ノルファリアがノルファリアであるために。
どこか遠くで梟が鳴いている――ムギがそう思ったのは、吹き込む風が鉄格子の奥にかすかな音を連れてきたからだった。
背中には苔むした石壁、足元には湿気てカビ臭い地面……。鬱蒼とした森の中に聳える塔の地下牢に入れられて、どれほど時が経っただろうか。
ムギの体感では、もう何時間も経過しているような気がしていた。
ここへ連れてこられるまで、目立った抵抗はしなかった。希望はマムートの背に預けた。それならば、セヴナールの目的を白日のもとに晒すのが、ムギに唯一できることだと腹を決めたのだ。
「あなたの力は、どのようにして手に入れたのですか?」
鉄格子を背に、椅子に腰掛けたセヴナールが問いかける。問いながら、視線はムギにくれようともしない。レティキュールの中身をねちっこく検める仕草は、紳士の振る舞いと程遠かった。
「あなたのご家族も、同様の力があるのでしょうか?」
答えずにいると、控えていた軽装の兵が近づいてきたので、ムギはぐっと歯を食いしばった。
乾いた音が弾け、石壁に繋がれた鎖がじゃらりと鳴った。ムギの頬に強かな痛みが走る。小さな体が風に吹かれるように揺れるも、ムギは足を踏ん張って堪えた。
彼の本心を耳にするまで、膝を折らないと決めた。手枷に繋がれているのが、寧ろありがたいくらいだ。
しかし、このまま痛ぶられるだけでは埒が明かない。今度はムギから一石を投じる。
「公爵閣下は……獣人さんが嫌いなんですか」
勝手に口を聞いたので、また平手を喰らわされた。
「人間と獣人の未来を、どうお考えですか?」
また、一発くる――覚悟して、ムギはぎゅっと目を瞑る。だが、衝撃はいつまで待ってもやってこない。
恐る恐る目を開くと、セヴナールは笑っていた。
ムギの手帳を検めながら、さも可笑しな喜劇を読んでいるかのようにくつくつと声を漏らす。
「獣人が嫌いなのではありません」
牢に入ってから初めて、セヴナールの視線がムギを捉えた。年相応に柔和な目元をしているが、痛ましい少女の姿を見ても、瞳には一分の揺らぎもない。
「獣人のいるノルファリアに、未来を望みようがないのです」
少しも温かみのない声で、セヴナールは語った。
「お嬢さんはイル・ルファンのご出身ですか。あの謎多き地の空気を吸って育ったのであれば、他国の事情になど、関心はお持ちでないかと思っておりましたが……」
ムギの身分証を、裏も表も穴が開くように見つめながら、セヴナールは言葉を続けた。
「ノルファリアの成り立ちは、ご存知ですかな?」
ムギは一度だけ深く息を吸ってから、まっすぐにセヴナールを見て答える。
「ノルファリアは……獣人の支配下にあったエンシェンティアで初めて、人間による統治が敷かれて独立した王国です。マリエルと、隣国ロアールの王レックスの友情に支えられ、人間と獣人は長い年月をかけて――良好な関係を築いてきたはずです。リリベル様のご趣味を悪用したりしなければ、今だって……」
セヴナールはふっと鼻で笑った。だがその目は、笑っていない。
「獣人との関係が密になった果てにある未来を、想像したことはありませんか?」
低く、ゆっくりとした問いだ。どこか誘導するような響きがあった。
「単純に考えてみるのです。なぜ、長い歴史の中で、人間は獣人に支配され続けてきたのでしょうか?」
ムギが答えるより早く、先回りするように彼は渇いた笑い声をこぼす。
「……獣人は人間より、能力的に優れている部分が多いからです。身体能力も、感覚も、魔力も。それに加え、彼らのほうが繁殖力も高い。数が増えれば、やがて民意を取り込む。血が交わり、混ざり、気づけば獣人は再び我々の上に立つことでしょう。同じ世界に生きながら、種に優劣をつけた神に、一言申し上げたいものですね。――不公平ではありませんか?」
語り口は穏やかだ。だが、静けさの中に氷のような冷徹さが潜んでいる。
設定の穴を突かれたようで、ムギには返す言葉がない。
「ノルファリアをノルファリアたらしめるために。人間が主導権を握っておく必要があるのです。ノルファリアの象徴である王家に、獣人の血は不要――」
セヴナールは初めて、苦い顔を笑みの中に滲ませた。
「よりにもよって王太子が、グランツェル家から妃を迎えるなど……もっての外。わたしは、ノルファリア王家の血統を守るためなら、神にも背き、信仰心も捨てましょう」
ひやりと冷たい風が、セヴナールのほうから流れ込んできた。
そこまで冷えるわけでもないのに、足元から寒気が這い上がってくる。
無理に体の強張りを解こうとすると、かえって手のひらにじわりと汗が滲む。細く、長い息を吐いて、ムギはゆっくりと言葉を紡いだ。
「最初に世界を創った創造主は……、とても出来が悪かったので、人間の存在意義まで考えていなかったんですよ……」
こめっこ、あるいは他の読者の指摘から、セヴナールの思想に行き着いたのだとしたら、その穴を埋める答えをムギは持ち合わせていない。
