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すべてがうまくいったら



 ***



「お待ちくださいませですの。ムギ様ぁ、にに様ぁ」


 通りを、ワトゥマが駆けてくる。

 マムートが少しだけ高度を下げると、ワトゥマは屋根伝いに駆け上がって、兄の背に飛び移った。


 ムギたちは、落ち着ける場所を求め、王都の喧騒から遠ざかる。

 やがて、王都から少し離れた平野に、森が見えてきた。ムギが指差すと、マムートはゆっくり降下して、森のそばに降り立った。

 木々のざわめきが耳に優しく、心地よい。森の息吹に、柔らかく抱きしめられるようだ。

 ムギは深く息を吸い、木々のざわめきに溶けるような穏やかな声音で、二頭に語りかけた。


「お散歩しよう。マメタ、わたあめちゃん。しばらく、できなくなるから」


 その声に、兄妹の足がぴたりと止まる。

 静かな声に、ムギの決意を感じ取った。


「ムギ……どうしても、なのか?」


 マムートが問う。

 ムギは、うん、と小さく頷いた。


「明日じゃだめですの?」

「うん……。今が、一番いい時だと思うから」


 森の中をひたすら奥へ、奥へと歩いた。

 しばらく行くと、大きな切り株が、でんと構えている場所に出た。いかにも腰掛けてくださいと言うかのように鎮座しているので、ムギはそこに腰を下ろし、妖犬たちを手招いた。

 静かに息を吐き、前に話した通り――とムギは口を開く。


「これからのために……ふたりとの契約を、一旦解消させてね」


 すべてがうまくいったら……とムギに聞かされた話を、マムートもワトゥマも受け入れたつもりだった。それでも、いざその瞬間を前に、どうしたって寂しさが募る。

 いつも元気いっぱいなワトゥマの尻尾も、今だけはしゅんとしおれて丸まっていた。

 そんなワトゥマを優しく撫で、ムギは穏やかに語りかける。


「……わたあめちゃん。いつもたくさんの元気をくれて、ありがとう。わたしのために、知らないところで、たくさん走り回ってくれてたんだよね? 本当にありがとう。甘えん坊だけど、ちょっぴりお姉さんなわたあめちゃんが、大好きだよ」


 ムギはそっと手を伸ばし、契約を結んだときと同じように、ワトゥマの額に丁寧にハートマークを描いた。それから、そっと唇を寄せる。

 柔らかな風がワトゥマを撫で、見えない枷がほどける音を静かにさらっていった。


「ひっく、えぐっ……ムギ様ぁっ。ワトゥマは、たとえどんなに離れても、ずっとずっと、ムギ様を想っておりますの……!」

「うん、わたしもだよ」


 ふわふわで、もこもこな体をぎゅっと抱きしめた後、ムギはマムートに向き直った。

 マムートは、拗ねた子供のように、ふいっと顔を背ける。


「マメタ。顔を見せて」


 頑として聞いてくれない。それでムギは、マムートを抱き寄せて、耳元で囁いた。


「マメタ、聞いて。マメタがいたから、わたしはここまで歩いてこられたの。あなたに出会えて、本当によかった。いつも守ってくれて、ありがとう」

「……なに言ってんだ。いつだって、肝心な時に守れてないだろ。今だって……!」


 マムートは悔しそうに、牙を剥く。


「お前に、こんな決断をさせる前に、もっとできることがあったはずだ」

「違うよ、マメタ。わたしが、自分のためにこうしたいんだよ」


 ムギは少しだけ困ったように笑い、まっすぐにマムートを見つめた。


「わたしはこの世界が好きで、これからもずっと、みんなと歩いて行きたいから」

「だったら、やっぱりこのままでいいだろ」

「だめだよ。わたしはもう、この世界では麦穂の乙女になってしまったから――。ただのムギとして、もう一度この世界を歩き直すために……。今は少しだけ、さようならが必要なんだよ」


