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花瓶と血

作者: 犬彦

2016年作。平成初期のいじめをテーマにした物語です。作中に暴力表現を含みます。

 哲雄が早く登校するようになったのは、二年生になってからだった。


 部活の朝錬でもないのに、やたらと早く登校する変な奴、とクラスメートに思われるのは嫌なので、教室一番乗りにならないように、うまく調節していた。三番目か四番目くらいが、しっくりくるような気がしていた。


 窓側の席の固い椅子に座り、ふっ、と軽く息をついた。哲雄にとって、煩わしいものから最も離れていられる一時、一日の中で最も深い安らぎを得られる一時だった。


 この暑ささえなければ。


 九月も下旬に差し掛かったというのに、猛暑がなかなか衰えない。知り合いが通う私立中学校にはクーラーがあるらしかったが、残念ながらここは予算が限られている市立中学校だった。時代が昭和から平成に変わっても、クーラーが税金で賄われるなど、想像もできなかった。


 窓から外を眺めると、いつも通り町が妙に遠く感じられる。この中学校は多くの住宅に囲まれており、それこそ町の中に埋もれるように存在している。しかし哲雄はなぜか、学校が町の外れに追いやられているような印象さえ抱いていた。


 黒板脇の本棚の上に、ガラスの花瓶が置かれている。染色部分がなく、デザインも平凡だったが、それでも軽々しく触れてはいけないような独特の緊張感を漲らせていた。奇妙なくらい汚れがなく、朝の光を不自然なほど真っ正直に撥ね返して輝いていた。その光が暑さを倍加させている。哲雄は目を逸らし、苛立ってみた。床に叩きつけて、割ってやりたいくらいだった。


 持ち主であるクラス担任の女性教師にとっても、花瓶はあくまで引き立て役で、主役としてこだわっていたのは花瓶に生ける花の方だった。華道でも習っていたのか、花の選び方、飾り方にセンスがあった。花にまったく心得のない哲雄ですら、何となくそう感じていたくらいだった。


 花瓶から花がなくなって、ほぼ四ヶ月が経つ。


 小柄で細身の女子生徒が、うつむき加減で教室に入ってきた。夏休みが明けてそれほど経っていないのに、その顔は病的なまでに青白く、目の下には隈がうっすらと滲んでいる。ただ二つの眼球には、不釣合いなほどの力強さが宿っていた。


 彼女の席は前扉のすぐそばだった。教室内をおどおどと窺いながら座り、自分の存在を打ち消そうとするかのように肩をすぼめた。


 相変わらず、オバケのようなキモい女だ。


 哲雄は呆れたように唇を歪めた。そう思うことに、罪悪感は微塵もなかった。おそらくクラスメートの大半が同じように思っているだろう。気持ち悪がっているだけで済ましている生徒は、まだ善良な方だ。


 この女子生徒、下村は元々おとなしい生徒には違いなかったが、クラス担任がいた頃はもっと溌剌としていた。顔色は普通に明るかったし、目の下に隈もなかった。間違いなく、クラス担任に最も気に入られていた生徒で、二人が楽しそうに談笑している姿がよく見られたものだった。その内、下村が花瓶の手入れと花の世話まで、自主的にするようにもなった。


 ただ単純に、教師と生徒の差も、また年齢の差も、簡単に乗り越えるくらいに意気投合しただけなのだが、それを周囲に隠そうとしなかったのがいけなかった。下村は姑息に媚を売り、クラス担任は不当に贔屓している。敏感な年頃のクラスメート達に反感を抱かれてしまうのは、自然な成り行きだった。


 転機はほぼ四ヶ月前。


 クラス担任が重い病を患い、長期の休職を強いられることになった。


 それから間もない朝、下村が登校すると、花瓶に生けてあったはずの花が消え、水も抜かれていた。花はすぐに見つかった。ゴミ箱の中だった。しかも花びらや葉の原型がわからないほどに踏みつけられていた。下村の受けたショックは相当なものだっただろうが、それは今も続く辛いいじめの幕開けにすぎなかった。


 制服で隠れているが、下村の体には無数の傷や痣がある。いじめの現場を目撃したことのない者も含めて、そのことをすべてのクラスメートが知っている。また下村に対して執拗に苦痛を与え続けている五名の女子生徒の名も、すべてのクラスメートが知っている。しかし助けようとする者は一人もいない。下村が罪と呼べるようなことを何もしていないことは、誰もが理解していたが、下村がいじめを受けていることに、誰もが納得していた。いじめの矛先が自分に向かないように、上っ面の平穏しか見えない振りをする、というのがクラスメートの常識的な態度だった。


 下村の顔を殴る。


 その光景を妄想することが、哲雄にとって朝の一人遊びの定番だった。毎回、ちょっとずつシチュエーションを変えて楽しんでいた。


 今日はすぐには殴らないことにした。


 わざと油断した振りをして、逃げさせる。バカな女だから、自分がどれだけひ弱なのかも忘れて、ペースなど考えずに、やみくもに走るだろう。その内、息が切れ、足がもつれ、立っていられないほど疲労する。その時を待って、悠然と近づき、捕まえればいい。


 酸欠の苦しみと暴力への恐怖で引きつる下村の顔。


 実に気分がいい。


 哲雄の頬が思わず緩んだ。すぐに我に返り、クラスメートに気づかれてはならないと、無理に厳しい顔を作った。


 妄想の中で、下村と向き合い、そして拳を振り抜く。


 歪む下村の頬。捻じ曲がる下村の首。ごめんなさい、と謝ってくる。もう逃げないから、これ以上殴らないで、と哀れな表情で懇願してくる。


 本当にバカな女だ。こんな愉快なこと、やめるわけないじゃないか。


 一発目よりも高く、右の拳を振り上げる。


「生徒会よりお知らせです」



 唐突に、教室のスピーカーから流れてきた女子生徒の声が、哲雄の妄想を寸断した。


「本日八時四十分より、全校朝礼を行います。八時三十分になりましたら、先生の指示に従って、一年生から順番に、体育館に集合して下さい」


 哲雄は苛立った。思わず舌打ちしたくらいだった。八時三十分まで、まだ十五分もあるのに、余計な放送しやがって。


 再び妄想の中に戻ることはできなかった。憂鬱な全校朝礼のことで、頭の中が一杯になった。この中学校の体育館は、風通しが異常なほど悪いが、空調設備がついていない。夏の気候が例年以上にしつこく残り続けているというのに、全生徒が体育館にすし詰めにされるのだ。蒸し風呂状態にならないわけがない。気分が悪くなって倒れる生徒が続出することも、十分にありえる。


 昨年度まで全校朝礼は、当たり前のように屋外グラウンドで行われていた。しかし近隣住民から、生徒の騒ぎ声やマイクの音がうるさいと、クレームを受けるようになった。特に老人会の抗議が執拗だった。


