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心を結び、希望を繋ぐ。


 ムギの意識が暗転していたのは、ごくわずかな時間だった。

 しかしそのわずかな間にも、馬車の車輪は回り続け、思いがけぬ方向へとムギを運び続ける。

 頭をもたせた窓の外に、王都の城郭が流れ行く。セリフィオラを出た馬車は、街道を東へ向かって駆けた。

 治療院をとっくに通り過ぎたことは、マムートにもわかった。低い唸り声が、ムギの足元からあがる。


 だんだんと状況が掴めてきたムギは、視線を窓のほうから向かいに腰を下ろした紳士へと移した。

 紳士もまた、ムギが意識を取り戻したのに気づいて、身を乗り出す。気遣わしげと言うよりも、おどおどとしたと言うのが適切な顔で、わずかに安堵の息をついた。


「まことに申し訳ございません。火急の用に馬を急がせたあまり、ヴァルド家の皆様にとんでもないことを……」


 天を仰ぎ、紳士は神に許しを乞うた。信心深さが窺える。それでだんだんと、ムギは彼が誰か思い出してきた。

 言葉こそ交わしていないが、一度だけ目にしたことがある。ヴァルド家の侍従見習いの振りをして、初めて神殿を訪れた時だ。彼はそこに――神殿長アミゼルドの隣に立っていた。

 セヴナール・リッシェル――三大公爵家リッシェル家の当主だ。


「痛むところはございませんか?」

「……セリフィオラが、どんどん離れていきます。どちらへ向かっているんですか……。ジェゾさんは、馭者の方は、馬は……? みんな、無事なんですか」

「皆様、後続で参ります。ご安心ください……と言うのもおかしな話ですが……」


 セヴナールは、こめかみを伝う冷や汗を手巾で押さえ、深く頭を下げる。


「我が領地には、王都以上に優れた腕の医者がおります。どうか、しばしご辛抱ください」


 そのまま、なかなか顔を上げなかった。公爵ともあろう人物が、軽率に平民の娘にとれる態度ではない。

 温厚で気弱な人柄――そう受け止めるには、ムギは臆病だったし、なにより間が悪かった。


 ムギのもふもふチャームが、獣人と神殿関係者双方に露見したのは、つい先程のことだ。

 マリエルの手記の捏造に関わったとされる神殿長アミゼルドと、セヴナールが従兄弟である事実が、ムギの不安を駆り立てる。

 事故は偶然――果たしてそう言えるのか。ムギの胸に、静かな疑念が芽吹いた。


「顔色が優れないようですが、わたしでお力になれることはございますか?」

「少し……気分が優れないので、窓を開けられたらいいんですが……」

「少々お待ちくださいね」


 セヴナールは不慣れな手つきで、窓の留め金を外し、窓枠に手をかけた。少々もたついたが、カタンと音を立て、窓硝子は窓台の内側へ落とし込まれた。

 吹き込む風とともに、蹄と車輪が奏でる音が間近に迫る。ヴァルド家の庇護から、ぐんぐんと遠ざかる現実を突きつけられるようで、ムギは()()()気分が悪くなる思いがした。


 マムートを膝に抱き上げ、その首筋に顔を埋める。今はただひとり、信じられる温もりだ。

 ムギはそのままの体勢で、妖犬だから聞こえるような、か細い声を絞り出す。


「あなたを信じて、頼りにしているから……悪く思わないでね」

「ムギ?」


 それから窓のほうへ体を向き直らせ、セヴナールには背を向けた。自らの背を壁にして、マムートを窓の向こうへ押しやる。

 抵抗して足を突っ張るマムートの頭をひと撫でし、ムギはダメ押しの一言を放った。


()()、そんなにはしゃいだら危ない()()()


