未曾有の危機
翌朝になっても、ムギの決意が揺らぐことはなく、リリベルは少し残念そうだった。朝ごはんの支度が終わったら……とか、床磨きが終わったら……などと、何かと理由をつけて蘭子への連絡をしぶる。
ムギは、心配してくれる気持ちだけをありがたく受け止め、くれぐれも蘭子によろしくとリリベルを残して表へ出た。
雨粒をたくさん抱えていそうな雲が、頭上に垂れこめている。こんな空の下を歩くには、雨露草の葉を傘がわりに持っていくのが無難だ。
雨露草の株が群れる水路のほうへ、ムギが顔を向けると、そこには兵士たちの後ろ姿があった。
いつもなら、ムギが庭に出るのと同時に、きびきびと敬礼を送ってくるものだが。今朝の彼らは座り込んで、水路を覗き込んでいる。
「おはようございます。どうかしたんですか?」
兵たちは、ムギが声をかけて初めて気が付いたようで、はっと振り返った。慌てて敬礼を返してくれるが、数人はすぐに水路へと視線を戻した。
フレンダが進み出る。
「おはようございます、ムギ様。失礼をして申し訳ございません。水路に水が流れてこないもので、原因を探っているのです」
「水が?」
いつもなら滔々と流れる水音が響き、手桶を浸せるほどの水量を保っている水路だ。それが今は、ちょろちょろと、カップからこぼした程度の水しか流れていない。
「落ち葉が詰まっているのではないかと、数名が上流を確かめに行っています。そろそろ、戻ってくるのではないかと思うのですが……」
すると、鋼を打ち鳴らすように甲冑を揺らして、兵の一人が森の奥から駆け戻ってきた。彼はひどく青い顔をして、喘ぐように叫んだ。
「水源に……っ、妖魔らしき生物を発見! ともに向かった二名が交戦中です! 至急っ……増援を――!」
庭先の気配が、一瞬で凍りついた。
水路を囲んでいた兵たちはすぐさま剣を抜き、駆け出していく。一方でフレンダは、ムギの前に立ちはだかった。
「ムギ様は、わたくしとともにこちらにいましょうね! 万が一に備え、いつでも山を下りられる心積りでいてください」
「は、はい……!」
そうは言っても心配で、二人してその場から動けずにいた。
祈るように森の奥を見守っていると、突如として、木々を薙ぎ倒すような轟音が上流のほうで響き渡った。
マムートとワトゥマが、毛を逆立たせて唸り始める。彼らが睨み据える先から、何かが近づいてくる気配があった。
轟音は、山の奥からだんだんとムギの隠れ家へ下ってきている。
辺りの空気が、さあっと冷たくなった、次の瞬間――。轟々と音を立て、凄まじい水の奔流が押し寄せた。
唸りを上げる水は、扉を突き破る勢いで隠れ家に激突した。明日には収穫できそうだった青菜の畑も、畝ごと洗い流される。
渦巻く水に足を絡め取られ、転んでしまったムギの袖にワトゥマが喰らいついた。
「あ、ありがとうっ……」
フレンダが幹に縄を引っ掛けて、マムートに咥えさせる。マムートは奔流を掻き分けて、縄の端をムギまで届けた。縄を手繰り寄せながら木のそばまで逃れると、ムギは幹に抱きつくようにしがみついた。妖犬たちも変化して、重なるようにしてムギを守る。
「お庭が……泉みたいになってしまいましたの……」
水遊びが好きなワトゥマだが、ちっとも嬉しそうではない。
禍々しく渦巻く泉の中からは、兵士たちが一人、また一人と吐き出された。皆、上流へ向かっていた者たちだ。ぐったりとして動く様子がなく、うねりの中を揺蕩っている。
フレンダは、仲間のもとへ飛び出したいのを懸命にこらえながら、水の正体を見極めようとしていた。
普通の水ではない。何か意志を持った気配に、ムギも警戒を強めていた時だ。隠れ家の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
窓を突き破った水でずぶ濡れたリリベルが、よたよたと躍り出る。彼女は、外の様子に仰天しながらも、スマートフォンを片手に苦々しく舌打ちした。
「ムギさん、これがオールミートの選んだハッピーエンドだそうです。最悪ですよ。こいつの正体は……」
泉はリリベルの言葉を遮るように、水を高く噴き上げさせた。渦巻く奔流が、龍のように身をくねらせる。そのまま、リリベルを飲み込まんと、がぱっと口を広げて頭上から襲いかかった。
『汝、流転の時を拒み、蒼き理の鎖に身を委ねしものなり。凍てつき、止まれ!』
清水のごとく流れるムギの詠唱とともに、水の龍が凍りついた。その姿はまるで、水晶でできた像のようだ。
「マメタ!」
「任せろ!」
水面を揺らし、マムートがリリベルを助けに向かう。すると再び水が噴き上がり、別の龍が首をもたげた。間髪入れずに、ムギが同じ氷結呪文で動きを止める。
「わたあめちゃん、フレンダさん! 長引けば水温が下がって、兵の皆さんが危険です! 今のうちに、水の外へ連れ出してください!」
フレンダが、意表をつかれて息を呑んだ。
〈麦穂の乙女〉は守るべき存在だと思い込んでいた彼女にとって、戦うムギの姿は大いに驚かされるものだったのだ。
フレンダの見開かれた目の奥に、驚愕と羨望を混ぜた光が宿る。その輝きを覗き見たムギは、ぐっと唇を噛み締めた。
(ごめんなさい、フレンダさん。そんな目で見ないで。これはチートというもので、厳しい訓練を経て兵になったあなたのほうが、わたしには立派に見えますよ!)
