妖犬マムート
角の取れた三角耳、黒目がちだがどこか精悍な横顔、背中に乗せるようにくるんと巻いたふさふさの尻尾――。
ムギの足元で、カウンターに手――前脚をかけて店主を見上げているのは、黒い柴犬だった。
「ああ、妖犬の子か」
「悪いな、これでも成犬なんだ。足の速さと腕っぷしには自信がある。荷運びでも番犬でも、なんでもこなすから一晩だけ夜露をしのがせてくれ」
「いやぁ助かるよ、猫の手も借りたかったんだ」
「見ての通り……猫ではないんだが、いいか?」
店主は機嫌良く笑って、さっそく黒い柴犬にやってほしい仕事を言いつけている。ムギはそれを、驚きと緊張感を持って見つめた。
妖犬という種族を創ったのはムギ自身だ。だから、犬が人気声優さながらの良い声で喋っていようが、西洋風の異世界とテイストが異なった見た目をしていようが、そこは想定内だった。
ムギが驚いたのには、別に理由があった。
「ま……まめ、た……?」
震える心臓を押さえつけ、声を絞り出す。
すると、黒い耳がぴくりと揺れて、柴犬はムギを振り仰いだ。
「俺はマムートだが……なにか用か?」
切れ上がった目尻の、凛々しい瞳をぱちくりさせて、柴犬は首を傾げた。
「いっ、いえっ……すみませんっ。し、知り合いに似ていたものでっ……」
ムギはそう答えて素知らぬふりを演じながらも、柴犬が気になって仕方ない。
獣人と違い、姿は犬そのものだが人の言葉を話し、精霊術を扱うこともできる妖犬という存在。そのなかの黒い柴犬……「マメタ」のエピソードが物語の中に存在していたからだ。
ムギは、自分で生んだ登場人物に出会った場合のことを考えていなかったため、妙に緊張して動悸を覚えた。
(でも……この子はマムートと名乗ったじゃない。それに、エンシェンティアなのかも不確定だし……)
他人の空似だろうとムギは自分を納得させた。今はそれよりも、支払いという問題が解決していない。
(どうしよう。わたしも彼のように、お仕事をしたいって言えばいいかな……でもぉ……)
転生したからといって、内気な性格までは変われない。煌びやかな宮廷衣装を纏ったからといって、一朝一夕で踊れるようにはなれないのと一緒だ。
麦は結局、一番安価と鑑定された銀の粒で換金してもらった。
それにしたって朝昼晩の食事付きで、入浴用の湯や水をたっぷり貰い受けて、三日は宿泊できる価値があった。
落ちこぼれの弟子に、師からの手切金としては相応といったところか。店主は訝しむことなく、ムギに鍵を手渡した。
「部屋は階段を上がって左手の奥です。夫婦二人で切り盛りしているものですから、案内まで手が回ってなくて。すみません」
「いえ、お、お構いなく」
二人でと言ったわりに、ムギが宿を訪れてから、夫人の姿が一度も見えない。そんなムギの視線を感じ取った宿の主人は、はにかむ様子で頬をかいた。
「ひと月前に子供が産まれたばかりでして……妻には子守りを任せっきりなんです」
「それは……えっと、あの、おめでとうございます」
「ははは、ありがとうございます。どうぞ、ごゆっくり。お湯の用意ができたら、お声がけしますね」
こういう時にも、気の利いたことひとつ言えない。ムギはそれを、とても不甲斐なく思うのだった。
***
客室の扉には、部屋番号ではなくリンドウの花が描かれていた。鍵にも同じリンドウの透かし彫りがされている。
ムギはそこまでの設定を作っていなかったので、洒落た鍵に素直に心惹かれた。
扉を開くと、窓から射し込む西日に微睡む、暖かな部屋が待っていた。
寝台の頭に小さな書棚があって、その他には書き物机とも荷物置きとも取れる小さな台があるだけの、小ぢんまりとした客室だ。
清掃は行き届いているようで、ひなたの香りのするシーツにもシミひとつない。ムギはひとまず息をついて、寝台に倒れ込んだ。
