彼女は獣人の希望か、脅威か
「ここまでにいたしましょう」
澄み切った声で告げるのは、リュシアナだ。空気が洗われる、清涼な響きだ。
近衛兵たちが跪く。すると、チャームの影響で動いていた獣人も、目が覚めたように次々とリュシアナの前に膝をついた。
「王族の住まいにて、これ以上騒ぎ立てては、陛下のお耳に障ることでしょう。アミゼルド殿、ここは王太子妃であるわたくしが、責任をもって対処いたします。どうぞ本日はお引き取りを――」
端然と立つリュシアナの横顔に、揺るぎはなかった。
王に説明を求められることがあれば……、リュシアナと使用人たちの間で起きた、内々の出来事として済ませるつもりだ。
自らの配下の者らに視線を巡らせ、彼女は続ける。
「庭園には、わたくしたちしかいなかった。それでよろしいですね?」
穏やかな口ぶりの中に、釘を刺すような鋭さが隠されている。
アミゼルドは一瞬だけ眉を動かしたが、やがて深く頭を下げた。リリベルを伴い、辞する旨を告げる。リュシアナは最後に一度だけ、二人を呼び止めた。
「リリベル様、日取りはこちらから追って、ご連絡差し上げます。有意義なお茶会となりますこと、楽しみにしておりますわ」
リュシアナが静かに一礼する。
王太子妃がそこまで言ったのだ。まして、これだけ大勢の証人がいれば、リリベルを切り捨てるような不用意な真似は、アミゼルドにもできなくなる。
図らずも――リリベルがリュシアナを守ろうとした策と同じ手を、今度はリュシアナが返した形となった。
アミゼルドの退室後、リュシアナは疲れを隠すように小さく息をついた。
使用人らを穏やかにたしなめると、持ち場へと下がらせる。彼女のそばに残ったのはわずかな侍女と近衛兵、それから羊の文官だ。
リュシアナは彼らをその場に留めて、自らの足で鉄柵のそばへ歩き出した。そこには、退室する機会を逸したムギが取り残されている。
恐縮して、すっかり縮こまったムギの頭から爪の先まで、リュシアナの柘榴色の瞳が撫でる。王太子妃はなにか納得した様子で、白樺を思わせるしなやかな手を差し伸べた。
「――貴女は、麦穂の乙女ですね?」
ムギの肩がびくりと震える。その反応に、リュシアナはわずかに瞳を細めた。怯えを見てとったのだ。
ふと、リュシアナの唇に、柔らかな笑みが灯る。それは迷子の小鹿を慰めるに足る、優しい表情だった。
どこでその名を耳にしたのか、問いかけたいのは山々だが、恐れ多くてムギは口を閉ざす。しかし、潤んだ瞳は雄弁だった。
リュシアナは小さく吹き出したかと思うと、わずかに親しげな笑みを傾けた。
「このような見かけではございますが、わたくしにも獣の血が流れております。耳は良いのですよ」
言葉通りに受け取るには、リュシアナの微笑みはどこか測りかねるものがあった。すべて見透かされているような静けさがある。
しかし、深められた笑みは清らかで美しく、ムギを謀る気配は感じられない。それがアミゼルドとの違いだった。
ムギの強張りが解けるのを見て取ったリュシアナは、自らの手を重ねてささやいた。ムギの耳に、そよ風のように優しい声が染み渡る。
「貴女のお立場は、これからますます危ういものとなるでしょう。叶うならば、わたくしから陛下に、庇護を賜われるよう口添えしたいところですが」
整えた髪を振り乱さんばかりに、ムギはふるふると首を振る。リュシアナは安心させるように、ゆっくりと目で頷いた。
「お噂の麦穂の乙女様ならば、そうは望まぬと存じております。――シュメル」
羊の文官が、すっと一歩前に進み出た。
「こちらの御方を、ヴァルド家の使者のもとまで送り届けなさい。馬車が走り出すのを見届けるまで、目を離してはなりませんよ」
「承知いたしました」
シュメルはムギたちを、ひとけのない隠し通路へと案内した。
最後まで何度も繰り返し頭を下げるムギを、リュシアナは穏やかな眼差しで見つめる。
やがて、庭園にはいつもの静けさが戻ってきた。リュシアナは足元に咲いた紫の花を摘むと、手のひらでそっと包むようにして祈りを込めた。
(ああ、どうか。その身にガイアスの名を戴くならば、駿馬の如き走りで、お早くこちらへお戻りください。麦穂がこぼれてしまわぬように――)
空に捧げるように手を掲げ、リュシアナは花にふうっと息を吹きかけた。すると花は、羽根のようにふわりと舞い上がり、そよいだ風に乗って、いずこかへ羽ばたいていった。
◇ ◇ ◇