だから人前で力を使いたくなかった。だが使わなければ、誰かが傷つく。どちらか選べと自問するより早く、ムギの体は動いてしまっていた。
後で面倒にならなければいい。そう願いながら、間断なく水の動きを止めてかかった。
しかし、水は涸れることなくこんこんと湧き続けた。体ごと持っていかれそうな強いうねりが、ムギたちを襲う。
(どうしたら、この水を止められるだろう!?)
凍らせるだけでは駄目だ。何か手はないか、ムギは幹にしがみつく手に、ぎゅっと力を込めた。
その時、ふと――杖を家の中に置き忘れてきたことに気が付いた。なにもこんなに大変な時に思い出すことでもない。そう呆れながらも、はっとした。
(そうだ! 結界で閉じ込めてみたら……!)
思いつくより早く、ムギの結界が水を囲い込んだ。見る間に、大きな水の塊ができあがる。
強固な結界を破ることがかなわず、苛立ったように水の球は暴れ出す。ぼよんぼよんと跳ねる様は、まるでスライムのようだ。
「どうやって倒したらいいんだろう……」
「水の妖魔なら、お鍋で茹でるか落雷で一発ですの! でも、ムギ様。この子は妖魔と違うように感じますの」
「ああ。良くない匂いはするが、妖魔の異質なものとは違う。こいつからは……精霊の匂いがする――?」
妖犬たちの言葉に、水の塊が猛り狂って暴れ出した。頑丈な結界はもはや、水に鎧を纏わせたも同然。その巨体で、ムギたちを押し潰そうと、追いかけ回してくる。
「精霊って……どういうこと!?」
逃げ惑い、舌を噛みそうになりながらムギが問う。するとリリベルが、早口に答えた。
「オールミートは物語のラスボスに、この世界を支える精霊たちを選びました。各地で精霊が暴走し、これからエンシェンティアを未曾有の大災害が襲います」
「それのどこがハッピーエンドなんですか……!」
「異種族間の争いを止めるために、共通の敵を用意して……努力、友情、勝利のハッピーエンドへ向かっているんだそうですよ」
鼻で笑うリリベルを、怒る気にもなれない。ムギも同じ気持ちだ。
そんな展開を、エンシェンティアに持ち込ませるわけにいかない。だが――。
「もう……こうして、起きてしまっているんですね」
「はい、残念ながらそうらしいです」
退治すれば、その地の精霊が消えるのと同義だという。そうなれば水は涸れてしまうのだ。
「じゃあ、どうすれば……」
逃げるうちに、その場しのぎでムギは結界を重ねて掛けた。木と木の間を伝う、蜘蛛の巣のように展開させて、水の球と距離を取った。
包囲を無理やり突破しようとする水を、ムギは魔力を込めて押さえ込む。しかし、それも長くは持ちそうになかった。
まるで増援を呼ぶかのように、頭上からはしとしとと雨が落ち始めた。雨粒のひとつひとつが、結界にぶつかるたびに、銃声のような激しい音を立てる。
少しずつ……だが着実に、雨はムギの結界に綻びを作っていった。




