精霊の声
咥えたロリポップをゆらゆらさせて、蘭子は指先でキーボードを叩いた。
『突然のメッセージ失礼します。連載中の作品、とても楽しく拝読しています』
感情と裏腹な文面に、悪態をつきたくなる。誤魔化すように、舌でロリポップを転がした。
『読みながら、もしかしてと思ったのですが……以前Oatmealという名前で、ENaにいらっしゃいませんでしたか? 人違いでしたらすみません! でも、もしOatmealさんご本人でしたら、また続き(?)が読めて嬉しいと思いまして――』
送信して一時間もしないうちに、ネオンノベルズにおける蘭子のアカウントに通知が入った。相手からの返信があったことを知らせるものだ。
ユーザー名はデフォルトのNo nameのままだが、アイコンには、こぼれる稲穂の手描きイラスト。それに加えて、「オートミール」と読み間違えそうに、小さく添えられた「オールミート」の文字。
こめっこからの返事が届いていた。
『はじめまして。メッセージありがとうございます。はい、以前はそちらで活動していました。もしかしたら、はじめましてではないのかもしれませんね。よりブラッシュアップした物語をお届けするために、心機一転、今はこちらで頑張っています。これからも、応援のほど、どうぞよろしくお願いいたします』
カマをかけた蘭子に対して、こめっこからの返信は、ずる賢く逃げ道を残したものだった。
〈そちら〉で活動とは、Oatmealを指してのことか、ENaを指してのことか――どちらにも受け取れる。
ガリッと、音を立ててロリポップが砕けた。
イスカに連れられ、ムギは何処かへと向かっていた。〈聴き手〉の頭領との面会場所は告げられていない。ひとつだけ厳しく注意されたことといえば――。
「方陣から、決して身を乗り出さないでください。特にその白い妖犬は危なさそうなので、しっかり押さえてもらえますか」
イスカは、マムートとワトゥマを従者として同行することを認めてくれた。
移動には長距離をわずかな時間で行き来できる、〈聴き手〉の秘法が用いられ、特別な方陣によって水面を滑るように地脈の中を運ばれている。
彼らが〈ファリスの来た道〉と呼んで尊ぶ、エンシェンティアの命の源だ。
道は、土中を這う木の根のように、枝分かれして入り組んでいる。明滅する光の粒が周囲を流れる様は、ムギがこの世界にやってきた時に見た光景にどこか似ていた。
ワトゥマは興味津々に、辺りをきょろきょろと眺め、今にも方陣から飛び出してしまいそうだ。
髪の毛一本でも方陣からはみ出したら、たちまち地脈に魂ごと融けて、世界の一部になってしまうという。イスカですら、フードをしっかり被っているくらいだ。ムギはワトゥマをしっかり抱き寄せた。
息を潜めて、流れに身を任せていると、辺りに小さな声が満ちているのに気付いた。小さな声は方陣に縋るように集まり、はっきりとその存在を主張してくる。だが、なんと言っているのかまでは、ムギにはわからなかった。
ただイスカだけが固く拳を握って、唇を噛み締めていた。
◇ ◇ ◇
方陣が敷かれた足元が、ふいにふわりと浮き上がる感覚があった。ムギの体感では、エレベーターが浮上した瞬間の感じに似ている。
光が、いっそうまばゆさを増し、ムギはぎゅっと目を瞑った。次に目を開いた時、足元に方陣はなく、見覚えのある床の上に立っていた。
白と緑のダイヤ模様の石床に、真一文字に敷かれた青い絨毯。忘れようとも忘れられない――謁見の間だ。
顔を上げれば玉座があって、座しているのは当然、ノルファリア国王である。
不用意に視線がぶつかってしまい、ムギは慌てて跪いた。
「かしこまらずともよい。今日のわたしは、立会人である。そなたを呼び立てたのは、精霊たちゆえな」
王の瞳は、威厳に満ちていながらも、どこか柔らかな色を宿していた。――また会えて嬉しいぞ、とでも語りかけてくるような眼差しだ。
胸の奥をじんと熱くさせながら、ムギは深くこうべを垂れた。
周囲には初めて謁見した日と同じように、官僚たちが整然と並び、近衛兵たちも無言で控えている。
加えて今日は、〈聴き手〉が一塊となって参列していた。性別も年齢も様々だが、みな揃いのローブを身につけている。イスカも身につけている、幾何学模様の刺繍が入った、パキッとした白色が輝くローブだ。
彼らの視線は、〈麦穂の乙女〉に注がれている。当然ながら、前回よりもひりひりとした緊張感が、謁見の間には満ちていた。
役者が揃ったのを確かめて、王は精霊の暴走を悼む言葉と、対処にあたる者たちへ労いの言葉をかける。そして、あとを〈聴き手〉に引き継いだ。
王の信任を受け、〈聴き手〉の列からひとりの若者が進み出た。翡翠色の髪を尼削ぎのように切り揃え、中性的な顔立ちをしている。彼はムギのそばまで来て、静かに一礼した。
