4 婚約式
首席紋章官の館を訪れてからの1ヶ月。エマは毎日のように公爵家を訪れ、婚約式の準備を進めた。それは辛い日々だった。
公爵はエマに無関心。表面的には優しく接してくれるが、エマのことを何も知ろうとしないし、何も助けてくれなかった。
公爵夫人は、エマを田舎の娘とバカにし、大貴族の儀礼を知らないエマに嫌味ばかり言っていた。
ルドルフは、帝都の別荘に住む辺境伯令嬢のもとへ毎日のように通っていたが、辺境伯令嬢を伴って公爵の館に戻って来ることも多かった。
ある日、エマが公爵の館の廊下を歩いていると、向こうからルドルフと辺境伯令嬢が歩いてきた。
辺境伯令嬢は、エマより少し年上。派手なドレスに宝石をちりばめた装飾品で着飾っていた。
辺境伯令嬢がエマを一瞥すると、ルドルフに聞いた。
「あら、この人がルドルフ様の形だけの奥方になる人?」
ルドルフが頷くと、辺境伯令嬢がエマを横目で見ながらルドルフに言った。
「公爵家と辺境伯家の安寧のためとはいえ、こんな地味で田舎くさい人と結婚するなんて、ルドルフ様がかわいそう! 私がそんなルドルフ様を癒し、お支えしますわ」
「ははは、それではさっそく癒してもらおうかな?」
「もう、ルドルフ様ったら。さあ行きましょう」
辺境伯令嬢は、ちらりとエマの顔を見ると、ルドルフの手を引いて、ルドルフの寝室へと入って行った。
ルドルフは、辺境伯令嬢に飽き足らず、エマを寝室に連れ込み、エマの体を求めてくることもあった。エマは、婚約前だと言って、必死に拒み続け、その度にルドルフから暴言を吐かれた。
「田舎娘で権力も財力もないお前が、その体で俺を喜ばせる以外に何の役に立つというんだ?! まあいい、婚約式まであと少しだ」
ルドルフは、エマを睨み付けると、寝室に掲げられた帝国の地図に目を向けた。
「公爵家と辺境伯家が結びつけば、帝国最大の勢力となる……いずれ俺が一国の王になれば、辺境伯令嬢は我が王妃。お前はお払い箱だ。その後の男爵家への援助は、お前の俺に対する貢献次第。そのときのことを考えて、せいぜい俺に尽くすことだな」
エマの顔からは、日に日に笑顔が失われていった。心配する両親に、エマは「疲れが出てるだけ。大丈夫」と言い続けた。
そして、いよいよ婚約式当日となった。
† † †
婚約式は、帝都の大聖堂で執り行われた。辺境伯のほか、有力な大貴族が参列していた。エマの両親や弟は、席次だけは良い席をあてがわれたが、辺境伯の一家と比べて、ぞんざいな扱いを受けているように感じられた。
「本日の婚約が、両家の更なる繁栄に結びつくことを祈ります。どうか、我々両家を今後とも何卒よろしくお願いいたします」
公爵が参列者に挨拶した。公爵が「両家」と言ったとき、その顔は、エマたち男爵家ではなく、辺境伯家の方を向いていた。
正装のルドルフに促され、高価な純白の美しいドレスを身に纏ったエマは、無表情のまま、大司教のいる祭壇の前に進み出た。帝国では、聖職者の前で婚約者同士が神に婚約を誓い、男性が女性に婚約指輪を填めることになっていた。
「私は、この女性との婚約を神に誓います」
ルドルフが自信満々な顔で宣言した。普通は婚約者の相手の名、つまりエマの名を出すはずなのに、ルドルフはそうしなかった。
ルドルフが辺境伯令嬢の顔をチラリと見た。辺境伯令嬢が意味ありげに微笑んだ。
エマは、両親や弟の顔を見た。未だ実情を知らず、娘、そして姉が大貴族と婚約することへの期待の顔。この期待を裏切る訳にはいかない。
エマは、ルドルフの顔を見た。ルドルフは、中々口を開かないエマに苛立ちを隠さず、小さく舌打ちをした。
『幸せになれそうですか?』
『我が男爵家のため、がんばります!』
ふと、エマの心に、首席紋章官とのやりとりが思い起こされた。
……首席紋章官様。私、どこまで頑張れるでしょうか。
何故か、エマの心にアルベルトの笑顔が浮かんだ。私のことを好きだと言ってくれたアルベルト。大人になったら結婚しようと言ってくれたアルベルト。草花で作った指輪をくれたアルベルト。優しい、優しいアルベルト……
エマの頬を涙が伝った。ルドルフの顔を見つめ、しかし、心の中ではアルベルトの笑顔を思い浮かべる。
エマは、毅然とした声で言った。
「私は、あなたとの婚約を、神に誓います」
それを聞いたルドルフは、満足した様子で大司教から高価な婚約指輪を受け取った。そして、エマの左手を取り、薬指にその婚約指輪を填めようとした。婚約指輪に散りばめられた宝石が、冷たく光る。
そのとき、突然大聖堂の後方の扉が勢いよく開かれた。
「失礼。その婚約の儀に関し、少々お時間を頂きたい」
毅然とした意志を感じる声が大聖堂に響き渡った。
エマはその声に聞き覚えがあった。これは、首席紋章官の声……
開け放たれた大聖堂後方の扉の前には、帝国の紋章が刺繍された面布で顔を覆い隠した首席紋章官が立っていた。
首席紋章官は、皇帝直属の高級官吏のみが纏うことを許された緋色のマントを身に付け、片手に羊皮紙の巻物を手にしていた。後方には、近衛兵の小隊が控える。
婚約式の参列者の視線を一身に受けながら、首席紋章官は近衛兵を従えて大聖堂の祭壇へ歩みを進めた。