 アンタ達は年寄りの静かな生活さえ妨害するのか。年寄りの寿命を縮めるようなことをして、そんなに楽しいか。


 週一回、しかも三十分程度の朝礼が、どうしてそこまで目の仇にされるのか、学校側は理解できなかったが、裁判所に訴えられる寸前まで事態がエスカレートしてしまったので、結局折れるしかなかった。


 そもそも全校朝礼は必要なのか。


 全校朝礼の度に、哲雄が思うことだった。


 校長や教頭、生活指導の教師が壇上でする話は、校内放送で事足りるような内容ばかりだ。それを毎週月曜日に、わざわざ体育館まで出向いて、直に聞くことに、どのような意味があるのだろうか。


 せめて暑さが収まるまで、全校朝礼を中止にすることはできないのだろうか。


 哲雄の疑問は、全校朝礼を強いる側だけでなく、強いられる側にも向けられた。


 この学校の生徒は、どうしてあんなに私語をするのだろうか。この上なく劣悪な環境になる体育館で、教師の注意を無視してまでお喋りすることに、どれほどの意義があるのか。壇上のつまらない話も、黙って聞いている振りをして、やり過ごしてさえいれば、もっと早く終るはずだ。それなのに余計な私語のせいで、朝礼が無駄に長引き、劣悪な環境からなかなか抜け出せず、皆がつらい思いをする。なぜ、それに気づかないのか。


 考えれば考えるほど、憂鬱が深まってゆく。


 不意に背後から男子生徒の硬い腕が、首に巻きついてきた。力の加減が下手なので、喉に余計な圧迫痛を感じた。


「よお、哲雄君、しけた顔してるねぇ。どうしたのぉ」


 顔を見なくても、声だけで山本だとわかる。


「しけた顔なのは、元々だよ。山本」


 川口が哲雄の正面に立った。寒いわけがないのにポケットに手を入れて、見下すような笑みを浮かべた。


 こういう奴等だ。こういう何も考えないバカどもが、いつも私語をして、朝礼を長引かせる張本人だ。


「なあ、何考えてたんだよ。教えろよ」


 山本は哲雄の首に巻きつけた腕を揺り動かした。


「何も、考えてないよ」


「嘘だな。言えよ。哲雄」


 苦しい。顔が紅潮するのが感じられる。山本の腕を掴み、引き剥がそうと試みる。しかし山本の腕はびくともしない。運動が苦手な哲雄の力では、元野球部の逞しい腕に対抗できなかった。


「本当に、何も、……考えてないって」


 声を絞り出して訴える。


「……つまんねぇ奴だな」


 山本はがっかりしたように呟いて、腕を解いた。哲雄はうつむいて、いたわるように喉に手を当てた。


「嘘でも、オナニーのこと考えてた、とでも言えよ」


 声が大きい。かなり増えてきたクラスメートの視線が集まるのを感じる。


「山本、哲雄みたいな凡人に、面白い答えを求めてもダメだよ」


「それもそうか」


 山本と川口はバカにするように笑った。


 今すぐここから逃げ出したい。ほんの少しでいい。クラスメートの視線から外れさえすれば。


「ところでさあ、哲雄君」


 山本は、チワワでも愛でるかのように、哲雄の頭に手を載せた。


「今日の放課後、遊びに行こうぜ、どうせ暇だろ?」


 暇じゃないよ、と言いたいところだったが、部活も塾通いもしていない哲雄の放課後は、いつも暇だった。嘘の用事を咄嗟に作ろうとしたが、二人を納得させられるような気の効いたものは思い浮かばなかった。


「ネクラなお前を心配して、山本が誘ってくれているんだぞ、哲雄君。お礼の言葉も、ないのかい?」


 心配してくれと頼んだ覚えなどない。


「あ、ありがとう、山本、君」


 これっぽっちも思っていない言葉。


「そうか、良かった。断られるかと、ビクビクしたよ」


 山本が気分良さそうに微笑んだ。


「山本って、結構繊細で、心配性だからな」


 白々しいとしか言いようがない二人の会話。でもこれでいい。哲雄は自分を納得させようとした。二人との絡みを早く終らせるには、下手に逆らないのが一番だ。


「じゃあ四時半に駅前でな。絶対に来いよ」


「遅れるなよ」


 二人が哲雄から遠ざかり、教室を出ていった。朝礼に備えてトイレにでも行ったのだろう。安堵からくる脱力感から、思わず深い息が漏れた。放課後のことは考えないようにして、今はとにかく小さな災いが去った喜びを噛み締めよう。


 ふと、下村の方を向いた。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。一瞬、下村と目が合って、すぐに下村の方が慌てて目を逸らせた。


 哲雄は強い苛立ちを覚えた。




 今のクラスに友達はいなかった。


 以前は、趣味などを話し合えるクラスメートがいた時もあった。しかし山本と川口に絡まれるようになると、そのクラスメートは遠ざかっていった。裏切られたような気分になったが、同時に仕方がないとも思った。そもそも当たり障りのない会話を楽しむだけの相手でしかなかったし、相手の方も同じように思っていただろう。傲慢さと横暴さで評判の悪い山本とつながるくらいなら、哲雄を切り捨てた方が良い、という判断を責めることはできない。


 山本と川口が絡んでくるようになったのは六月中旬くらいからだった。夏休み前までは一日に一回か二回話しかけてくる程度で、夏休み中は一度も会わなかった。しかし夏休みが明けると、絡んでくる頻度が急激に増えた。傍からは親しそうに見えるかもしれないが、二人に対して友達の情を抱いたことは一瞬もなかった。


 山本の一方的な約束など無視してしまいたいところだが、実際にそうしてしまうと、さらに乱暴に扱われるようになるかもしれない。平穏な日常をこれ以上脅かされないようにするのが、最も大事なことだった。


 学校以外で二人と会うのは初めてだった。私服を見られるのは、恥ずかしいのを通り越して不愉快だった。私服を他人に見せたくない、というのも出不精の理由のひとつだった。自分のファッションセンスを疑う前に、まず自分で服を選んで買ったことが一度もなかった。すべて母親が買い与えてくれたもので、それらがいわゆる、ダサい、ということくらいは何となくわかっていた。


 私服が嫌だからといって、制服で駅前に出掛けるのは、リスクが高すぎた。放課後、校外を制服で出歩くのは、帰宅時を除いて校則で禁止されていた。町中の人々がそのことをよく知っており、喜んで学校に密告する大人も少なくなかった。