(仕事が終わって、帰宅して……本当だったら今頃、こうして寝転んでENaを見ていたはず)
向こうの世界は、どうなっているだろうか――。
帰ることのできない故郷を思うと、マリエルではないが、母の焼いたパンが無性に恋しくなった。ムギは気を紛らせるため、頭の書棚に手を伸ばした。
なにか情報を得られそうな、『新訳ノルファリア正史』という題名の本が目につき、手に取った。
歴史書らしい小難しい言い回しではあるが、そこに記された出来事の数々は、ムギにとってプロットを振り返るような懐かしさがあった。
ノルファリア独立までのエンシェンティアの歴史に、ムギの理解との齟齬はない。しかし読み進めるうちに、ムギは驚愕の事実を知ることとなった。
「な、なにこれ……」
そこには、長らく信じられてきたマリエルと獣人王の友愛の絆はかりそめであった、と記されていた。
近年発見されたマリエルの手記を読み解いたところ、彼女は獣人王レックスに拐かされ、敵国の王宮にて辱められていた――というのだ。
その時のマリエルの年齢がちょうど今のムギと同じ頃で、満足な食事も与えられぬまま恥辱の日々に堪えるマリエルは、故郷の味を思いながらノルファリアに帰れる日を信じ続けたという。
聖地巡礼中の観光客らが、幸せそうに蒸しパンを頬張るムギを見て涙していたのは、この正史のマリエルを重ねていたからというわけだ。
二人の石像が撤去されたのは、こういった事情からと推測できたが、ムギは納得できない。
「いや……いや、いや、いや……そんな話、知らないし書いてないよ!?」
ムギはたまらず声を上げた。
「マリエルとレックスは男女の仲にならないから、尊いの! そこは越えちゃいけない線だった、そこだけはぁぁあ……!」
このエンシェンティアを創ったのは誰か――土を耕したのが大津麦で、種を蒔いたのがあの女神だとするなら……。
「解釈違いが甚だしいよぉ……!」
ムギは悔しさのあまり、寝台で狂ったようにジタバタした。
すると――。
「どうした。なにか困りごとでもあったか?」
不器用なノックとともに、あの妖犬の若者が話しかけてきた。
「す、すみません! 何でもありませんっ」
「それならいいんだが……。なぁ、ちょっと中に入れてくれないか?」
「えっ!? はっ、はい、えっと……ええ」
返事に戸惑って曖昧に相槌を打っているうちに、肯定になってしまうことがムギにはままある。
マムートは扉を開けようとしているが、そこはやはり犬――。丸いドアノブを上手に回せず、扉はガタガタと鳴るばかりだ。
見かねたムギがドアを開けて迎え入れると、マムートはちょこんとお座りして見上げてきた。
「えっと……まめ……マムートくん、だったよね。な、なにか……?」
「宿のものから頼まれて来た」
ムギは一瞬で青ざめた。
「そんなっ! 下に響くほどうるさくしちゃってましたか!? すみません、すみません! ごめんなさい、すぐ出ていきますから宿代はそのままお納めください!」
ムギは得意の被害妄想で、宿から追い出されるものだと思った。
「落ち着いてくれ、そうじゃない。俺は耳がいいから、聞こえただけだ」
「じゃあ、なんで……」
「湯の準備ができたから、順番に声をかけているんだ。このまま案内できるが、もっと後がよければ隣に声をかける」
「いっ、行きます。えっと……」
自分で作った設定だが、入浴にはなにが必要だったか――所在なげにムギは辺りを窺った。
「拭き布は用意がある。部屋に鍵はかかるが、貴重品は持ち歩いたほうがいいと思うぞ。湯を使っている間は、俺が番をするから任せてくれ」
「あり、がとう……。よろしくお願いします」
ムギはぺこりと頭を下げて、くるりと巻いた尻尾のあとを追った。