マリエルの手記の真実
翌日から、ワトゥマの神殿での修行が始まった。
礼拝堂まで送り届けるのは、侍従見習いオルジュ――ムギの役目だ。
これをローディスはたいそう悔しがった。だが屋敷に帰ったワトゥマが、ムギに話すのと同じように、その日学んだことを余さず報告してくれるので、夜にはすっかり機嫌も直ってしまうのだった。
「明日は、婚礼の儀式に立ち会いますの!」
夫婦の門出を祝福する儀式に、魔封じも無関係ではない。新たな旅路に幸多からんことを願い、邪気を祓うのだ。
嬉々と前足を浮かせて、ワトゥマは笑顔を弾けさせた。人間たちの婚儀は、それは美しく胸が湧く光景だとシェルマから聞いていたので、楽しみなようだ。
「明日、か――」
ムギは確かめるように呟き、そっと深呼吸した。
***
夜が更けて妖犬たちも寝静まってから、ムギは魔法の光球を手に起き出した。
リリベルからもらったまま、クローゼットの奥に隠していた包みを開く。白い皿の下に敷かれた『マリエルの手記原本(過激表現あり)』を手に取ると、こそこそと寝台に戻った。
今の今まで封印しておいて、やっと広げる気になったのは、明日この本をリリベルに返さなくてはならなくなったからだ。
『オルジュさん、こんにちは!』
『朝晩は涼しくなってきて、読書が捗りますね!』
ワトゥマの送り迎えの際、神官見習いの少女に声をかけられることは度々あった。
そのたびに、土産に持たされた特級劇物の感想を求められているのは分かっていた。だがムギは、読む勇気が出ないまま、鈍いふりをしてごまかし続けていたのだ。
しかし、今日の昼――。ついに逃げ場を塞がれた。
『明日は、聖女リリベル様が、お友達を招いてお茶会をするんですって!』
『本の貸し借りをする仲で、読んだ本を手に、読書談義に花を咲かせるそうですよ。楽しそうですよね!』
――これは、例によって船に乗せられるやつだ。
ムギは覚った。
無邪気な確信犯は満面の笑みで、最後にこう問いかけてきた。
『ところで、オルジュさん。うんまい棒は何味がお好きですか?』
エンシェンティアではお目にかかれない、レアなお菓子でもてなしてくれるつもりらしい。
ムギは迷わず「コーンポタージュ味」と答えた――。
◇ ◇ ◇
そうして例によって、密かに船に乗せられたムギは、そびえる城を再び臨んでいる。
先日は困惑するばかりで、ゆっくり眺める暇もなかったが、城周辺の石畳の道は城下から届けられた花々が彩りを添えて、ワトゥマでなくてもはしゃぎたくなるような景観だった。
城門や城壁にも、国章と並んで三色のリボン飾りが掲げられている。
陽光を浴びて風に踊る姿はまるで、城そのものが、民とともに祭りの喜びを分かち合っているかのようだ。
ノルファリア王家が、民の心に寄り添っている表れのようにムギは感じた。それゆえに、獣人への誤解をどうにかできないものかと、気持ちが塞ぐところでもある。
そんなことを考えていると、城門が開いて、鈴を転がす声がムギを誘った。
「ようこそ、おいでくださいました。さぁ、こちらへ。わたくしについてきてください」
聖女直々の案内に恐縮しながら、ムギは城門をくぐった。
主人の緊張を感じ取っているマムートも、警戒を怠らない。もう彼を縛るものはなく、行く気になればどこへだって行けるが、いつでもムギを守れる距離であとに続いた。
***
窓から射す光が、白亜の回廊に優雅な模様を躍らせる。リリベルは影を踏んで遊ぶような軽やかな足取りで、城内をすたすたと歩いていく。
前に訪れた時は、人払いもされた通路を通ってきたため、城内のものの姿を目にする機会がなかったが、今日は衛兵の他――、侍従や侍女、文官といった宮廷勤めのものたちの往来を見て取れた。
彼らはみな、リリベルの姿を認めると、恭しくかしずいて道を譲る。「ようこそ」とムギにまで礼を尽くしてくるので、倣うように慌ててお辞儀を返したが、なんとも落ち着かない気分だった。
一方で、聖女にへりくだらないものの姿もあった。
たった今、リリベルを避けるように目を伏せて立ち去ったのは――。
文官らしい身なりの、高貴な雰囲気の男性だが、頭部は羊のそれだ。
精巧なかぶり物のようにも見えたが、後ろ姿とともに蹄の音が遠ざかっていく。
獣人だ――。
ムギの胸がざわめいた。
