胸を張って、貴方へ――。
呼吸を落ち着けるために大きく息を吸うと、髪に挿した花が香る。背中を押されるように、ムギは口を開いた。
「わたし……、グランツェル公爵様はリュシアナ様のお父様だと、勝手に思い込んでいたんです。だから……ガイアスさんが公爵様で、猫さんだなんて――ちっとも思っていませんでした。本当に驚いたんですからね」
緊張気味のムギの横顔が、むくれているように見えたルーファスは、ばつの悪い顔で笑みを返す。
「騙していたようで、悪かったな」
「いえ……お立場を思えば仕方なかったんだと、わかっています。だけど、今なら訊いてもいいですか? どうしてガイアスさんになったのか……」
「そうだな。どこから話そうか」
「どこからでも、聞かせてほしいです」
ムギの真っ直ぐな眼差しに、ルーファスの口許がほころぶ。肩の力を抜くように息をつくと、彼はひとつひとつ語り始めた。
「俺は――、妹のリュシアナが王太子妃になった時、彼女の騎士として一緒に王宮に入ったんだ。名を奪われ、アリーシャと呼ばれるのを甘んじて受け入れようとも、グランツェル家は牙を失っていないと知らしめるためにな」
しかしそれからほどなくして、ガレリウスの外交使節団随行が強引に進められ、リュシアナは無理に引き離された。当時、公爵位にあった兄妹の父は、度重なる心労から床に伏せ、同時期にルーファスが家督を継ぐこととなったのだった。
「獣人であることが、これほど窮屈だと感じたことはなかったよ。そう仕向けたのは誰だ? その思惑は何だ? 俺たちは、得体の知れない聖女リリベルを元凶と思って疑わなかった」
そんな折り――、セヴナールが接触してきたという。
『僭越ながら、少しだけ、気がかりなことを申し上げてもよろしいでしょうか』
おずおずと、必要以上にへりくだり、辺りを憚るように彼は言ったそうだ。
『グランツェル公爵ともあろうお方が、妹君様の警護にかかずらっていては、かえって王宮の足並みも乱れましょう』
『聖女様が、城にお住まいを移されてからはますます、空気もよろしくありません。アリーシャ殿下をお連れになり、しばしごゆるりとなされてはいかがでしょう? ご実家にて静養なされば、姫君のお気持ちも、いくぶん和らぐのではと……』
『余計な口を、まことに……申し訳ございません』
セヴナールの小心者を装った仕草が、目に浮かぶようだ。ムギの肌が粟立つ。
「俺も初めは騙された。年長者の言として、あの人の言葉はもっともらしかったからな。だが、三大公爵家の中ですら、リュシアナがアリーシャと呼ばれる現状に、俺の中で何かが弾けたんだよ」
そしてルーファスは王城から退いた。
市井に紛れ、ガレリウスの帰国を助ける道を切り開くのが一番の目的だったが、それと並行して行っていたことがある。国内外に散り散りになったノルファリアの獣人たちを、グランツェル家の名のもとに召集できる体制の構築だ。
いざとなれば、蜂起も視野に入れてはいたという。ひとつボタンを掛け違えていたら、こめっこの物語と同じようになっていたのだ。
「城を出て間もなく……リッシェル公が俺を探していると、リュシアナから報せを受けてな」
ルーファスは懐から、少ししおれた紫色の花を取り出した。ほのかに香るのはラベンダーの芳香だ。
リュシアナとは、花弁に心の声を乗せて飛ばすことで、連絡を取り合っていたという。
「ほとぼりが冷めるまで、狩りでもしながら山にこもっていよう……。そんな時だ。君と出会ったのは」
ヴァルド家が有する山深い森で、二頭の妖犬を連れて暮らす頼りなげな少女――。
そのちぐはぐとした印象が、ルーファスの興味を引いた。
「ローディス坊ちゃんも、とうとう人間らしくなったのかと思ったよ。ちょっと冷やかしてやるつもりだったんだ」
ムギの「もふもふチャーム」を目の当たりにするまでは――。
「その力が、獣人にまで及んだとしたら……? そう真っ先に考えた。君は、本当に危うい存在だった」
「だから、ガイアスさんは……わたしのそばにいることにした。そうですね?」
「……ああ、そうだ。手元に置いて、君がノルファリアに何をもたらすのか、見極める必要があった」
ムギは、小さく息を吐く。
「わたしが住処を失いそうになった時、親切すぎるくらいに骨を折ってくれたのも、偽装結婚の持ちかけも……。わたしを見張りやすいように……ですね?」
「主な理由を問われたら、そうだ」
「そうですよね……いえ、いいんです、別に。高貴な身分の方にとっては、ご結婚に利害や思惑が絡むのはつきものでしょうからね。リリベル様にご婚約を申し出たのも、きっとそういうことですもんね」
ルーファスは意外そうな――、しかし少し嬉しそうな様子で目をみはった。
「珍しいな。妬いてくれるのか」
「や、妬いてなんかいませんっ」
今度こそ、ムギの頬がぷくりとふくれる。
ルーファスは少し困ったように眉を下げると、むくれた頬にそっと触れた。そっぽ向かせないようにムギの視線を奪って、真っ直ぐな瞳と声音で言い聞かせる。
