アリーシャとリュシアナ
◇ ◇ ◇
リリベルは蘭子との通信を切るや、ムギの手を引いて歩き出した。小走りで廊下に躍り出た少女たちと妖犬のあとを、神官が慌てて追いかけてくる。
「確認します。ムギさんの物語の中で、グランツェル公爵令嬢のお名前はリュシアナで間違いないんですね?」
翻訳魔法は解かれているため、リリベルはムギを強く引き寄せ、頬を寄せるようにして問いかけた。はためには、幼い子がお姉さんに無邪気にじゃれているように見えなくもない。
街中ならいざ知らず、宮中においてはいささか品に欠ける振る舞いだ。神官たちは聖女をたしなめるので手一杯で、二人の会話はろくに耳に入らない。
「は、はい。公爵令嬢としてではなく、王太子と結ばれた暁に、王妃として名前が出る程度の扱いではありましたが」
この世界では既に、王太子妃には別の令嬢アリーシャが迎えられ、こめっこの描く世界では亡きものにされてしまった。
不遇の令嬢となってしまったリュシアナに、ムギは胸を痛める。
ところがリリベルの横顔には、勝利を確信するような嬉々とした煌めきが宿っていた。
「王太子妃アリーシャ様は、そのリュシアナ嬢なんです」
「ど、どういうことですか?」
王太子ガレリウスとリュシアナは、種族の不和を理由に引き裂けないほど、心から愛し合っていた。
二人の仲睦まじく、向かい風にも不平をこぼさず凛と立ち向かう姿に、異論を唱えていたものたちもとうとう根負けし、婚姻を認める運びとなったのだが――。
「民衆が納得しないとして、リュシアナと名乗ることを禁じたんです」
表面上、グランツェル公爵家との婚約は破棄され、代わりにさる侯爵家出身のアリーシャが、王太子妃の座に就いた。
結果を見れば、リュシアナが王太子と結ばれたことに変わりはない。しかし、誇り高き公爵令嬢が、生家も本名も捨てさせられたのだ。
当然、グランツェル家にしたら喜ばしい門出とは言えなかった。
「それだけじゃありません」
リリベルは、極めて密かな声を絞り出した。
「王太子殿下が、外交使節団に同行して、国外に滞在中――とのお話はしましたよね」
「はい、ご成婚から間もなくだったと」
リリベルはさらに声をひそめ、ムギを引き寄せる。もちもちとした頬が、ぴたりと吸い付くようだ。中身が中年男性ということを思い出したムギは、ことさら体を強張らせた。
「殿下を王都から遠ざける目的には、アリーシャ様との関係を希薄にし、やがては絆を断とうという意図が透けて見えます」
リリベルは、何も知らぬ子供の顔を使えば、裏事情の話を調達するのは案外容易いと、悪い笑みを浮かべる。
獣人を締め出した、あるサロンでの話だという。
使節団に同行した王太子の身辺には、侍女の名目で、名家に連なる令嬢たちが侍らされた。一見すると、見栄えのために美姫を揃えたようにも受け取れる。……が、その裏には側妃の座を競う家々の静かな駆け引きと、家名を賭けた競争が渦巻いていた。
時に、行きすぎた献身ぶりを発揮して王太子の不興を買い、国へ返された娘もいるという。
「リュシアナたちは深く愛し合っているのに、なんて身勝手で、品位に欠けた策謀なの……っ」
「もし、彼らの思惑通りに行って、帰国した殿下がアリーシャ様に離縁を告げたら……。なんというか、ザマァ展開の開幕テンプレみたいじゃないですか? これも、ENaの流れを汲んだ誰かの空想がもとになっているんですかね」
創作では人気の展開でも、現実に起きたらたまったものではない。
愛娘を軽んじられ続けた公爵家の憤りは、想像に容易い。煮えたぎる怒りは地の下で轟々と熱を帯び、いつ噴気してもおかしくない状況だ。
リリベルはムギの手を引き、どんどんと王宮の深部へと進んでいく。追い縋る神官たちの手をひらりとかわし、警備兵の目をかいくぐり――、気付けば蔦の張り巡らされた鉄柵で隔てられた庭の一角に出ていた。
はらはらしながらも、何か考えがある様子のリリベルを信じて、ムギはじっと構えていた。神官たちの迫る気配はない。鉄柵の向こうからは、数人の女性が和やかに談笑する声が聞こえてくる。
「さてと……、ムギさん。ボールか何か持ってます?」
「え、あ……はい。マメタが退屈しないようにと思って、念のため持ってきてます。でも、何に使うんですか?」
上品なレティキュールから、噛み跡の残るボールが顔を出した。マムートの尻尾が、そわそわ揺れる。
リリベルはボールの感触を確かめるように、何度か両の手を往復させると、マムートの鼻先に差し出した。
いつもの癖で、マムートは匂いを確かめる。しかし、ムギ以外の人間に手なづけられるつもりはないと告げるように、ぷいっとそっぽを向いた。
「ふふふ。そうしていられるのも今のうちですよ、マムートくん」
リリベルは懐に手を入れると、どこかで見たスティック状のアルミパウチを取り出した。ムギの脳裏に、例のCMソングが流れ出す。
パウチの上部を切り口に沿って開封した途端、マムートの鼻がひくひくと動いた。ちゅるちゅると捻り出したペーストが、これでもかとボールに塗りたくられる。
「ゆ、悠里さん……?」
「ボク、中学時代は野球部でピッチャーだったんです。行きますよぉぉ……うおりゃあっ!」
リリベルは腰を落とし、小さな体をぐるりとひねった。
低く構えたフォームから放たれたボールは、弾道を描いて鉄柵の向こうへと吸い込まれていく。
直後、マムートが何かに取り憑かれたように駆け出した。
「マ、マメタ――!?」
ムギの声も耳に入らないのか、マムートはひとっ飛びで柵の向こうに消えた。魔法で彼を操ることはできない。彼を動かしたのは、純然たる食欲――ワンテュールの魔力だ。
刹那、鉄柵の向こうから女性の悲鳴があがった。ムギは顔をこわばらせて、リリベルに詰め寄る。
「ど、どなたのお庭なんですか!? まさかとは思いますが……」
リリベルはにこりと微笑んで、乱れたドレスの裾を直した。
「王太子妃アリーシャ様に決まってるじゃありませんか」
さあっと、汗を撫でる風が吹いた。
蔦の隙間から流れ込んできたのは、淡く、それでいてはっきりとしたラベンダーの香りだった。