 自分なりに考えて選んだ、最も当たり障りのない服装で、待ち合わせの五分前に駅前に着いたが、すでに山本と川口が待っていた。


「おっ、来た来た。じゃあ、行こうぜ」


 二人はすぐに歩み出した。


 俺達より先に来て待ってろよ、と怒られるか、お前の服スゲェ格好悪いな、とからかわれるか、と予想していたのだが、意外とあっさりしていた。いつも一緒に遊んでいるかのように、二人が迎え入れてくれたことに、逆に戸惑った。


 二人は迷うことなく駅前アーケード街に入っていった。この町で若者が好んで買い物する場所といえば、駅と直結している大型百貨店の方で、アーケード街を利用するのは年配者ばかりだった。アーケード街に人通りがないわけではなかったが、やはり大型百貨店の影響で、寂れつつあるのも事実だった。三軒に一軒は、シャッターが閉められたままになっている。


 違和感が半端ではなかった。三人はまるで異物だった。


 神経質になっているからなのか、擦れ違う人々が皆、睨んでくるような気がしてならなかった。


 どうしてこんなところに中坊がいるんだ。 


 いつの間にか哲雄は、山本と川口の影に隠れて、うつむき加減になっていた。


 あっ、と山本が声を漏らした。山本と川口に緊張が走るのを、哲雄は感じ取った。


「平野先輩、お久しぶりです」


 山本の声がワントーン高くなった。哲雄が初めて聞く声質だった。


「おぅ、山本かぁ。そっちは見たことある顔だな。ごめん、名前、何だっけ」


「川口です」


「ああ、川口ね。一応覚えとく」


 高校生だった。見慣れないブレザータイプの制服を、かなり着崩していた。髪は、根元側は黒、毛先側は金色に二分していた。耳にピアスをぶら下げ、眉を細くカットしていた。童顔のやさしいイメージを無理に剥ぎ取って、代わりに馴染まない強面を貼りつけていた。それが独特の迫力を生み出していた。


「後ろの君は、初めて見る顔だな」


 哲雄も緊張で固まった。心臓だけがバクバクと激しく鼓動していた。


「こ、こいつは最近知り合った友達です」


 山本が言った。平野先輩は哲雄の顔を凝視した。哲雄は視線を微妙に下に逸らせた。目を合わせてはダメだ、と本能が命じていた。


「ふぅん。まあ……、いいや」


 つまらなさそうな平野先輩の口調だった。


「ところで山本、夏休み中に野球部辞めたんだってな」


「あの、それは……、その……」


 山本の声が微妙に震えている。


「いいんだよ。部活辞めんのは個人の自由だから。けどよ。俺に相談もなしに辞めるって、どうなの? せめて報告に来いよ。それが先輩への礼儀ってもんだろ」


 山本は何も言えず、うつむいた。


「まあ、礼儀のことは、今回は大目に見てやるけど、辞めた経緯とか理由、教えてくれよ。そうだな。今日はお友達がいるし、明日は俺に用事がある。明後日だな。明後日、俺に付き合えよ」


「いや、明後日は、ちょっと……」


「用事なんか、ねぇだろよ」


 平野先輩が脅すように、声を低くして凄みを加えた。


「……ありません」


「そうだろ。そう思った。案外お前のこと、よく知ってんだぜ」


 平野先輩は満足そうな顔をした。


「まあ、俺もお前の都合、考えてやるから。明後日、お前のために中学行ってやるよ。その方がお前も、手間が掛からずにいいだろ?」


「……はい」


「授業終ったらすぐに裏門で待ってろ。俺もすぐ行くから。俺、人待たせるのも、待つのも嫌いだから」


「はい」


 返事しかできない。


 平野先輩は山本の肩を軽く叩いた。軽くといっても親しみが感じられるほどやさしくはなかった。


「久しぶりだな、中学行くの。今から楽しみだな」


 ニヤリと不気味に笑って、三人の脇を悠然と抜けていった。何とも言えない空気感だけを、その場に残して。少しの間、三人は立ちすくんでいた。


「平野先輩って、相変わらず、怖いよな」


 最初に口を開いたのは川口だった。


「怖くなんか、ねぇよ」


 山本は吐き捨てるように呟き、再び歩き始めた。川口と哲雄はつつましく後をついてゆく。


「たった二歳上なだけで、偉そうにしやがって。人生、何十年あると思ってんだよ。野球部でレギュラーにもなったことないくせに、格好つけやがって。あのクソが」


 山本の本音が溢れ出した。


「タイマンだったら、絶対俺の方が勝つ。あんなイチビリ野郎、大したことねぇよ。水曜日、アイツが裏門に来たらボコボコにしてやる。顔の原型がわからないくらいにしてやる」


 独り言にしては声が大きかったし、後ろの二人に聞かせているにしては声が小さかった。ただの強がりだということは、哲雄にもすぐわかる。もし本当にそう思っているのなら、平野先輩の前で、もっと堂々としていられたはずだ。


 そういえば、山本は平野先輩に、僕のことを、友達です、と紹介していた。


 山本にしてみれば、咄嗟の方便でしかなかったのかもしれない。それでもあれほどはっきりと、友達、と言い切ってくれた人は、今までいなかった。


 山本の中に友達の情が、ほんの少しでも本当にあるのだとすれば。


 いつの間にか、山本が平野先輩を罵るのをやめていた。哲雄の隣にいたはずの川口が、何気なく山本の隣に戻っていた。哲雄は二人の背後でこっそりと嘲るように唇を歪めた。川口のようになれそうもなかったし、なりたくもなかった。


 それほど長くないアーケード街を間もなく抜けた。交差点の横断歩道を渡って、右に曲り五十メートルほど進むと本屋があった。地域で一番大きな本屋だったが、最近は大型百貨店内の洒落た本屋に、客の大半を奪われてしまっている。


「しかし寂しい店だよな」


 山本がガラス窓越しに店内を覗き込んだ。声の調子から、すっかり元の機嫌に戻ったことは明らかだった。


「これで潰れないのが、不思議だよな。コミックコーナーでも二人しかいない」


 バカにしたような川口の言い方だった。


「これなら万引きしても、誰にもばれないよ。なぁ、哲雄」


「えっ」


 山本の言葉に哲雄は困惑した。


「そんなことはないと思うよ。監視カメラだってあるし」


「そんなもの、取って、すぐ出てくれば問題ない。こんな儲かってない店、レジ係と店長しかいないに決まっている。レジ係はレジから離れられないし、店長だって、監視カメラのモニターで気づいて、店の奥から慌てて追いかけたところで、まず間に合わない」


