1 貴族の義務
「エマ、ごめん。君とは結婚できない……」
エマがアルベルトから婚約?を破棄されたのは、今から5年前。エマが13歳の時だった。
エマは、帝国東部に小さな領地を有する男爵の長女。アルベルトは、皇帝の側近である宮中伯の長男。エマより1歳年上だった。
アルベルトは、普段は帝都に住んでいたが、毎年夏の間、避暑のため帝国東部の別荘に滞在していた。その別荘が男爵家の館に近かったこともあり、エマとアルベルトは、幼い頃から、夏の間、毎日のように一緒に遊んでいた。
アルベルトは華奢で小柄。体が弱いようだったが、とても優しい性格の少年だった。帝都仕込みの洗練された服装に、儚げで輝くような笑顔……エマはアルベルトのことが大好きだった。
アルベルトも、エマに好意を持ってくれていたようだった。
エマが7歳の夏。秋が近づき、アルベルトが帝都へ帰る前の日の夕暮れ。別荘の庭園の片隅で、エマは、アルベルトから綺麗な草花で編んだ指輪を貰ったのだ。
花の指輪をエマの左手の薬指に填めながら、アルベルトが緊張した面持ちで言った。
「これあげる。エマ……僕は、君のことが好きだ! 大人になったら結婚しよう!」
「あ、ありがとう! アルベルト……」
エマは嬉しさのあまり泣いてしまった。アルベルトは心配そうな顔でエマに近づき、ハンカチでエマの涙を拭ってくれた。
エマもアルベルトも、お互いにいずれ結婚すると信じていた。毎年、夏に逢えるのを心待ちにしていた。2人ともまだ幼く、貴族社会における結婚とは何かが分かっていなかった。
† † †
エマが13歳になった年の夏。エマが別荘を訪ねたところ、アルベルトから結婚は出来ないことを告げられたのだった。
「僕には許嫁がいるらしい。まだ会ったこともないんだけど。この一年、お父様にエマと結婚したいって何度もお願いしたんだけど、ダメだった。すでに決まった相手と結婚することが、僕の貴族としての義務らしい……ごめん、エマ」
アルベルトが悲しそうな顔でうつむいた。声変わりが始まったばかりの掠れたその声は、悔しさと悲しさに震えていた。
「……気にしないで、アルベルト。私はアルベルトから好きって言って貰えただけで十分!」
エマは笑顔で言った。本当は泣きたかったが、アルベルトをこれ以上悲しませたくないという気持ちが勝った。
エマは、涙を必死に堪えながら、アルベルトの手を取り、アルベルトの体調に気をつけながら、小さい頃のように別荘の庭園を駆け回った。2人で日が暮れるまで思いっきり遊んだ。
翌年の夏、アルベルトは別荘に来なかった。許嫁のいる別の避暑地へ行くことになったということだった。その翌年も同じだった。
そして、エマがアルベルトと最後に会ってから5年の月日が流れた。
18歳となったエマは、今でもアルベルトのことを想い続けていたが、エマにも「貴族の義務」を果たすときがやってきた。
その夏、エマは、親の意向に従い、帝国でも数少ない大貴族、公爵の嫡男と婚約することになったのだった。
† † †
「やっぱり公爵家ってスゴイのね……」
「エマ、そんなにキョロキョロしない!」
帝都にある公爵家の館の豪華な応接室。ドレス姿で椅子に座ったエマが、高級そうな調度品を見回していると、エマの母から窘められた。
「ほら、公爵閣下がいらっしゃったわよ」
エマの母が椅子から立ち上がった。エマの父とエマも慌てて立ち上がる。
応接室の重厚な扉が開き、公爵夫妻とその長男が入ってきた。
「お待たせしました。今日も暑いですな。どうぞお掛けください」
でっぷり太った公爵が汗をハンカチで拭きながらエマたちに声を掛けた。一同は席に着いた。
やたら厚化粧の公爵夫人が、扇で顔をあおぎながら笑顔で言った。
「気候だけは良い東部地方の皆様には、この暑さが堪えるのではないですか?」
「確かに暑いですが、公爵家の皆様にお会い出来るのであれば、これくらいどうってことありません」
エマの父が卑屈な笑顔で答えた。公爵夫人が扇で口元を隠しながら笑った。
「ほほほ、まあ確かに。男爵家の皆様にとっては、今回の婚約話、またとない機会ですものね」
公爵夫人が再び笑った。エマの父が笑顔で何度も頭を下げる。その様子を見ながら、エマは内心ため息をついた。
エマの男爵家は、田舎である帝国東部でも特に弱小の貴族だ。男爵領はエマの弟が継ぐ予定だが、その経営基盤は貧弱。今後のことを考えると、援助者が必要だった。
そこで、エマの両親が、男爵領を援助してくれそうなエマの嫁ぎ先を探し回っていたところ、ようやくこの公爵家との婚約話にまで漕ぎ着けたのだった。
エマとしては、領地のための政略結婚は貴族の義務であり仕方ないし、立場上、男爵家が下手に出ざるを得ないことも分かっていたが、婚約者となる公爵家の嫡男、ルドルフを一瞥して、内心改めてため息をついた。
ルドルフはエマより5歳年上。長身でガッシリとした体つき。あらゆる存在を見下しているかのような自信満々な表情。
エマは、ルドルフと会うのは今日が初めてだったが、どうもその表情が好きになれなかった。アルベルトも大貴族の子息だったが、こんな表情は決してしなかった。もっと優しい、相手を慈しむような表情だった。
「具体的な婚約式の日取りなどはこれから我々で話すとして……ルドルフ、エマさんと散歩でもしてきてはどうかな?」
公爵がハンカチで汗を拭きながらルドルフに声を掛けた。
ルドルフが公爵夫妻とエマの両親に会釈すると立ち上がった。無言のまま応接室のドアへと向かう。
エマも慌てて立ち上がり、ルドルフの後を追った。