43.狂気
一応、気を付けては見たんですけど……
よくなったのかは自分じゃわかんないです(^_^;)
彼は、走っていた。
鬱蒼と茂る密林を。
密林には独自の生態系が確立していて、見たことの無いような生き物……いや、怪物と呼ぶに相応しいそれらが幾度となく彼を襲った。
しかし、彼はそれを悦んで迎え撃った。
武器は無く、その凡そ鍛練をしたこともない貧相な手で、脚で。
瞳には悲願の色を宿し、理解できない状況に困惑しながらも、薄い唇は感じるまま……愉悦を楽しむように歪んでいて……。
こうなった原因はわからないが、それでも混濁する思考の中、泳ぐでもなく溺れるように……彼は、記憶を辿っていった。
彼は元々、世間の歯車と呼ばれるような、社会人のマニュアルそのもののような男だった。そもそも、こうなる前の日まで彼は入社2ヶ月の会社に勤務していた。
原因がわからないのも当然、いつもと同じように家に帰り、何度と繰り返した手順を終え眠りについたはずだ……。
翌日に迫ったプレゼンに備え、用意した言葉を頭で復唱し……目が覚めると、都会育ちの彼には到底縁のない密林にいた。
「……これは一体、どういう事なんでしょう? 僕には……身に覚えがない……ですが」
その声はとても不安げだった……。
しかしそれは当然だ。
見知らぬ森に、突然放り出されれば。
だが、感じる愉悦を抑えきれないのか、彼は笑う。
「いやぁ……この世界は実にいいですねぇ! 此処には僕を叱る忌々しく鬱陶しい上司も、いつまでも纏わりつく不自由な規則もない! くく……遂に、自由の身になったんだ…………フフフ、ハハハハハハ……!」
彼がこんな世界に来た理由はわからない。
だが、己を縛る数々の柵から解き放たれた彼は狂気に冒された。
そんな彼の前に、一人の少年がいた。
こちらに気付いていないことを理解した彼に、少年は獲物としか映らなかった。
理性が暴走し、歯止めが利かなくなった彼は、本能のままに行動を開始した。
……その瞳に狂気を宿して。
――とある宿、その一室――。
帰って早々、時間を騙していた事でみんなから責められた。
一応、成功したと告げると一様にホッとしたようで、それを見た俺自身もホッとした。
加えて翌日、サンテから目的地と説明を受けた俺達は、屋敷から約100キロは離れた地に三時間掛けて馬車で向かう事になった。
「……そういえば、この世界で乗り物って言うと馬車ぐらいしかないのか?」
この世界に来た当時からあった、乗り物もそうだが……やはり、俺がいた世界より発展していないんだろうか、という疑問。
何気なく口にするとなんだか怪訝そうな顔をされた。
「……あんたがどんな世界に居たのか知らないけど、馬車があるってだけでも凄い事よ?」
俺の質問にリリィが答えた。
「そ、そうなのか? そう言われれば確かに道路って見ないな……」
「どうろ……? なによ、それ。って、そういえばあたし、あんたの世界についてなにも聞いたことないけど、此処に来る前はどんな所に居たの?」
リリィのこの言葉に興味をそそられたのか、レノアや藍華も話に加わった。
「それは私も興味がある。極、稀にお前のように飛ばされてくる奴はいるが、どんな世界かは聞いた事もない」
「わたしも聞きたい……。あなたがどんな世界に住んでいたか、とても知りたいわ」
身を乗り出して聞かれても、俺は他人に聞かせてやるような事はなく……。
「どんな……か。別に、普通だよ。学校に行って、帰りに友達とゲーセン寄ったり……変わったことはあんまりないかな。思い出はあるけど、語る事じゃない」
「げー……せん? それって、どんな所?」
「そのままの意味、ゲームをする所」
「げー、む?」
「はは、それもないのか、仕方ないな……じゃあまず、何から話すかな……」
驚いた事に、電気は通っているのにテレビもゲームもないようで、みんなは俺の話になにも知らない無垢な子供の用に聴き入った。
元いた世界の話をするのは、反応が新鮮で面白かった。