 川口は自信満々だった。


「俺さあ、今欲しい漫画本、五冊あるんだよな」


 山本がなれなれしく肩を組んできた。


「哲雄にもすぐわかるように、メモしておいたから、持ってきてくれよ。俺達、ここで待ってるからさぁ」


「五冊も? お金は?」


「ないよ。あったらとっくに買ってるって」


「僕だって、お金ないよ」


「買ってきてとは言ってない。持ってきてって言ってるんだよ」


「そんなぁ。万引きなんか、できないよ」


「哲雄くーん、落ち着きなよ」


 山本は少し小声になった。


「大したことないって。哲雄君のために、大きめのショッピングバッグまで持ってきてあげたんだから。これだけ大きかったら、中身、見えないだろ。本屋に入って、ここに漫画五冊入れて、返ってくるだけ。簡単だろ? 三分で終るよ」


 簡単なら、自分でやればいいじゃないか、と哲雄は反発心を抱いたが、それを態度に表すことはできない。


「なあ、哲雄」


 川口が正面に立ち、哲雄の顔を覗き込んだ。彼の微笑に、哲雄は息を呑んだ。まさかこんなに柔らかな笑みを浮かべられる人間だとは。なぜか、仏様のようだ、とすら思ってしまった。何でもいいから、救いを求めていたのかもしれない。


「俺達、友達だろ?」


 その言葉は心を揺さぶった。


 山本の個性が際立っていたせいもあり、川口という人間を強く意識することは、今までなかった。山本の忠実なる家来、という程度の認識だった。それが今、その存在感が、目の前で急激に膨張し、哲雄を包み込もうとしていた。


「大丈夫。もし店員に捕まりそうになったら、俺達、必ず助けにいくから」


 何と甘い言葉だろうか。


 山本ほどの傲慢さや横暴さを、川口から感じたことはなかった。いつも見下すような態度ではあったが、それでも山本のような、頭を叩いたり、首を絞めたりといった乱暴は働かなかった。


 ひょっとして、川口となら、わかり合えるのでは。


 その思いは、哲雄を勇気づけた。


 今はまだ自分の方にわだかまりがあって、川口をすぐに友達と認めるわけにはいかないが、これを機にもっと親しい間柄になれるかもしれない。時間を掛ければ、友情を築けるかもしれない。


 二人が真の友達になれれば、ひょっとして、山本とも、わかり合える仲になれるかもしれない。


「本当だよね」


 哲雄は呟いた。


「本当に、助けに来てくれるよね」


「もちろんだよ。友達なんだから」


 決意のために深く息をつき、山本からメモ書きとショッピングバッグを受け取った。


「行ってくるよ」


 真っ直ぐ、二人の方を振り返りもせず、店内に入っていった。効きすぎている冷房が、哲雄の気持ちを更に引き締めた。


 やってやるよ。川口に説得されなくても、どのみち山本に脅されて同じ行動を取っていただろう。ならばいっそのこと、僕も男だってところを見せてやる。友達に値する度胸を持っていることを証明してやる。


 コミックコーナーに入る。二人の先客はいなくなっていた。山本が所望している漫画五冊は、あまりにもあっさり見つかった。それだけで動揺してしまった。探す過程で気持ちを整えるつもりでいたのだ。


 大丈夫だ、しっかりしろ。店員を殴ったり、本棚を引き倒したりするわけじゃない。ただ漫画五冊を、ショッピングバッグに放り込めばいいだけ。小学生でもできる、簡単なことだ。


 自分に言い聞かせながら、一冊目に手を伸ばす。指先が少し震えている。掴むと、目を閉じて、そのままショッピングバッグの中に入れた。


 やってしまえば、大したことじゃない。


 そうだ、これは運命だったんだ。この本は、僕に万引きされる運命にあったんだ。運命なら、万引きに抵抗感を覚える方がおかしいじゃないか。


 二冊目、三冊目、四冊目、と勢いで万引きしてゆく。その時、哲雄はあまりに初歩的なミスを犯していた。万引きのプレッシャーをいかに克服するかにばかり気を取られていて、店員の様子に注意を払っていなかったのだ。


 五冊目に手を掛けた時、肩を掴まれた。


 心配して川口達が迎えに来てくれたと勘違いして振り返った。レジ係より体が一回り大きな、知らない男性が立っていた。胸元のネームプレートに、店長、と印字されていた。


「ちょっと君、何やってるのかな」


 冷酷な声が肩にのしかかってくる。店長はショッピングバッグの端を軽く引っ張って、中を覗いた。


「見るからに怪しいんだよ。君みたいなのが、そんな不釣合いなバッグ持って。今から万引きするから捕まえてください、って言っているようなものだ」


 店長は少しも怒っていなかった。その表情がどのような思いに由来しているのか、哲雄はすぐにわかった。僕を見下している。怒るにも値しないバカな子供だと思っている。


「店の奥まで来てもらうよ。親御さんも呼ぶからね。それまでゆっくり話しようか」


 どうすればいいのか、さっぱりわからなかった。計画を練って万引きに入ったのではない。数分前にいきなり万引きしろと言われて、行き当たりばったりで実行しただけ。万引きに失敗した時の対処法など自分で考えているわけがない。


 助けに来てくれるはずの山本と川口は?


 ガラス窓越しに店外を窺った。誰もいなかった。


 やっぱり、そういうことか。


 目が覚めたような気分だった。甘い夢は、あまりに淡かった。




 六時半頃、母親が本屋に姿を見せた。店の奥で店長と顔を合わせると、すぐさま謝罪に取り掛かった。


 ウチの息子が、こんな卑劣なことをしてしまい、申し訳ございません。すべて親である私の責任です。本当に申し訳ございません。許して頂きたいとは、申しません。ただ心から謝らせてください。申し訳ございません。


 とにかく過剰だった。取り乱し、声を震わせ、店長が少しでも声を発すると、それに反応して何度も頭を下げた。これには店長もうんざりしたようで、まともな説教ができないと悟ると、あっさり親子を解放してくれた。