 演技力は相変わらず向上しない。下手な棒読みだが、マムートを説得するにはそれで十分だった。

 マムートはムギを振り返り、力強く頷いた。ムギにたった一度頬擦りすると、意を決して馬車を飛び降りる。

 抜群の身体能力で着地すると、一目散に王都へと駆け戻っていく。その小さいが勇敢な後ろ姿に、ムギはすべての希望を託した。


 おそるおそるセヴナールを振り返ると、彼は窓の外をちらりと一瞥したものの、マムートが飛び降りたことに慌てる様子はない。むしろその仕草には、まるで最初からそうなるとわかっていたかのような、妙な余裕があった。


「ご気分は、少しは楽になりましたでしょうか?」


 優しい声音だが、目元にはどこにも温もりが宿っていない。

 それでムギは確信した。この男はやはり明確な目的を持って、近づいてきたのだと――。




 ***



 マムートはヴァルド家の屋敷を目指して、街道を駆けた。ムギが連れ去られた――かもしれないということは、ローディスにも伝わっているに違いない。

 しかしセヴナールは小賢しいことに、馬車をリッシェル家のものとわからぬよう仕立てていた。事故の混乱の中で、彼を間違いなくセヴナールだったと証言できる者がいるかもわからない。ジェゾならあるいは――だが、ムギはマムートにすべてを託した。


(俺を信じて、頼りにしてくれたんだ!)


 大丈夫。

 間に合う。

 不安が首をもたげ、気持ちが逸るたびに、マムートは自分に言い聞かせた。

 体は小さくとも、一日を通せば妖犬は馬よりも長く走れる。必ず追いつけると信じて、地を蹴った。


 しばらく行くと、王都の方角から真っ白な何かが駆けてきた。綿のかたまりのような体を跳ねさせて、一頭の妖犬がマムートのもとへ辿り着いた。


「にに様! いったい何がありましたの? ムギ様は?」

「ワトゥマ……! ローディスはどうしている、何か動きがあったか?」

「はいですの! 坊ちゃまは、事故か事件か見極めが必要だと、リッシェル家の王都屋敷を訪うと言っていましたの」

「そうか、リッシェル家が絡んでいるのはわかっているんだな」


 少しほっとした。だが王都屋敷に向かうだけではいけない。ムギは、王都に隣接する、公爵領のいずこかへ連れ去られようとしているのだから。

 今すぐ来た道を引き返したい気持ちをこらえ、マムートはワトゥマに向き直った。


「ワトゥマ、俺たちはどんなに離れたって、主人の匂いを見失ったりしない。だからお前はローディスのそばについて、いざという時の道案内をするんだ。できるな?」


 ワトゥマは、こくりと頷く。


「ですが、にに様はどちらへ?」

「俺は……」


 マムートは、遠くに王城を臨んで言いかけた時だった。

 風に乗って、乾いた蹄の音が地を叩く音が聞こえてきた。はじめはかすかだったその音は、やがて地鳴りのように力強くなり、セヴナールの馬車が消えた方角とは反対から迫ってきた。


 ノルファリア国旗を掲げた騎馬の一団だ。

 マムートたちは慌てて道を譲ったのだが、すれ違いざま、先頭の騎馬兵がゆるやかに速度を落とした。彼が後ろを振り返って行軍の停止を合図すると、続く騎馬隊も続々と馬を停めた。

 隊士たちを先導してきた男が、栃栗毛の馬の頭を回し、マムートたちのもとへやってきた。


「こんな所でどうした? 君たちのご主人様はどこにいる? まさか迷子だなんて言わないでくれよ」


 ともすれば、優しい兵士が迷子の犬に声をかけただけ……とも取れる。だがマムートもワトゥマも、彼の声に、香りに覚えがあった。

 二頭がなにも答えないのを、警戒心ゆえと受け取った男は、素性を明かすように(かぶと)を外した。

 橙色を帯び始めた陽光を、金の髪がまばゆく弾く。薔薇柘榴の瞳は鋭くも、温かな希望を灯すかのように二頭の返事を待っていた。



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