優しい呪縛
緊張の糸が張り詰める中、アミゼルドは庭園の誰にも礼を欠かすことなく、慎ましく頭を下げた。王都の信徒を束ねる彼の風格に呑まれ、近衛兵たちですら無意識に姿勢を正す。
「王太子妃殿下。かような混乱を招きましたこと、まことに申し訳なく存じます。神殿を代表し、深くお詫び申し上げます」
流麗な所作で言葉を尽くすその様に、場にいた誰もが幼い聖女との格の違いを目の当たりにした。これでますます、リリベルへのヘイトが募ることだろう。
少し前までのリリベルなら、恨み抜かれた末に断罪されたとしても、喜んで受け入れただろう。バッドエンドでも面白ければいい、未体験の感動をその身で味わえるなんて、まさしく夢のようだった。
しかし今は、違う。ここは現実で、同胞の大切にしている世界だと知った。
断罪されるならせめて、この世界にハッピーエンドを手繰り寄せてからでないと、死にきれなかった。
悔しさを滲ませるリリベルの手を引き、アミゼルドはいとまを告げて歩き出す。その背に、凛とした声が掛けられた。
「お待ちください。神出鬼没とは申しますが、神に仕える方々も、そのように唐突に現れ、去ってしまわれるのでしょうか。わたくしとリリベル様のお話は、まだ終わっておりませんのに」
リュシアナだ。
聡明な妃は、リリベルの表情の変化を見逃さなかった。
まだ望みを捨てるには早い。わずかな希望に、珊瑚色の唇が綻ぶ。
リリベルが再び無邪気を装って、アミゼルドの手を振り払おうとした時だ――。
遠くから、大勢の足音とどよめきが近づいてくる。
鉄柵にしがみついたムギからは、庭園の奥の門が開き、人々が押し寄せてくる様子が見えた。人間と獣人、どちらの姿も確認できる。
数人の兵と、ほとんどは使用人らしき者たちだ。庭師の姿もある。皆、リュシアナに仕える者たちだ。
「妃殿下――! 侵入者があったと伺いました!」
「辺りを神官たちが囲んでおります! ご無事ですか?」
生まれ育った公爵家から共に王宮入りした彼らは、近衛兵よりもずっとリュシアナとの距離が近い。
駆け込んできた彼らの視線が、リリベルを認めた途端、庭園の空気が一変した。
獣人たちの毛並みがブワッと逆立つ。ラベンダーの穏やかな香りを塗り替えて、怒りが辺りに満ちていくのは速かった。
最初に声を上げたのは、褐色の肌に黄金の瞳を持つ豹獣人の男性だった。
「聖女がなぜこちらに!? 妃殿下から次は何を奪おうと言うんだ!」
彼の言葉を皮切りに、集まった者らが口々に憤りをぶつける。腹に据えかねてきた怒りが、とうとう噴出した瞬間だった。
獣人たちの声は、とりわけ烈しい。
牙を剥く者、尾を膨らませ威嚇する者――彼らの怒りは疑いなくリリベルへ向けられていた。
「お前たち! 妃殿下の前で、およしなさい!」
羊の文官の声は、怒号の波に呑まれた。
先程までリリベルを囲んでいた近衛兵たちが、今は猛る使用人らを抑えるために、剣を抜こうとしている。その光景は皮肉にも、獣人からリリベルを守っているかのようだ。
彼らの足元を縫うように、マムートがムギのもとへ戻ってきた。すっかり舐め上げられたボールも、律儀に回収済みだ。
マムートは、ばつが悪そうな顔でムギを見上げる。
「すまない、俺が我を忘れたばかりに……」
「今はそれどころじゃないよ」
「ああ。混乱に乗じて、脱出したほうがいい。でないと、ヴァルド家にも迷惑がかかるぞ」
「だけど、このままじゃ悠里さんが……」
言ったそばから、だった。
獣の咆哮が上がり、爪と鋼がぶつかり合う甲高い音が響いた。
とうとう剣が抜かれてしまった。そうなったらもう、リュシアナの声ですら彼らの耳には届かない。
もはやこれが、暴動の始まりのようだ。
近衛兵が豹の獣人に突き飛ばされた拍子に、巻き添えを喰らったリリベルが石畳みに叩きつけられた。