「こういう時は、ひたすら謝ればいいから」


 本屋を離れてすぐ、母親が言った。


「この人、ちょっと普通じゃない、と思われるくらいにね。普通じゃない人に、長々と説教しないでしょ?」


 確かに迫真の演技だった。狂気すら感じられるほどだった。独身時代に、どこかの劇団に所属していたらしいが、さすがだった。


「だけど、あんまり面倒なことは、もう起こさないでね。漫画なんか、欲しかったら買ってあげるから。万引きするほどの物じゃないでしょ?」


「ごめんなさい」


 大人には、これ以上のことは言えない。


「こういうことって、会社の人間に知られると、結構まずいのよ。立場が悪くなって、仕事がやりづらくなるのよ」


「ごめんなさい」


 うつむき加減で、聞こえるか聞こえないかくらいの囁き声で言うのがコツだった。


「まあ、気をつけて」


 二人の会話はそれで終った。


 帰宅後、母親はいつも通り、手早く二人分の夕食を作って、息子と一緒に食べた。万引きのことは、それ以上追及しなかった。


 父親はいつも通り、午後十時過ぎに、幾分酔っ払って帰ってきた。息子の万引きのことを聞いて、大声で怒鳴りつけた。


 哲雄、何てことをしたんだ。


 ただし、この一言だけだった。父親の怒りの方向は、すぐに哲雄から母親に歪に折れ曲がった。


「大体、お前が仕事なんかにうつつを抜かして、子育てを放棄しているから、こんなことになるんだ。お前のせいだ」


「またそうやって、私だけ悪者にする。貴方だって親なんだから、ちょっとは子育てに協力しなさいよ」


「俺は仕事で忙しいんだ。お前のどうでもいい仕事とは違うんだ」


「どうでもいい仕事って、そういう言い方はないでしょ。貴方の仕事だって、取引先のクソオヤジにペコペコ頭下げながら、酒飲むだけでしょうが」


 哲雄は、両親からこっそりと離れ、自分の部屋に避難した。ドアを閉めても、微かだが、両親の罵声が聞こえてくる。


 両親は憎しみ合っている。いつからだろうか、夫婦喧嘩がこの家族の日常となっていた。


 両親は互いに相手の欠点、弱点、ミスを常に探している。それらを少しでも見つけると徹底的に攻撃して、精神的なダメージを与え、屈服させようとする。息子の万引きですら、父親は母親を攻撃するために利用した。


 息子が両親とまともな会話をしなくなって久しい。思春期の割には両親を嫌っていなかったし、両親の仲直りを素直に望んでいたが、両親の間に入り込む余地がなかった。せめて喧嘩の邪魔をしないように、食事と風呂とトイレ以外は、大抵自分の部屋にこもるようになった。自分の部屋にいても、慢性的な家族の緊張からは逃れられなかった。両親が喧嘩をしていない時でも、それどころか、両親がいない時でも、緊張感は微かに漂っているので、百パーセントのくつろぎは得られなかった。


 この家に、自分の居場所はない。この部屋ですら、本来の居場所ではない。最近、そう思うようにもなった。


 とにかく、こういう運の悪い日は、さっさと寝てしまった方がいい。哲雄はパジャマに着替えて布団の中に入った。


 依然として両親の喧嘩が続いている。いつもなら早く止んでくれと願うのだが、今日だけは気持ちが安らいだ。できれば息子の万引きなどすっかり忘れてしまうほど、とことんやりやってほしいとさえ思った。両親の罵声が子守唄のように感じられ、いつの間にか眠りの中に落ちていた。




 哲雄の万引きのことは、警察への通報こそなかったものの、さすがに中学校には伝えられていた。火曜日の放課後、生活指導の教師に呼び出され、みっちりと説教された。


 お前が盗んだ本は、ただの紙の集まりなんかじゃないんだぞ。多くの人の努力と苦労の結晶なんだぞ。それをお前は金も払わず、安易に自分の物にしようとした。そんなことが許されると思っているのか。自分のしたことが恥ずかしいとは思わないのか。


 生活指導の教師に限らず、この中学校の教師の言葉は、どうしてこれほどまで心に響かないのだろうか。幼稚で陳腐なフレーズばかりで、そのすべてが空間を舞っている埃のように軽く、何もしなくても、すぐにどこかに散ってゆく。


 そもそも反省など、まったくしていない。自分の意志ではなく山本に強要されただけで、むしろ自分こそが被害者だとすら思っていた。それでも真実を主張するのは、得策ではなかった。山本と川口を巻き込めば、後々仕返しを受けるだけ。終りのない説教はないと思って、ただ耐えるしかなかった。


 もっとも、この程度ならたやすいものだった。欠伸が出そうになるのを我慢して、反省している顔を作っていれば良いのだから。両親の罵倒の応酬を傍で聞いている方が、はるかに苦痛は大きかった。


 水曜日の放課後、教室に居残って、反省文を書くことにした。今週中に原稿用紙五枚、というのが生活指導の教師から課せられたノルマだった。


 終礼後の三十分は、無駄なお喋りを続けてなかなか帰らないクラスメートのせいで、作文に集中できず、文章二行しか書けなかった。その内、教室に一人だけになると、幾分はかどるようになったものの、それでも一時間で原稿用紙二枚だった。慣れない作文に疲れたので、残りは明日以降に回すことにした。


 グラウンドでは、サッカー部員やら野球部員やらが、忙しそうに鍛錬に励んでいた。走ったり、打ったり、蹴ったり、投げたり。彼らの姿はこの町の日常風景の中に違和感なく溶け込んでいた。それをガラス窓越しに、まるで美術作品を鑑賞するかのように眺めている自分。


 人のまばらな朝の教室よりも、心地良いやすらぎを感じていることに、ふと気づいた。完全に一人なので気を使わなかったし、作文の疲労感が、ちょうどいい具合に気分を静めてくれた。大人ならこういう時、コーヒーでも楽しむのだろうか、と自分が格好良くそうしている様子を空想してみて、ちょっと恥ずかしくなった。これからは朝早く登校するだけでなく、夕方も遅く帰るようにしようか、というアイデアが頭をよぎったが、部活もしていないのに、なかなか帰らない変な奴、とクラスメートに思われるのは、やはり嫌だった。


 そろそろ帰ろう、と何気なく振り向いた。


 教室の後ろ扉に、山本が立っていた。不意をつかれて、上半身がビクッと震えた。


 山本の顔の形状が、明らかにいつもと違っていた。両頬とも腫れ上がっている。左頬の方が特にひどく、下まぶたが押し上げられて目が半分しか開いていない。


 思い出した。山本が平野先輩と裏門で会う約束は、今日の放課後だった。


「哲雄? 何でお前がまだ学校に?」


 山本が困惑の声で呟くと、急速に顔に怒りが満ちてきた。


「何で、お前がまだここにいるんだよ」


 激情のままに怒鳴ってきた。その迫力に哲雄は圧倒され、思わず後ずさりした。


「いや、その、生活指導の……」


 哲雄の説明を聞こうという意思が、山本にはまったくなかった。早足で近づき、その動きのまま右拳を振り抜いた。いきなり殴られるとは予想していなかったので、哲雄は避けられずに、左頬にまともに受けてしまった。近くの机を押し退けるようにして倒れた。山本はすぐさま、哲雄の胸倉を掴んで強引に立たせて、今度は左拳を振り抜いた。先ほどよりも強い衝撃で、頭の中で脳が揺れるようだった。よろめいて、多くの机をなぎ倒してしまった。


 これはやばい。殴られた痛みは、戦慄で打ち消された。山本の奴、我を失い、手加減することを忘れている。このままでは殺される。


 慌てて逃げようとするが、足元がおぼつかない。すぐに襟を掴まれ、また右拳を喰らった。さらに多くの机をはじき倒して、まったく意図せずに教室内に机のないスペースを作ってしまった。足を掴まれて引きずられ、そのスペースに仰向けに寝かされた。