獣人の見た目は千差万別。獣の特徴が色濃く出る者もいれば、耳などに名残りをとどめる程度の者もいる。
転生してから初めて見る、獣らしい姿の獣人にムギは高揚を覚えた。それと同時に、獣人がまだ王城に残っているという事実に、胸の奥がきゅっと痛む。
その後も、獣の血脈を感じさせる外見をしたものと、幾度かすれ違った。
ムギが密かに様子を眺めるに、彼らは同じ宮廷人の人間と言葉こそ交わさないが、礼を欠く真似は見せない。ただ、リリベルや神殿関係者にだけは、唸り声が聞こえてきそうな瞳を向けていた。
ひりついた空気感に、マムートが身震いしたほどだ。
しかしリリベル本人は、まったくこたえた様子がない。むしろ笑顔を深めて歩き続け、やがて彼女の私室へと至った。
人払いを済ませたリリベルは、ムギたちをテラスへと手招く。
テラスへ続く両開きの扉には、繊細なカットが施された厚い硝子がはめこまれている。光を受けた表面は、宝石の粒をまぶしたように、きらきらと輝いていた。
重たい扉を締め切り、リリベルが「ふう」と軽快な息をついた途端、身を包む空気が変わるのをムギは感じた。
翻訳を阻害する魔法だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
リリベルとの会話の内容は後で教えると、マムートには事前に了承を得ている。視線ひとつで頷き、マムートはムギの足元にて静かに待った。
テラスからは、王宮の庭園が一望できた。
リリベルの私室がある三階から臨むと、区画ごとに庭の雰囲気が分けられているのがよくわかった。
回廊を取り囲む庭は、緑を多めに季節の花々で調えられ、憩いの場として利用できるよう、四阿へと動線が伸びている。
一方、王族の方々が住まう居住区のほうには、ナチュラルなテイストのものからロックガーデン風の景観まで、趣向を凝らした庭が造られていた。
城門前通りにできた花の道も見事なものだったが、王家お抱えの庭師によって計算され、手を掛けられた植物たちは、生きる芸術とも呼べた。
「さて、と――」
景色に圧倒されていたムギを、リリベルの愛らしい声が現実へ引き戻した。
ドレスの裾をふわりと揺らして、リリベルは椅子に腰掛ける。祈る仕草から、当たり前のようにスマートフォンを取り出すと、瞬く間に色とりどりの菓子を卓上に出現させた。
山と積まれた、丸顔のキャラクターが描かれた細長い袋をひとつ摘み上げて、リリベルはにっこり笑う。
「ボクは明太子味が好きです。コンポタ味を多めに、全種類揃えてあるので、遠慮なく食べてくださいね。そう、そう、それと――」
追加で発注をかけたものを、マムートに差し出した。緑色の包装で包まれた、薄い棒状の何かだ。封を切ると、生臭い香りとととに肌色のペーストが顔を出し――ムギの脳裏には耳に馴染んだCMソングが流れた。
「あげてもいいですか?」
「も、もちろんっ。お気遣いありがとうございます」
身振り手振りで食べ物だと説明するも、ムギの手からでないと、マムートは警戒して食べる気になれないようだった。
リリベルから受け取ったワンテュールをムギが眼前に差し出すと、マムートは怪訝そうに鼻をひくつかせながらも、ぺろりと一舐めした。そして、びくりと小さく震えた。
『なんだこれ。こんなうまいもの、初めて食べた! ムギ、これは危険な食べ物だぞ! 妖犬狩りの連中に悪用でもされたら、ワトゥマならほいほいついていきそうだ!』
言葉はわからないが、なんとなく言っていることが伝わってくる。ムギは思わず吹き出してしまった。
「あ……そうだ。すっかり遅くなってしまって……。貴重な原稿をありがとうございました」
綺麗な布で厳重に包んで、懐に忍ばせてきた『手記』をリリベルに返す。
受け取ったリリベルは早速、本題を切り出した。
「――で? 読んでみて、どうでした?」
「はっ、はいっ……! その……あの……たいへんロマンチックで、あの……えっと……」
官能的な描写の臨場感に、すっかり当てられてしまい、目が冴えて眠れなかった――などとは口が裂けても言えない。
なので感想は後日ゆっくりまとめさせてもらうことにして、ムギは読みながら気になった点について触れてみた。
