に出ている。運悪く転ぶと、川まで転落しかねない。そんな土地だから、腰に応える。腰痛は若い頃からの持病だ。


 おばあちゃんもおもてなしを忘れない。

「まあまあ、よう来てくれたのう」

 と吾輩にまで挨拶してくれる。


 都会に住む孫たちが遊びに来ていた。吾輩を見て大喜びしている。

「ねえねえ、おじいちゃん、エヴァン、散歩に連れてっていい」

 言うまでもなく、おじいちゃんとは隆のことだ。こどもはあけすけだ。


 隆の許しが出たので、散歩に行く。目の前に四国山脈の山並みが迫る。この村でも道行く人は見かけない。

 子供とすっかり仲良しになった。

「ねえ、おじいちゃん、エヴァンにお手していい」

 吾輩には何のことか分からなかった。

「いいよ」

 なんという無責任な対応だろう。


 吾輩は子供のしぐさを参考に、一応、前脚を出した。

「あれえ、エヴァン、お手できないよ」

 子供をがっかりさせてしまった。

 吾輩たちは盲導犬にとって大事でないことまで修得する時間がなかったのだ。犬は老いやすい。老いやすく学なりがたし、とされる青年の比ではない。


 治療が終わった。この時を待っていた。隆がご褒美(ほうび)のおやつをくれるのだ。

「GOOD BOY (グッボーイ)」

 やったね!

「まあまあ、最近は犬でも英語ですか」

 おばあちゃんは変な感心の仕方をしている。考えすぎだ。


 吾輩たちは英会話教室に通ったわけではなく、音に反応しているだけだ。

 GOODと言われれば喜び、NO (ノー)と言われれば、行動を慎む。

 もっとも、NOはなるべく使わないようにしている——隆の説明だった。


 確かに、吾輩はパピー時代から、NOと言われたことは少ない。

 人間の子供たちは、ダメ!ダメ!と言われて育てられると聞く。人間だって、いい面をたくさん持っているのに、悪い面ばかり注意されるようじゃ、イヤになるよね。


 吾輩がよく聞くコマンド(命令)には、ほかに次のようなものがある。

 HEEL(ヒール:並んで立つ。出発前などに使用)

 STAY(ステイ:待て)COME(カム:おいで)

 LEFT(レフト:左)RIGHT(ライト:右)

 FORWARD(フォワード:前へ)BACK(バック:後ろへ)

 TO THE HOUSE(ツーザハウス:家へ)

 TO THE BED(ツーザベッド:お休み)

 番外編(小杉家で覚えたもの)として

 TO THE BENCH(ツーザベンチ:ブラッシング台へ)

 TO THE BUCKET(ツーザバケツ:汚物入れのバケツへ)


 吾輩に英語の意味が分かっているわけではない、という隆の話は、当たらずといえども遠からずだ。 

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