 山本が哲雄の腹の上に馬乗りになる。右拳、左拳、右拳、左拳、と交互に、容赦なしに振り下ろしてくる。


 何なんだよ、これ。


 意識が朦朧としてきたのか、殴られている感覚がなくなってきた。


 何で、こうなるんだよ。こういうのが、一番嫌だったのに。こうならないために、いろいろ気を使ってきたんじゃなかったのかよ。なのに、何で、こうなるんだよ。いろいろ気を使って、結果、こんな、ひどい有様になって。もう、どうしようもないじゃないか。


 結局、何発殴られたのか、わからなかった。


 少しの間、気絶していたのかもしれない。いつの間にか、山本はいなくなっていた。


 天井を見上げながら、魂が抜けるかのような、深い溜息をついた。


 こういう時に人間って、本当に大の字になるんだな。


 つまらないことをぼんやり思いながら、ゆっくりと上体を起こした。頬がじんじんと熱を発していたが、痛みはそれほどでもなかった。ダメージは意外と軽いようだった。やられ方が情けないほど大袈裟だったので、その分山本の力をうまく逸らせていたのかもしれない。


 太陽が沈んできて、教室内の影は濃くなっていた。机や椅子といった実体と、それらと重なり合う影との境目が曖昧になっていた。しかし教室の前扉に立つ一人の女子生徒の輪郭だけは、異様にはっきりと浮かび上がっていた。


 下村!


 目が合った瞬間、女子生徒が逃げた。廊下を走るパタパタという音が徐々に小さくなってゆく。


 脳天が弾け跳びそうなほどの激しい怒り。


「シモムラァァァァ」


 立ち上がり、追った。机の足か何かが脛に当たったが、知ったことではなかった。足元がふらついているのかもしれないが、どうでもよかった。教室を飛び出すと、黄昏の廊下を全力で駆け抜けた。追いかけ、捕まえ、潰す。頭の中はそれだけだった。


 下村の足の遅さはクラス内で有名だが、哲雄も決して足は速くなかったし、殴られた後で本調子ではなかった。ただ走ることだけを考えていれば、下村はおそらく逃げ切れただろうが、余計な行動を取ってしまった。哲雄に姿を見られているにも関わらず、適当な教室の中に入って隠れようとしたのだ。しかも教室の扉は開かなかった。


 バカ女め。哲雄はほくそえんだ。


 生徒数の割には、校舎が大き過ぎるために、現在三分の一の教室が閉鎖されており、勝手に使用されないように扉も施錠されていた。この学校の生徒なら誰もが当然知っているはずだが、あまりに慌てていたのか、下村はすっかり失念していた。


 二人の差は一気に縮まった。下村は諦めて、また走り始め、すぐ近くの階段を下ったが、途中で足がもつれ、踊り場で膝をついてしまった。背中で息をして、すぐには立ち上がれなかった。


 ゆっくりと、まるで一段一段を確認するかのように下る哲雄。妙に体が火照って、額にじわりと汗が滲んだ。教室内ではまったく感じていなかった夏の余熱が、まとわりつくようで不快だった。


「どうしてだよ」


 哲雄の声に、下村が振り返る。


「どうして、下村が、まだ学校にいるんだよ」


「……花瓶を」


「花瓶?」


「いや、……何でもない」


 下村は、しまった、というような顔をした。


 なるほど。哲雄の頭の片隅にあった些細な謎が、ふと解けた。それは閃きのようなものだった。


 クラス担任が休職してから、放置状態だったはずの黒板脇の花瓶が、どうしていつもピカピカだったのか。答えは実に簡単だった。下村が手入れしていたからだ。ただし、その様子をあからさまにいじめっ子達に見せてしまうと、暴力が花瓶に向けられてしまうかもしれない。だからクラスメートの前では花瓶に関心がないような素振りを見せておいて、放課後、教室に誰もいなくなってから手入れしていたのだ。しかし今日は最後の一人がなかなか帰らなかったので、これほど遅い時間まで残ることになってしまったのだ。


 たがが花瓶のために、なぜそこまでするのか。


 いや、この女には、もはや花瓶しか残っていないのだ。学校内でのいじめと孤独に耐えるためには、クラス担任との思い出にすがるしかないのだ。


 本当に哀れで、キモい女だ。


 哲雄は強く蔑もうとした。


 しかし、このオバケ女に、今までの人生で最も格好悪いところを見られてしまった。他の誰でもない、この女にだけは、絶対に見られたくなかった。絶対に見られてはならなかった。怯えた顔を作りながら、ざまあみろ、とでも思っているんだろう。自分よりも無様な目に遭っている人間がいると、優越感に浸っているんだろう。