「だけど、マリエルとレックスの友情が礎にある限り、人間と獣人が共存するノルファリアらしさは守られるものだと信じていました。あなたは、それを土台から壊してしまった……。混乱はノルファリアに留まりません。これからエンシェンティアはまた、獣人と人間がいがみ合う時代へ逆戻りするでしょう……」
「それを修復していくのは、あなたなんですよ」
にこやかに微笑みかけられ、ムギは怪訝な顔を隠せない。
「わたしとて、なにも獣人に滅んでほしいと言っているのではありません。人間に仇なし、脅威となりうる獣人を、あなたの力で宥め、懐柔するのです」
「何を……仰っているんですか?」
「人間に敵意を抱かぬよう。友好的であるように。あなたが彼らを洗脳すれば、それでほら――元通りではありませんか」
「洗脳だなんて……わたしは……」
「あなたが次世代のマリエルとなるのですよ」
その一言は、ムギから恐怖を取り払い、怒りを沸き立たせるには十分すぎた。
マリエルの真の友情を穢され、あまつさえムギに偽りの友好関係を築かせようとするなど、侮辱もいいところだ。
「わたしの力は、あなたには貸せません。貸したくありません」
「あなたの意志は、どうでもいい。貸していただけないなら、貸したくなるまで、わたしも手段を選びませんよ」
セヴナールはムギの荷物を検める手を止め、ズボンのポケットから白い塊を取り出した。ふわふわとした、何かの生き物の被毛だ。
暗がりに見る分には、犬の耳の形に見えなくもない。ムギは一瞬、どきっとした。
「魔封じを熱心に学んでいる、可愛らしい妖犬……あれの主人は本当はあなたでしょう?」
「……違います」
「本日はヴァルド家のご子息が付き添っておられたそうですが……。はて、無事に帰り着かれましたかな」
「は、はったりの脅しで思い通りにしようだなんて、わたしを甘く見ないでください。神殿長と繋がりのあるあなたなら、あの子の毛を集めることだって難しくはなかったはずです」
セヴナールが少し驚いた顔で嘆息する。
「これはこれは。見かけによらず、豪胆なお嬢さんだ」
「……厳しく育ててくれた師と、仲間に恵まれておりますので」
きっと今に、マムートが救援隊を引き連れてやってくる。手の内を明かした黒幕が倒されるのは、ENaのセオリーなのだ。ムギはそう信じて、気丈に笑みを返した。
ムギの不器用な挑発にも動じる様子はなく、セヴナールはやれやれと肩をすくめて見せる。
「どうにか、あなたの心を動かせるものは、ないでしょうか」
再びレティキュールの口を広げ、手巾や薄汚れたボールを嫌そうな顔で摘み上げる。彼がどうでもいいと仕分けたものは、無造作に放り投げられた。
次いで取り出したのは、上等な革の手帳と筆入れだ。大切な品に触れられた途端、ムギの心がざらつき、手首を戒める鎖がじゃらりと鳴った。
音にムギの動揺を嗅ぎつけたセヴナールは、手帳と筆入れの中身を、しつこく調べた。筆入れに至っては、袋を裏返してまで検める念の入れようだ。
すると、不意に彼の眉間に皺が寄り、これまでになく取り乱し始めた。
「お嬢さん、あなたはこれをどちらで手に入れたのですか」
ムギが答えずにいると、セヴナールは席を立ち、筆入れの裏地を突きつけた。壁際では暗くてよく見えない。だがセヴナールは何かを確信して、ムギを責め立てた。
「どうりで王太子妃が聖女を見逃したわけだ。あなたは初めからグランツェル家と手を結び、聖女をも取り込んで、我々の計画を破綻させようとしていたのですね?」
「な、何を仰っているのか、わかりません。どうして、グランツェル公爵家のお名前が出てくるんですか」
「この期に及んで、まだしらを切るつもりですか。ここに、公爵家の紋章が刻印されているのに!」
目を凝らすと、確かに何かの印影のようなものは見えたが、それがどこの家紋かまでは判然としない。またはったりだろうか――だとしたら、迂闊なことは言えない。ムギは頑として、誰から贈られたものか口にしないと決めた。
「わ、わたしは何も知りません!」
「嘘をおっしゃい!」
セヴナールの怒号が響く。彼は、脇に控えていた兵の腰に手を伸ばした。
主の剣幕に気圧され、兵はたじろぐ。その刹那、セヴナールは兵の腰から剣を引き抜き、慣れぬ重さによろけながら、大きく振り上げた。
「脅しではありませんよ!」
重力のままに振り下ろされ、切先に裂かれた空気が揺れるのを、ムギは肌に感じた。
命までくれてやるつもりはなく、密かに防御魔法を展開し始めた、そのとき――。
「そこまでだ!」
地下牢に、怒声と荒々しい足音が響き渡った。鉄格子が激しい音とともに開かれ、数名の影が飛び込んでくる。
ノルファリアの騎士の姿をした彼らは、あっという間に牢内にいた兵とセヴナールを縛り上げた。
程なく、「制圧完了」の号令が叫ばれた。