「や……やめてください!」
ムギはたまらず叫んだ。
誰にも傷ついてほしくない――、ただそれだけだった。思いをこめた声が空気を柔らかく波打たせ、獣人たちの耳へと吸い込まれる。
怒りに燃えていた獣人たちの視線が、一斉にムギへと向けられた。その中にはリュシアナのように、人間と変わらない容姿の者もいる。
一瞬、時が止まったかのような静寂が訪れた。そのあわいを、ラベンダーの香りが風に乗って漂う。
穏やかな風が、獣人たちの逆立っていた毛並みをそっと撫でた。牙を剥き出しにした荒々しい呼吸も、次第に落ち着きを取り戻していく。
掲げられた拳が、一つ、また一つと静かに下ろされ……。
もふもふチャームの効力だとムギが気付く頃には、怒りの熱は風にさらわれるように消えていた。
***
勢い余って、鉄柵から転がり落ちたムギを、マムートが変化して抱き留める。
突然の闖入者に、戸惑う声がさざなみとなって押し寄せた。
「あちらは確か、聖女様のご友人でしたね?」
リリベルを助け起こしながら、アミゼルドが問う。
「いいえ、友と呼べる間柄ではありません。わたくしが一方的に気に入って、わがままに付き合っていただいているだけです」
「左様ですか。聖女様が目を掛けられるのも、どことなくわかるような気がいたします。わたしも少々、興味が湧いてまいりましたよ」
たっぷり時間をかけてムギに一礼すると、アミゼルドは一歩踏み出した。
「獣人たちを宥めてくださったのは、あなたですね? いったい、どのような魔法をお使いになったのですか? それとも、あなたの温かみのある声に、秘密があるのでしょうか?」
ひとつ問いを投げかけるごとに一歩――、アミゼルドが近づいてくる。
マムートの腕の中で、ムギは息を詰めた。
アミゼルドの笑みと声は穏やかながら、背筋が凍る威圧感がある。彼が歩を進めるごとに、ムギの心臓は強く脈打ち、息さえ上がるようだった。
すると、数人の獣人たちが、アミゼルドの行く手を阻むように立ち塞がった。牙を剥くことなく毅然と、目で制止を訴える。
彼らは明らかに、ムギを守ろうとしていた。
命令したわけでも、願ったわけでもない。ムギの恐怖が伝わっただけで、彼らは動いた。
もふもふチャームがそうさせるのだ。獣の特徴が外見に顕著に現れている者ほど、特にかかりやすいようで、リュシアナなどは驚いた様子でその光景を見守っている。
ワトゥマが、ムギのためにヴァルド家に飼われたいと暴走した時と同じだ。あの時と同じ罪悪感が、ムギの胸に渦巻いた。
(無関係の人の心まで縛ってしまうなんて……許されない)
だが今は、力が与えてくれたわずかな糸口に縋るしか、希望を見出せない。
ムギは破れてしまいそうな心臓を押さえつけて、そろりと立ち上がる。
「わ、わたしのような、下賤の民の言葉に耳を傾けてくださって……ありがとうございますっ」
緊張のあまり、声が裏返った。恐れながらも、真っ直ぐな言葉をムギは選ぶ。
「わたしがこんなことを言うのは、厚かましいのかもしれません。でも……願うことが許されるのなら、一つだけよろしいでしょうか?」
リュシアナが、場を代表するように静かに頷いた。
「では……獣人さんの素敵なお耳は、わたしではなく、リリベル様のお話に傾けていただけませんか。そして、リリベル様にも、手記の発行に携わったすべての方々にも――獣人さんたちの怒りと嘆きを、どうか受け止めていただけたらと……そう願います」
ムギは深く頭を下げる。再び顔を上げた時、大勢の視線に晒されて、足が竦んだ。マムートが支えてくれなければ、後ずさっていただろう。
息を整え、背筋を伸ばす。
「お互いに、きちんと向き合ってください。たとえ時間がかかっても、もつれてしまった糸はきっとほどけると……信じたいんです」
ムギの切なる願いが、庭園に静かに響いた。