 何て心の汚い性悪女なんだ。許せない。僕以上に、山本以上に、今からこの女を、ボコボコにしてやる。


「立てよ」


 哲雄は呟くように言った。


「早く立てよ」


 今度は怒鳴った。


 下村はビクッと体を震わせて、慌てて立ち上がった。哲雄は下村の肩を左手で鷲掴み、右の拳を振り上げた。下村は顔を強張らせて身構えた。


 しかし哲雄は、拳を振り抜けなかった。


 左手の平から伝わる下村の体温。教室よりも薄暗い踊り場でも、その表情からはっきりと感じ取れる暴力への恐怖、慣れとよく似た諦め、そして殉教者のような覚悟。


 こんなものを現実に感じて、殴れるわけないじゃないか。


 強く噛み締めた歯が軋む。


 暴力を望んだことなど、本当は一度もなかった。ただ妄想の中で楽しむだけで満足だった。妄想を実現させるつもりなんか、まったくなかったんだ。


 こんなものを現実に感じて、もう妄想すら抱けなくなるじゃないか。


 拳を解いて、右手を力なくゆっくり下ろした。


「唇から……」


 下村が囁く。


「唇から、血が出ている……。大丈夫?」


 下村の人差し指が、哲雄の唇に触れた。


 哲雄は反射的に下村を突き飛ばし、自身も後ずさりした。


「何やってんだよ」


 心の混乱のせいで、声が歪になってしまった。


「だって、痛そうだから」


 下村の人差し指の感覚が唇に留まっている。慈愛に満ちた温かさだったが、今の哲雄にとっては、鋭く突き刺す凶器でしかなかった。


 僕に同情しているのか。


 この女、僕のことを、自分と同類の人間とでも思っているのか。自分と同類の、いじめられっ子とでも思っているのか。まさか、それ以上の、友達とでも思っているのか。


 ふざけるな。


「ふざけるな」


 思いがそのまま呟きとなった。そしてさらに強い感情が溢れ出した。


「フザケルナァアア」


 悲痛な叫びが、ガラス窓を、コンクリート壁を振動させた。


 気づいたら、教室に向かって走っていた。下村をそのまま放って、がむしゃらに階段を上がり、廊下を駆け抜けていた。


 もうこれしかない。劣勢を覆す最後の手段。花瓶だ。下村を直接殴れないのなら、代わりに花瓶を割ってやる。


 待って。


 下村が後を追ってくるが、もちろんその差は縮まらない。


 勝負はまだ終っていない。哲雄の両拳に力が漲る。微かな希望に唇が緩む。下村の奴、キモいくせに、僕をここまで追い込みやがって。だけど、最後に勝つのは、この僕だ。


 教室に入る。黒板脇の花瓶を鷲掴みにする。そして高々と掲げ、机のないスペースに叩きつけた。


 花瓶は一瞬で、ただのガラスの破片と化し、鋭くも軽やかな音とともに飛び散った。


 哲雄は呆然となった。


 我に返ったというよりは、放心状態に近かった。体中に充満していたはずの激しい感情が、花瓶の割れる音によって、まるで初めからなかったかのように、掻き消えてしまった。勝利の喜びなど微塵もない。整わない呼吸と、全身から噴き出す汗に、違和感しかなかった。


 もうひとつの呼吸音。


 微かな音だったが、まるで空気を引っ掻くような刺々しさがあった。速く規則正しいリズムだったのが徐々に乱れて、すするような音も混じるようになった。泣いている。静かに悲しんでいる。


 花瓶が叩きつけられた場所を挟んで、哲雄と対面する。しかし顔を合わせようとせず、深くうなだれ、膝をついて座る。右手を伸ばし、破片を摘む。細い体がピクリと震え、指先に血が滲むが、それを気にせず、左手の平に破片を置く。


 それを繰り返して、花瓶の残骸を集めてゆく。


 破片を摘む度に、指先の傷は深くなり、新たな血が滲み、雫となって落ちる。左手の平が一杯になるまで破片を拾い集めると、床の各所に小さな血溜りができていた。


 立ち上がり、顔を上げ、そしてようやく哲雄を真っ直ぐに見つめた。


 哲雄は激しく動揺した。


 まるで自分自身と対面しているかのようだった。しかし同時に、それ故なのか、自分と下村との違いが際立ってもいた。キモいはずのオバケ女が、まるで聖女のように神々しく、またそれが極限まで磨かれた鏡のようになって、哲雄という人間の卑しさを容赦なしに突きつけてきた。目を逸らそうにも、金縛りにかかったように、体の一部分も動かせなくなっていた。


 下村が教室からいなくなっても、哲雄はしばらく立ち尽くしていた。夕日の名残を受けて微かに輝いていた血溜りが、徐々に伸びる夜の闇によって完全に光を失うまで、ただ眺めているしかなかった。




 木曜日、哲雄は落ち着かない一日を過ごした。


 騒動の痕跡は、一見したところ、残っていなかった。机はいつも通り整列していたし、花瓶の破片は見当たらなかったし、血溜りがどこにあったのかもわからなかった。昨日できる限り片づけた哲雄だったが、それでもどこかに見落としがないか、気になって仕方がなかった。


 下村は欠席した。


 花瓶がなくなっていることに、クラスメートが気づかないわけがなかった。さっそく本人がいないのをいいことに、下村が花瓶を盗んだ、という根も葉もない噂が、揺るぎのない事実であるかのようにクラス中に広まった。以前の哲雄なら、それを密かに嬉しがっただろうが、今は罪悪感で一杯だった。噂を疑いもせず真犯人を追及しようとしないクラスメートの浅はかさを嘆きつつ、安堵の気持ちが自分の中に巣食っていることに軽い怒りを覚えた。


 いくらキモいオバケ女でも、嘘で貶めるのは違うのではないか。


 昨日の聖女のような下村が、何度も思い返された。そしていつの間にか、下村のことばかり考えていた。


 下村は花瓶にすがっていたのではなかった。もし何かにすがらなければならないほど、いじめで追い込まれていたのなら、今日のように学校に来ないという選択がいつでもできたはずだ。しかし下村は律儀に毎日登校し、律儀にいじめを受けていた。しかも自分の酷い扱いを誰に訴えるでもなく、黙って苦しみに耐え続けた。むしろ進んで苦しみに身を投じているようですらあった。


 なぜ。


 それは花瓶を守るため。


 いじめっ子達や、他のクラスメートに花瓶を傷つけられないように、常に花瓶を見張り、そして一日の最後に手入れをしながら、花瓶の状態をチェックしていたのだ。いじめに黙って耐えていたのも、花瓶からいじめっ子の目を逸らさせるためだった。クラス担任の快復を祈りながら、いつになるかもわからない復帰の日に備えていたのだ。クラス担任が帰ってくる場所はこの教室しかないのだということを、ピカピカの花瓶で示そうとしていたのだ。


 哲雄には理解できなかった。


 どうして、先公なんかのために、そこまでするのか。いじめに耐えてまで、することには到底思えない。やっぱり、あの女は頭がおかしい。


 しかし、たとえ理解できなくても、その強い思いまで否定してしまうのは違うのではないか。


 授業が終ると、真っ直ぐ自宅に帰った。万引きの反省文の続きを書くにも、あの教室では集中できない。母親が使っていない花瓶を居間の押し入れに収納していることは知っていた。さっそく押し入れを探してみると、すぐに五本見つかった。その中で自分が割った花瓶に最も似ている一本を勝手に学校に持って行くことにした。染色部分がなく、平凡な形な上に、ガラスが中途半端に厚くて、さらに野暮ったい花瓶だった。


 母親の私物を盗むことになるが、おそらく気づかれないだろう。それどころか、このような野暮ったい花瓶を持っていることすら、母親はすでに忘れているだろう。


 これは下村のためなんかじゃない、と自分に言い聞かせた。


 花瓶がなくなったのだから、学校に来ていじめを受ける理由が、下村にはもうないはずだ。だからこそ、今日は学校に来なかった。それならば、いっそのこと、もう学校に来ない方がいい。下村は心身ともに傷つかずに済むし、僕もキモいオバケ女を見て不快な気持ちにならなくて済む。


 下村なんか、関係ない。


 ただ筋は通さなければいけない。壊した物を、完全に元通りにできなくても、できる限り元に近い状態にする。人間として当たり前のことを、僕はやろうとしているだけだ。


 下村なんか、関係ない。


 ただ至福の一時は取り戻さなければならない。朝、教室に入って、椅子に座った時の、ふっと力が抜ける感覚が、絶対に必要なのだ。それには花瓶が黒板脇になければダメだということが、今日よくわかった。心地良い雰囲気というのは、案外些細な変化で損なわれてしまうものなのだ。あんなつまらない花瓶でも、それなりに重要な役目を担っていたわけだ。