 額にそっと手を伸ばすと、マムートは激しく拒むように身を震わせた。同時に、姿がふわりと霞み、獣人の姿へと変わる。彼はそのまま、ムギを強く抱きしめた。

 印をなぞって額に口づければ契約を解消できるのに、これではワトゥマと同じようにできず、ムギは困ってしまう。


「あ、あの……マメタ。いくら儀式とは言え、これだとちょっと抵抗が……。いつもの姿に戻ってほしいかな……」

「嫌だ! こうやってないと、目を離した隙に勝手にいなくなりそうだ……。最後までこうしてるからな!」

「ワトゥマもっ、ワトゥマもぎゅってするですの! 離しませんの!」

「ふたりとも……」


 ずっとそばで触れてきた愛しい温もりに包まれて、ムギは胸が苦しくなった。

 このまま、こうしていられたら――と決意が鈍る。


 その時、三人だけの静かな空間に、落ち葉を踏み締める音が、割って入った。

 はっとして、ムギは音のしたほうに顔を向ける。森に射し込む夕陽が、木陰から出てきた男の髪を、黄金色に染め上げた。


「まったく、君は酷いな。俺には待てと言っておきながら、別の男と抱擁とは。随分、見せつけてくれるじゃないか」

「ガイアスさん……」


 森の上空に、大鷲の影が舞う。彼をここまで連れてきたのは、あの翼を駆るのに長けた誰かに違いない。


「見ていたぞ。君がひたむきに戦う姿も、素晴らしい演説も」

「ありがとうございます……」

「見事だったよ――まるで、別人のようにな。あれは、死期を覚った獣の顔だ」


 獲物を捕らえて逃がさない、狩人の目がムギを射抜く。


「……ずるいですよ。わたしの考えていることなんて、お見通しって顔して……。そうやって、わたしの口から言わせようとしてる」

「君もなかなか、俺という人間をわかっているじゃないか」

「本当に、ずるい……」


 言葉と裏腹に、二人は顔を見合わせて吹き出した。

 肩から力が抜けるとともに、ムギの決意は確かなものとなった。

 胸にしまった想いに触れるように、懐にそっと手をやる。大切な手帳と筆入れを取り出し、ガイアスへ差し出した。


「もう、君には必要ないのか」


 ガイアスの問いに、ムギは強く首を振る。

 目を逸らさず、だが、まっすぐ手を伸ばした。


「次に会うときは……自分の手でヒポグリフを仕留められるまでになって、今度はわたしから贈り物をさせてください。それまで、預かっていてくれますか?」


 言葉の代わりに、ガイアスは手帳ごと、両手でムギの手を包み込んだ。


 マムートとワトゥマに抱きしめられ、ガイアスには手を取られ……。これまでにないほど、照れくさくて、心は温かい――。

 幸せで満たされていくのを感じながら、ムギは穏やかに微笑む。


「じゃあ、マメタ……そろそろ」


 指先を滑らせ、マムートの額に最後の口づけを落とした。

 そして、天を振り仰ぐ。目尻からは、真珠のように煌めく涙が一粒こぼれ落ちた。


「女神様――! もう充分です、一思いに……お願いします!」


 祈るように叫ぶ声が、空に消えるとともに、ムギの体を光がふわりと包んだ。

 光の中に溶けるように、ムギの体は透き通っていく。

 マムートは抱きしめる腕に力を込めた。だが、もうほとんど手応えがない。


 森に射す夕陽が、光を金色に染めて、一際まぶしく輝かせる。

 あまりの眩しさに目をくらませた三人が、次に目を開いた時、ムギの姿はどこにもなかった。


 遠く、王都の方角で神殿の鐘の音が響く。

 別れを惜しむ傍らで、始まりを告げるような、清らかな音色が、いつまでも木霊していた。









最終話 ハローグッバイ 終

長めのエピローグを加えて

完結となります

今しばらくお付き合いよろしくお願いいたします

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