ムギの知らない物語
宿の裏手に案内されたムギは、それまで当たり前だった日常との違いを実感することとなった。
蛇口をひねったら十分な水量で湯が出る生活は、ここにはない。
大きい宿なら浴場が併設されているものだが、こういった小さな施設では、沸かされた湯を桶一杯いくらで購入して使うのが、ムギの描いた〈エンシェンティア流〉だ。
部屋に十分な広さがあれば個人で盥を借りるのだが、この宿ではそれが難しいため、裏庭に湯を使うための場所が用意されていた。
板を張り合わせた目隠しの奥に、すのこが敷かれており、その上に盥が置かれている。
そばにある井戸から水を汲んで使えるようで、どうやらつるべに魔法がかかっているらしい。マムートが引っ張り上げた桶から、湯気が立っている。
「とりあえず五杯用意した。足りなくなったら、また汲むから声をかけてくれ。じゃあ俺はこっち側で見張っている」
「ありがとう」
脱いだ服と貴重品を預けて、ムギは初めての異世界入浴に挑戦した。
ひとまず掛け湯をしてから、拭き布を使って体の汚れを落とす。
石鹸の類は見当たらず、勝手もわからないので、頭はしぼった布で頭皮と髪を拭くに留めた。
それらを終えるとムギは、桶二杯分の湯を盥に張った。その中に座り込んで、腿から下を湯に浸らせる。
「湯加減はどうだ? 湯は足りているか?」
「は、はいっ、大丈夫っ……!」
できれば腰まで浸かりたいところではあったが、それを望んでいいものか分からず、とりあえず肯定してしまうのがムギである。
すくった湯が立てる潤んだ音が、沈黙をやけに誇張する。そわそわと落ち着かなくて、ムギは板壁の向こうに寄る返を求めた。
「あ、あの……マムートくん。少し、お話してもいい……ですか?」
相手が犬だからか、はたまた我が子かもしれないからか、ムギはいつもよりも少し積極的だ。
「次の客を待たせない程度ならいいぞ。どうした?」
「ありがとう。えっと……あの、さっきは驚かせてごめんなさい。わたしはムギといいます」
外の国の出身で、魔法の勉強ばかりしてきたからノルファリアの情勢に疎いのだという旨を強調して伝えた。
「部屋にあった新訳正史を読んで、わたしの知っているノルファリアの歴史とはずいぶん違うんだなって驚いたの」
「ああ、あれか。そうだな、最初は俺たちも信じられなかったよ。でも都で話題の聖女様が言うんじゃ、信じるしかないだろ」
「せ、聖女?」
そのような存在をムギは知らない。少なくともムギのエンシェンティアには存在しなかった単語だ。
「一昨年の秋、王都の周辺で酷い水害があったんだ。主要な街道が寸断されて、孤立状態になる街や村が多かった」
「そんな大変なことが……」
ムギは知らない話に耳を傾けながら、湯から上がった。残った桶の湯で盥をすすぎ、最後にもう一度掛け湯をして目隠しの向こうに声をかける。するとマムートが、体を拭くために清潔な布を差し出してくれた。
「備蓄をやられて食糧難になった民を、聖女リリベル様が奇跡の力で救った……っていうのは有名な話だが、それも知らないか」
「う、うん……」
「そのあと、彼女の持ち物からマリエル様の手記が見つかって、正史は改められたんだ」
いったい何者だというのか。気になって仕方ないが、ムギは努めて平静を装った。
「そうだったんだね……。じゃあいま、ノルファリアの人間と獣人さんの関係って……」
「まあ……良くはないな。都市部では獣人差別が深刻だって聞いたぞ。王家は積極的に獣人の保護を進めているようだが、自主的にロアールへ脱出している者も多いみたいだ」
「それじゃあ、まるで昔に戻ったみたいじゃない……」
ムギは思った以上に、事態が深刻であることを知り、湯上がりに浴びる風が異常に冷たく感じた。
(もし、わたしが現状から物語を紡ぐなら……)
ロアール側はノルファリアに対し、獣人蔑視の妄言を流布したとして、マリエルの手記を破棄するよう求めるだろう。
だが観光客のあの様子からするに、ノルファリアが『新訳正史』を信じる道を歩んでいるのは明らかだ。
(そうなると……一度は蜜月だった両国の関係は、また最悪の形で緊張状態に戻って、下手をすれば戦になりかねないんじゃないかな。わたしなら……書かない。止められるように、登場人物を動かして和平の道を切り拓いてもらうはず……わたしなら――)
だがここには、ムギの知らない聖女がいて歴史が大きく書き換えられている。ムギの望むように、世界が歩んでいくかもわからないのだ。
不安で身を震わせると、板壁から黒い鼻先がちらりと顔を出した。
「悪いが、そろそろ次を案内したい。いいか?」
「あっ、うん。ごめんね、長々と……」
「いい。早く服を着たほうがいいぞ。人間は毛皮がないからな、冷えやすいんだろう?」
器用にマズルを使って、マムートは湯上がりのムギに脱いだ服を差し出した。着替えなども調達しなければと思いながら、ムギはそれを受け取り身につける。
「あっ!」
柴犬の鼻先で渡されるものを、何気なく受け取っていたムギだが、下穿きまで差し出された時は、思わず声を上擦らせた。
「まっ、まめっ……マムートくん! ここまでのサービスはしなくてもいいと思うよ!」
続いて出てきたコルセットも、奪うように貰い受ける。
「女性には寧ろ、しないほうがいいかな!?」
「そういうものか。わかった、次は気をつける。教えてくれて、ありがとな」
(ううう……恥ずかしい……!)
犬と言えど、良すぎる声も手伝って、ムギにはマムートがほぼ人並みの存在に感じられた。
のぼせたわけでもないのに、顔に火がついたように熱い。
その瞬間――不意にムギの耳の奥で、あの当たり鐘の音が響いた。
眠っていた幸運体質「乙女の恥じらい」が解放された瞬間だった。
その力は……乙女が思わず「きゃっ」と赤面してしまうような恥ずかしい状況に陥ると、ムギの運気が高まり、近い未来に幸運が舞い込む――というものだ。
今はまだ、夕食に添えられた目玉焼きの黄身が双子……程度の幸運だ。
ムギがその恩恵を感じられるようになるのは、まだまだ先のことである。