 下村のためなんかじゃない。これは僕自身だけのためなんだ。


 金曜日、カバンに花瓶を強引に押し込んで学校に向かった。出勤前の母親に気づかれないように注意したため、家を出るのに手間取ってしまい、いつもより登校が遅れてしまった。教室に入ると、すでに九名のクラスメートがいた。


 花瓶を置くのは放課後、教室に誰もいなくなってからと決めていた。いずれにしろ、今日中に反省文を仕上げなければならないので、哲雄が遅くまで残ることに不自然さはなかった。土曜日曜の休みの間に、花瓶はきっと教室の雰囲気に溶け込んで、来週の月曜日には誰にも気づかれないくらいにまで馴染んでいることだろう、と都合の良いことを考えていた。


 カバンの中で花瓶が相当かさばっている。教科書とノートの上に花瓶を入れてしまったのは大きなミスだった。花瓶を取り出さずに教科書とノートを取り出すのは、なかなか難しいし、無理をすると花瓶を破損する可能性もある。トイレの個室に行って入れ替えるしかないのか。


「グッドモーニング、哲雄君」


 背後から山本が腕を、哲雄の首に巻きつけてきた。そういえば昨日はまったく絡んでこなかった。一昨日の気まずさを強引に払拭しようとしているのか、山本の声は不自然に溌剌としていた。


「かばんの中見てたけど、何か持ってきたの?」


 いつもより、川口の声に抑揚が乏しいような気がした。


「何も持ってきていないよ」


「……ふーん」


 川口はいきなり哲雄のカバンを全開にした。


「やめろよ」


 哲雄がカバンの口を慌てて閉じた。


 顔を見合わせる山本と川口。それだけで意思が通じ合ったのか、山本が哲雄を素早く羽交い絞めにして、川口がカバンを奪って花瓶を取り出した。見事な連係だった。


「何? これ」


「返せよ」


 哲雄の立ち上がる勢いで、山本の羽交い絞めが簡単に解けた。むしろ山本の方から解いたのかもしれない。


「あー、ひょっとして、哲雄、お前、花瓶、割っただろ?」


 山本の顔の腫れは、昨日はかなり残っていたが、今日はほとんど引いていた。


「ち、違うよ」


 咄嗟に嘘をつく。


「じゃあ、何で花瓶なんか、持ってきてるんだよ」


 川口の問いに、言い訳が何も浮かばず、黙ってしまった。


「こういうことは、正直に副担任に言わないといけないんじゃないの? 僕が花瓶を割りましたって」


 山本の言い方が癪に障る。


「だから違うって言ってるだろ。花瓶返せよ」


 川口に飛び掛る。川口は後ろに下がってかわし、そのまま廊下に出た。哲雄が追いかけて、山本も後に続いた。


「いいから返せよ」


 もう一度川口に飛び掛る。川口が哲雄の頭越しに花瓶を山なりに投げた。山本は器用にキャッチした。


「さすがは元野球部」


「野球なんか古いぜ、川口。これからはアメフトの時代だ」


 山本は花瓶を片手で、肩の上に掲げた。


「やめろよ。返せよ」


 哲雄は山本に飛び掛る。山本はクオーターバックの真似をして、哲雄の手が届く寸前を見計らって花瓶を投げた。勢いが強すぎた。川口が取り損ねて、花瓶が床に落ちた。厚めのガラスのせいか、割れる音が意外と鈍かった。


 失敗した、というように浮かべた川口のふざけた苦笑い。その顔が目に入った瞬間、哲雄は右の拳を川口に振り抜いていた。怒りが湧き上がるよりも速く体が反応した。完全に不意をつかれた川口は、哲雄の拳をまともに受けてしまった。後ろによろめいて尻餅をついて、何が起こったのかわからないという顔をした。


 哲雄はもう一発殴ろうと拳を振り上げる。今度は怒りがついてきており、拳が力んだ。


「ふざけんな。哲雄」


 背後から山本の声。振り返ると、山本も拳を振り上げていた。水曜日に散々殴られたせいか、山本の拳の軌道がよく見えた。身を素早く屈めて、山本の拳を上手く避けた。空を切った山本の拳は、勢い余って、そのまま廊下の窓ガラスに突っ込んだ。花瓶よりさらに鈍い音を響かせて、窓ガラスが大きく割れた。ガラスの断面が山本の拳を鋭く切り裂いた。すぐに拳全体が血で染まり、ポタポタと血が滴り落ちた。


「ウワァァァァ」


 おそらく今まで経験したことのない出血量だったのだろう。山本は血まみれの手を顔の前に掲げて、どうすれば良いのかわからずに、ただうろたえた。


 哲雄は容赦なしに、山本の顔に狙いを定めて、渾身の右ストレートを振り抜いた。山本の顔は川口よりも重く固かった。一昨日のダメージが残っている上での更なるダメージが相当響いたのか、山本はうつぶせに倒れて、そのまま起き上がらなかった。


「鬱陶しいんだよ。お前」


 哲雄は吐き捨てるように呟いた。


 拳が痛い。その痛みで手首まで痺れている。


 顔をしかめ、下唇を強く噛み締めた。


 痛いだけじゃないか。こんなことしても、やっぱり、痛いだけじゃないか。痛い以外に、何もないじゃないか。


 朝の光を受けて柔らかに輝く花瓶の破片。


 哲雄はおもむろに手を伸ばし、その破片を右手で摘んだ。そして力一杯握り締めた。血がゆっくりと生命線を伝って、手首まで垂れてきた。手を広げると、ちょうど手の平の真ん中に破片が突き刺さっていた。


 下村、これでいいのか。


 哲雄は破片を見つめた。痛みが和らぎ、気分が急速に落ち着いてゆくのが、自分でも不思議だった。


 違うよな。真似だけじゃ、やっぱりダメだよな。


 ようやく我に返った川口が、うつぶせの山本に寄って、心配そうに声を掛けている。多くの生徒が集まってきて、ちょっとした騒ぎになっていたが、三人の中に入ろうとする者は誰もいない。


 静かだった。


 遠くで生活指導の教師の声がする。三人が起こした騒ぎについて、怒鳴り声で訊ねているが、哲雄に答える気はさらさらない。今回課せられるだろう反省文は原稿用紙何枚になるだろうか。万引きの反省文すらまだ書き終わっていないのに。


 とにかくあと数秒で、生活指導の教師はここに到着し、僕を取り押さえる。


 それまで、わずかな間だが、朝の一時を楽しむことにした。ふっ、と軽く息をついて、体の力を抜いた。


 下村には、謝らないといけないな。

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