「本日、長の口に代わりますは、わたくし――テオと申します」
静かで澄んだ声が、謁見の間に柔らかく響いた。まだ年若いながらも、品格を感じさせる佇まいだ。気付いてみると、ローブの刺繍や装飾が他の者より重厚である。
それでムギは、その声とローブに見覚えがあるのを思い出した。セヴナール捕縛の際に居合わせ、精霊を証人として連れていった〈聴き手〉が、彼だったのだ。
彼が右手を掲げると、イスカを含めた〈聴き手〉たちが皆、それに倣った。
静寂が極まったところで、テオは再び口を開く。
『よく来てくれた、麦穂の乙女よ』
それは〈ファリスの来た道〉を介して届けられる、千の〈聴き手〉を束ねる長の言葉であった。
『呼び立てておきながら姿も現さず、すまないね。わたしはいつ〈道〉に還るかもわからぬ年寄りで、近頃は起き上がるのもままならなくてね。寝所から出られないんだ。無作法を許しておくれ』
老獪な喋り方だが、声はテオのものだ。口ぶりからは、老爺か老婆かも判断がつかない。
姿を現さず、自らの膝下まではムギを招こうとしないその姿勢は、単に体調を憚るだけでなく、どこか〈聴き手〉の警戒心が現れているようでもあった。
ムギは、そこに頭領がいるつもりで粛々とお辞儀を返した。
『まこと、麦穂よな』
たっぷりと深い息を吐き、紡がれた声音は穏やかだ。テオの顔には、その声音と調和の取れた笑みが浮かぶ。
まるで、対面して話しているかのような、自然な素振りだ。テオが頭領の言葉を伝えているのか、頭領がテオの身体を借りているのか――その境界は定かではない。
『そなたが〈道〉に入った瞬間、精霊たちが歓びの声を上げた。そなたを歓迎し、舞うものが多かったが――なかには、助けを求めて縋り付くものもおった。そうであろう?』
テオの視線が、イスカへ向けられた。イスカは右手を掲げたまま、静かに頷く。
方陣の周りを行き交っていた小さな声が、精霊のものであったことを教えられ、ムギは大いに驚かされた。神秘の存在を間近にした実感が、やっと伴ってきて、背筋にはぞくりとした緊張感が走った。
『わたしがそなたを呼んだのは、精霊がそなたを求めたからなのだよ』
「畏れながら、わたしはただの小娘です……。それなのに、なぜ精霊さんが?」
くすりと笑うような、咳き込むような声が、テオの口から漏れた。
『――エンシェンティアに愛されし者よ。オ・ト・ミ・ルとは何か、そなたならわかるかね?』
初めて聞く言葉だと、一度は首を傾げたムギだが……。
舌のうえで音を転がすうちに、まさかと息を呑んだ。
オートミールではないのか――。
ムギはそうとは口にせず、次の言葉を待った。
答えを急かそうとしない、ゆったりとした息遣いで、テオの唇が動く。
『荒ぶる精霊を、そなたも目にしたね? あれを我らは禍魂と呼ぶ。禍魂へと移ろうものたちが、瀬戸際に口を揃えて叫ぶのだ』
「……何と?」
『オ・ト・ミ・ルがいい。オ・ル・ミ・トは怖い。元に戻して、オ・ト・ミ・ル――と』
それは、エンシェンティアそのものが上げる悲鳴のようだった。ムギの胸に、ぎゅっと締め付けられるような痛みが走る。
『オ・ト・ミ・ルとは何かと問えば、この世界を支える太い幹で、今はオ・ル・ミ・トに蝕まれ、折れかけているという』
Oatmealがエンシェンティアの根幹だと、精霊たちが認めてくれている。その事実は驚きとともに、涙が込み上げそうなほどの温かさを、ムギに与えた。
精霊は、こうも告げたという。
『オ・ト・ミ・ルは細く根を伸ばし、今は麦穂となって揺れている――。麦穂とは、そなたではないのかね?』
謁見の間に集まったすべての目が、ムギへ注がれる。まるで舞台の中央に、一人で立たされたかのようだ。
縮こまりそうになるのをこらえるので、ムギは精一杯だ。何も答えらずにいると、テオの銀灰色の目が細められた。
『麦穂の乙女よ。禍魂となった精霊の行く末は、憐れなものだ。我らの耳に届き、手を差し伸べられるものならいい。だが、それが叶わなかった時、禍魂はいずれ妖魔へと身を堕とす。そうなれば二度と、〈道〉に還ることは叶わない』
ムギの知らない設定だ。だとしたら、ファムプールの妖魔も、もとは同じ、エンシェンティアに息づいた精霊だったのだろうか……。
瞳を伏せて考えるも、オートミールにはオールミートの心はわからない。
『若き麦穂よ。そなたに我らの知らぬ知恵があるのなら、どうか授けておくれ。世界を救うためなどと気負うことはない。憐れな精霊を増やしたくはないだけなのだ』
静かな声だった。声なき声を聴く者ゆえの、切なる願いが込められた言葉だ。〈聴き手〉たちが、揃って跪く。
どこか遠くで、泣き声のような風の音がした。精霊の声は聴き取れないが、ムギはそっと耳を澄ませた。