「とても素敵なお話だったんですが、登場人物の名前が出てこないのが不思議だなぁと思いました。意図して伏せてるのかとも思ったんですけど……今回はそういう作風でもなさそうでしたし」
「ボク、名前を考えるのがすごく苦手なんです。cucuちゃんの助けがないと、たいてい、どのキャラも名無しなんですよ」
「キュキュさんって、確か……」
リリベルはスマートフォンの画面をムギに示した。何度も訪問した、ENa上の水無月あやめのプロフィール画面が開かれている。
作品一覧を彩るのは、ロゴやキャラクターデザインにこだわりを感じさせるデジタルイラストだ。
すべての作品で表紙イラストを描いているのが、cucuという絵師だった。
「いつ見ても、世界観をしっかり捉えた表紙を描かれていますよね……。あっ。もしかして、表紙とは別にキャラクターデザインも、ご依頼している……ってことですか?」
「依頼というか、cucuちゃんが想像力のままに描いてるんですよ」
「えっと……?」
理想的なリアクションをくれるムギに、リリベルは満足げな笑みを浮かべ、軽い調子で種を明かす。
「cucuちゃんも、水無月あやめだからです」
「……はい?」
「水無月あやめは、ボクたちのユニット名で、二人で作品を作っているんです。ボクがプロットと執筆担当で、cucuちゃんがキャラクターの肉付けと校正をしてくれています」
ムギのなかにあった水無月あやめ像が、すべて作り替えられていく。当然驚きはしたが、それなら水木悠里の死後も更新が途絶えなかったことにも説明がつく。作品の完成度も合わせると、腑に落ちる新事実であった。
「じゃあ、マリエルとレックスって名前をつけたのも?」
「あ、それはcucuちゃんじゃありません」
一瞬でムギの思考が止まった。
この流れで他に誰がいるというのか。
リリベルの口からは、ムギが想像もしていなかった筋書きが紡がれていく――。
「聖女と呼ばれるようになり、神殿に保護されたボクは……とにかく暇を持て余していました」
手慰みに綴ってみたのが、あの『手記(ENaでは公開できない禁書)』だった。
「前にも話したと思いますが、ボクらはデフォルトの翻訳効果のおかげで会話に困ることはありませんが、読み書きとなるとそうはいきません。それで、執筆しながら神官さんたちに、こちらの言葉の手ほどきを受けていました」
鑑定眼に頼り切ってきたムギは、リリベルの行動力に感心するとともに恥ずかしい思いがした。
一方で、ふと疑問を抱く。
「執筆しながら……って、こ、この……原稿を教本に、手習いしたということですか!?」
「はい、そうです。聖女らしくない、とか、もっと上品なものを……なんて言われたんですけどね」
「と、当然かと思います……」
「だけど神殿のなかで一人だけ、ボクの作品を否定せずに受け入れてくれたひとがいたんですよ」
その人物はリリベルの話に耳を傾け、時に相談にも乗ってくれたという。そしてある時、登場人物の名前が決まらないとこぼしたリリベルに、こう言ったのだという。
『黒き獣の王には、レックスという名が相応しく思います』
『少女のほうは、マリエルなどいかがでしょう。我が国では女性に多い、馴染みのある名です』
ノルファリアの歴史を知らないリリベルは、光明とばかりに二つの名を採用した。
その結果、生まれたのが『新訳ノルファリア正史』のもととなった『マリエルの手記』……翻訳版の水無月あやめの小説である。
「こちらの世界でも執筆を続けられる。筆名リリベルとして生きていけるのだと、ボクはわくわくしていました。まさか、獣人と人間の関係をひっくり返すことになるなんて――思いもせずに……」
「だ、誰が、先生にそんなことを吹き込んだんですか!?」
ムギはずっと、聖女の存在が歴史を捻じ曲げたのだと、心の底で嘆いてきた。
しかし、リリベルの話を聞いた今、彼女が意図してそうしたわけではないのだと、確信できた――はずだったのだが。
胸の奥が、不安でざわめく。
何者かが背後から忍び寄ってくるような、良くない予感に駆られ、ムギは反射的に後ろを振り返った。
そこには、煌びやかなガラス戸があるばかり……室内にも神官の姿は見当たらない。
「誰が、名付けたのか。それは……」
思わず息を詰めるムギの耳に、リリベルの静かな声が落ちた。
「――アミゼルド神殿長です」