一方、部屋へ連れ戻され、厳重な監視体制を敷かれたリリベルは……心労で臥せったふりを装い、蘭子とメッセージを交わしていた。
頭まですっぽりかぶった上掛けの中で、蘭子からの叱責が次々に通知されてくる。
『王太子妃の庭に侵入して、生きて帰れただけありがたく思いな』
『ムギさんに土下座しろ』
『猪突猛進おじさん』
『腹黒ロリ聖女』
返信が追いつかないうちに、矢継ぎ早に送られてくる罵詈雑言のなか、突然画像がアップロードされた。
蘭子の端末から撮られたスクリーンショットに映されているのは、ネオンノベルズの画面だ。すぐに蘭子のメッセージが連ねられる。
『オールミートが続きを更新した』
『王太子の帰国を阻む存在について、匂わせてる。これってリュシアナとの仲を妨害したい人物だから、獣人差別を煽ろうとしてるアミゼルドと同類……ってことだよね?』
そうだろう、とリリベルがスタンプで返信する。
すると蘭子から該当部分に赤線を引いたスクリーンショットが、新たに送られてきた。
『名前は出てないけど、外務大臣――ってところまではわかってきたよ』
『そっちの外務大臣が誰か、アンタわかるの?』
役人すべての顔を把握しているわけではないが、大臣クラスとなれば名前はある程度すぐに浮かんだ。
すると、アミゼルドと外務大臣の接点に気付き、リリベルはがばっと起き上がった。
「まさか、そんな人物が絡んでいるなんて……」
マリエルの手記どころの話ではない。事が明るみに出れば、国が大きく揺らぐ大事件だ。
ムギは気付いているだろうか――リリベルはスキルで「もしもし」を試みるが、監視の目を盗み、声を発するのは難しい。
もはやここは窓から飛び降りてでも伝える覚悟で駆け出すも、神殿兵たちの腕で呆気なく御用となってしまった。
もどかしさにシーツを噛み締めるリリベルの焦燥とは裏腹に、運命は急加速して、ムギのもとへ収束しつつあった。
◇ ◇ ◇
「まったく、あなたという方は――。聖女殿とのお付き合いは慎重に……、と。今朝も口を酸っぱくして、お伝えしたはずです。シュメル殿に先導されるお姿を見たときは、肝が潰れましたよ」
馬車の中に、ジェゾのため息が満ちる。優雅だが棘がある……薔薇の吐息だ。
「よろしいですか。シュメル殿は、グランツェル公爵閣下自ら、王太子妃様のもとに遣わした腹心なのです。そのような御方に見送られるなど、わたしは坊ちゃんに合わす顔がございません」
「ほ、本当に面目ありません……」
「こうなってはもはや、お優しい旦那様とて、見て見ぬふりはできないと思われます」
「ヴァ、ヴァルド家のご当主様……ですか」
ヴァルド公爵家の世話になりながら、公爵夫妻にはいまだ一度も面会したことがなかった。自身の両親をモデルにした存在との初対面がお咎めとは、それこそ本当に合わせる顔がない。
いたたまれないあまり、ジェゾの顔すら見られず、ムギは車窓から王都を眺めた。
収穫祭も残すところ数日となり、人の出はムギが初めてセリフィオラの地に降り立った時よりも、ずいぶん落ち着いている。
おかげで馬車も、道を譲り合うことなく悠々と走り続けられた。
ヴァルド家の王都屋敷へ滞りなく到着してしまうのが、今のムギには少し恐ろしい。そんなことを考えていたからだろうか。
通りが交差する大通りに出た途端、強い衝撃が馬車を襲った。客車の横っ腹に、別の馬車の客車が衝突したのだ。
衝突の衝撃で、客車は互いに弾き合う。ヴァルド家の馬車は、車輪が外れて横倒しとなった。車体に引きずられ馬たちも路上に倒れ込み、前脚をもがかせる。
相手方の馬車から降りてきた身なりのいい男が、ひしゃげた扉をこじ開けて、中にいるムギたちを助け出した。
そっと抱えられたのに、頭の芯がひどく揺れた。人々のざわめきが潮騒のように迫る中、ムギの意識は薄れていく。
「ムギ、しっかりしろ……」
「これはいけない……!」
マムートの声に重ねて、男が逼迫した声をあげる。自身の乗っていた馬車を振り返り、彼は馭者に問う。
「走れますか? こちらのお嬢さんは、ヴァルド家の大切な客人です。このまま治療院へ、運びましょう!」
ジェゾがうめくように「お待ちください」と呼びかける。だが、その声は喧騒にかき消され、ムギの身体は馬車へ乗せられてしまった。
客車の扉が閉まる刹那、マムートは飛び上がって、その身を捻じ込ませた。次の瞬間、馬車は王都の喧騒の中を、猛るように駆け出していった――。