しかし、楽しい時間ほど終わるのが早いのは確かで、俺達の乗る馬車はあっという間に指示された密林に入った。
「この森は色んな生き物が居るんだな……驚いた。ライオンまでいるのか」
どうやら、人の手が加わっていない所は極端に生物が多様で、生き残るための知恵からか、見る物全てが異様な姿をしていた。
「……もうすぐ指定された場所に着くわ。今の内に簡単な説明をしておくわね」
俺が見たこともない物に一々驚いている間に、藍華が今回の任務について説明を始めた。
「今回ここに来た目的は、突然発生した殺人とこの森に息づく動物達への異常とも言える殺戮を行っている犯人、その捕縛、無理なら殺害も許可されている……という指令で……危険な仕事ですが、これから仲間になるはずの人が五人も行方不明、これを見過ごす訳にはいかないので、それなりに戦闘がこなせる私たちに白羽の矢が立った……という訳よ」
「えらく慣れた口調だけど……経験があるのか?」
「あ……過去に、一度だけ……」
説明を終えた藍華に俺が無遠慮に聞くと、少しだけ辛そうな顔をした。
だからそれ以上聞くこともせず、道中は特になにもおこらないまま目的地に着いた。
「ここか……」
そこにはテントのような物が三つあり、調査を行っていた偵察員が待機していた。
テントの隣に馬車を停め、まずは調査員に話を聞いてみる事にした。
「失礼する。派遣されて来た者だが……ここの部隊長は誰だ? 手短に済ませたいんだ。早速、話を伺おう」
あまり猶予のない事態の為、早速テントに入り、こんな状況に慣れてない俺に代わって、レノアが説明を求めた。
「私がここの責任者です。状況の説明をお求めでしたらすぐに……」
「あぁ、始めてくれ」
「……事態は良くないです。被害は何人とお聞きですか?」
言葉通り状況は悪いようで、部隊長の表情は冴えない。
「確か、五人だった筈だ」
「それから更に……二人が行方不明になりました……ここに来た時点で10人いた仲間も、私を含め残り3人に……正直、どうしたらいいか私には……」
珍しく、二十歳程の女性の部隊長はどんどん顔色を悪くしていく。
事態は最悪だった……。
仲間を失ったこんな状況でも冷静とは言えないが、泣かずに耐えているこの女性はやはり気丈なのだろう。
「……大丈夫。私達でなんとかしましょう」
「……はい。お願いします……」
女性の部隊長は、最後には声が震えていて今にも泣き出しそうだった。
ここにいる全員が事の当事者を赦すつもりはない。
俺は密かに決意を固めた……。
「それで……どの辺りに潜伏しているか見当は?」
「わかりません……濃い密林の中では視界も悪くて……」
「はぁ……仕方ない。念のため、リリィと藍華嬢にはここに残ってもらい、私と悠で捜そう」
「わかった。なにかあったら派手に火の手を上げてくれ、それならわかるだろうし」
「うん。わかった……悠くんも気を付けてね?」
「……あぁ」
お互いに、なにかあれば合図をすると約束して捜索を始めた……。
捜索を開始して二時間は経っただろう、しかし成果は無く、辺りを徘徊する猛獣から身を隠しながらの作業が続く。
「誰もいないな……」
「あぁ、だが油断はするな……まだ若い調査員に容赦しないような奴だ。手段は選ばないだろう」
「……そんな危険な仕事に、なんで俺達が選ばれたんだろうな?」
「お前は謙遜しているがな……お前を含め、私達4人程戦える人間はなかなかいないぞ?」
「うーん……そう言われても自信はないんだけどな……」
「……ん? 待て、あれは……?」
その時、突然レノアが話を遮った。
「……おい。あれって、リリィ達がいる方だろ……っ!」
レノアが見ている方を注視すると、森の一角から高濃度の煙が上がっている。
もう答えは出ていた。
約束通り、藍華が合図を出した事は間違いないだろう。
「あぁ! ……間違いない。急ぐぞ!」
……だが、間違いであって欲しかった。
それが甘い考えであったとしても……。