「言っておくが、小鹿さん。リリベルとの件に、俺は一切関わっていないからな? 家宰らが先走った結果だ。やれやれ……、仕事が早すぎる家臣というのも考えものだな」
「リリベル様は、満更でもなさそうでしたけど……」
心底げんなりとして、ルーファスはため息をつく。
「君に妬いてもらえるのは嬉しいが、笑えないからやめてくれ」
「だ、だから妬いてなんかいませんってば……」
「俺が自分の意志で求婚しようと思えたのは、君だけだ」
ムギを見つめるルーファスの瞳が、爆ぜる炎で煌めく。鮮やかで力強い色なのに、これまでになく穏やかだ。
愛しさに焦がれるように、優しい笑みを傾けて、ルーファスはムギの真っ赤な頬からそっと手を離した。
「初めこそ、ノルファリアのためには君を手中に入れて、管理しなければならないと思っていた。だが気付いた時には、ただ俺自身が、君と過ごす時間に喜びを感じるようになっていたんだ」
一際大きな花が空に咲く。
「君が愛しい、離れ難いと感じる――」
「この想いは、どこから来る? 答えを、探していた」
「君の力が、獣人にまで及ばなければいい。そう願っていたよ」
しおれたリュシアナからの「便り」を手に、ルーファスは柔らかく笑んだ。微かな寂しさを宿した瞳から、ムギも目を逸らさない。小さく、だが確かな決意とともに頷き返す。
セヴナールのもとで邂逅した時から、互いにこうなる覚悟はできていた。次に言葉を交わす時が、ファムプールで過ごした夜の続きになると――。
答えを出す時が来たのだ。
人々のざわめきの中で、二人の息遣いは静かだ。それでも互いの声は、沁みるように響き合う。
「だが、俺もそこまで愚かじゃない。自分の気持ちがまやかしか、そうでないかの区別くらい、ついているつもりだ」
「はい。ちゃんと……感じています」
「だが――、それをどう証明できる?」
ムギは微笑みながらも、そっと首を振った。ルーファスも、穏やかな笑みは絶やさない。
「今日、君が陛下に返した言葉。あれがすべてだ。そうだろう?」
「――はい」
グランツェル家は、麦穂の乙女の力に屈した。
麦穂の乙女は、ノルファリアを陰で牛耳るつもりだ。
これから先、少なからず、そう疑う者が出てくる。たとえ二人がどんなに深く互いを想っていようとも、絆は目には見えないのだ。
互いのために、一緒にはいられない――。それが、今の二人に選べる答えだった。
もうすぐ、最後の花が咲く。そんな予感に、民衆がそわそわと空を見上げる。
だが二人だけは、互いの姿を心に焼き付けるように、見つめ合ったままだ。
「……ガイアスさん。わたしも、あなたにずっと黙っていたことがあります」
今日伝えなければ、一生後悔する。ムギは目一杯の勇気を振り絞って、口を開いた。
「ノルファリアに来る前、わたしは二十五年を、エンシェンティアとは別の世界で生きてきました」
怪訝な顔をするルーファスに微笑んで、ムギは続ける。
「だから、わたし……こう見えて、結構お姉さんなんです」
突拍子のないことを言っているのに、その口ぶりがムギらしく感じて、ルーファスは小さく吹き出した。
受け入れるように頷いて、ムギの言葉を促す。
「何をしても、しなくても……。後悔ばかりの人生でした」
「だけど、この力を授かったことも、あなたを好きになったことも――何ひとつ後悔はありません」
「今のわたしでは、あなたの隣には立てないから……。いつの日か力を持たない、ただのムギになれたなら……会いに行ってもいいですか。その時はあなたを、本当のお名前で呼んでみたいんです」
「……今度は、俺が君を待つ番だな」
ルーファスはムギの手に、そっと何かを握らせた。それはセヴナールが捕縛された日、一緒に押収されていた手帳と筆入れだった。
ムギはもたれるようにルーファスに寄り添い、その背にそっと手を回した。ルーファスもまた、壊れものに触れるようにそっと腕を回し、ムギを優しく抱き寄せる。
穏やかなひとときだった。
やがて、空に咲いた火花は散り、終わりを告げる鐘が鳴り響く。言葉はいらなかった。どちらからともなく身を離すと、互いに微笑みをかわした。
「――刻限だな」
ルーファスが見遣る人混みの中から、マムートとワトゥマがやって来るのを確認できる。別方向からは、グランツェル公爵家の使いと思しき一団も姿を現した。
ムギをマムートたちに預け、王城の方向へと去るルーファスが、最後に小さく呟く。
「真っ直ぐに想いを告げられるマムートが、俺は本当に羨ましかったよ」
あとは任せた、と言うように後ろ手に手を振って、彼は去っていった。
温もりが消えてしまわないように、ムギは手帳を胸に強く抱く。頬に伝う涙は温かく、心地よかった。
第三章 創造主と聖女 終
最終章 モブになれなかった創造主
第十話 最凶の敵 に続く
お読みくださり、ありがとうございます
ガイアス(ルーファス)とムギの恋に、一旦の休止符を。終止符ではありません。
すべてがハッピーエンドへの布石として、二人が再び手を取る日を信じて、お待ちください。
あと数話で完結いたします。




