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「待て」も限界


 聖女リリベル――水無月あやめの突拍子のなさに、もはやムギの理解が追いつかない。頭はとっくにオーバーヒートを起こしている。

 扉が叩かれたのは、そんなときだった。


「リリベル様。まもなく、ヴァルド家の皆様が神殿を発たれるようです。そろそろ客人をお帰ししませんと――」

「まぁ、もうそんなに時間が経ってしまったのですか? 申し訳ございません。わたくしったら、つい夢中になって長話をしてしまいましたわ!」


 ころりと聖女の顔に戻って、扉の向こうに応える。


「お話を聞いてくださってありがとう。お土産に、この聖女印のお皿を持って帰ってくださいな」


 リリベルは、キャンペーン中の白い皿数枚を手早く包んだ。さりげなく、一番下に「マリエルの手記原本(過激描写あり)」を敷いたので、ムギはぎょっとした。

 それとほぼ同じタイミングで、ムギをここまで連れてきた神官が部屋に入ってきた。そわそわしているのは、早く神殿に戻らねばと思っているからだろう。


「ああ、そうでしたわ! お名前をまだ伺っていませんでした。またお会いできるように、お教え願えますか?」

「あっ、と、とんだ失礼をいたしました……。今は訳あって、ヴァルド家の侍従見習いオルジュを名乗っていますが……本名はムギです。この姿も男装で……」

「ふふふ、わたくしと一緒ですね!」


 転生者としてだけでなく、偽装見習い仲間としても、リリベルが共感を抱いてくれたかのような笑顔に、ムギはほだされた。


「あの……あちらでは、おおつ――」

「二人だけの時間は、もうおしまいです」


 ムギの唇に人差し指を立て、リリベルは言い聞かせるような目で微笑みかけた。

 その瞬間――室内の空気がわずかに変わったようにムギは感じた。足元でマムートが「やっと帰れるのか」と呟き、はっとする。


(魔法が……解けた?)


 さっきまで言葉を包み込んでいた何かが、ふっと消えた。

 リリベルはひとつ頷く。それに応えて、ムギも口を噤むと、神官に導かれるまま王城をあとにした。



 ***



 神殿でヴァルド家一行に合流すると、ジェゾがたいそう心配して迎えてくれた。ローディスには案の定、軽くお小言を食らってしまったが、ジェゾが一緒になって頭を下げてくれて、気の毒だったほどだ。


「見習いの立場を弁えたまえ!」


 言葉のわりに、ローディスの機嫌はそんなに悪くない。ムギがいないあいだ、ワトゥマと神殿の見学をじっくりできたからだ。

 ふんと鼻を鳴らすと、ついてこいとばかりに屋敷へ歩き出した。


「ジェゾさんも、ご心配をおかけして、本当にすみませんでした……」

「わたくしはよいのです。あなた様こそ、少しの間に、やつれたように見えます。なにかあったのですか?」


 ジェゾは本当に心配もしているようではあるが、ここでのムギの言動はすべて、彼女の口からローディスへ伝えられるのだろう。それが彼女の務めなのだから、ムギが責められることではない。

 聖女に呼び出され、秘密の話をしてきました――とは言えない。


「子供たちの歌にすっかり聴き入ってしまって、なんだか魂が抜けたような心地です……」


 苦しい言い訳だと思いながらも、ムギは秘密を貫いた。

 マムートは何か言いたそうに見上げる。しかし、ムギの困ったような笑顔にふと足を止め、やがては口を結び、歩調を合わせた。


「それで……。あの子供とは、何を話していたんだ?」


 忍耐強く待ち続けたマムートが、そう問い正してきたのは、湯浴みを終えたムギが部屋で着替えているときだった。

 ムギは寝巻きのリボンを結ぶ手を止める。衝立越しにマムートの視線を感じるも、振り返れない。


「ごめんね。うまく説明できないの……」

「公爵家にも嘘をつかなくちゃならないほどか? 言葉はわからなくても、お前が誤魔化したことくらいはわかるぞ」

「うん……ごめんね」


 ちくりと痛む胸と右腕を撫で、ムギは寝台に腰を下ろした。

 マムートは何も言わなかったが、不機嫌そうに鼻を鳴らすと、衝立を押し退けて足元にやってきた。今までにない行動に、ムギはぎょっとする。


「ま、まだ着替え中だよ! もうちょっと向こうで待ってて……ねっ?」


 慌ててカーディガンを羽織り、痣を隠す。しかしマムートはその腕を引くように、袖口に噛み付いた。


「マ、マメタ!?」


 急に知らない犬になってしまったように思えて、ムギは怯えた声をあげた。異変を察したワトゥマもやってきて引き剥がそうとするも、マムートは頑として牙を食いしばる。


「にに様! おやめください!」

「これはムギと俺の問題だ。口を出さないでくれ」


 低い唸り声の下で、マムートは言い放った。

 いつもは優しい兄に冷たくあしらわれたワトゥマは、たまらず部屋を飛び出していってしまった。


 一人と一頭になった部屋に、静寂が訪れる。

 マムートは少しだけ顎の力を緩めたが、依然として袖を放す気はないようだ。

 牙で縫い止められた袖口から、マムートの怒りが滲み出てくるようで、ムギは目を逸らした。


「お前、この頃ずっとそうだ。嘘くさい。俺の覚えたムギの匂いじゃない。なにを隠してる」

「マ、マメタが気にすることじゃないよ……。心配させてごめんね。でも、大丈夫だから……」

「俺には話せないことも、あの子供となら話せるからか? それとも、杖を預けたからか?」

「えっ――」


 的外れなようで鋭い、鼻のきくマムートにぎくりとする。動揺の匂いすら、嗅ぎ分けられてしまった。

 マムートはため息混じりに鼻を鳴らした。


「脱げ」

「えっ!?」

「この下に何か隠してるんだろ。見せろ」

「ま、待って!」


 マムートはぐいっと袖を引っ張った。ムギが咄嗟に抵抗すると、布地が引き裂ける可哀想な音がする。

 するりと袖を脱がせられるつもりでいたのに、思うようにできず、マムートは小さく唸る。そして瞬きする間に、獣人へ変化した。

 器用に動く両手を見つめ、ひとつ頷く。


「これでいい」

「なにが!?」


 マムートの手が伸びてきて、ムギは声を上擦らせた。

 カーディガンをかき合わせるムギの手を、マムートは払いのける。下心などない妖犬だからこそ、一切のためらいもない。


「ま、ま、マメタ……! 待ってってば!」

「いやだ、待たない」


 咄嗟に身を捩ると、寝巻きが肩をすべって肌が空気に触れた。痣があるのとは反対の左肩だが、真剣なマムートの視線が注がれていて、ムギは顔から火が出そうになった。


「こっちじゃないな。右腕も見せてみろ」

「わ、わかった……わかったから! 自分で脱ぐから少し離れて!」


 のしかかるように迫られて、とうとうムギは観念するしかなかった。

 ただ羽織りを一枚脱ぐだけなのに、淀みのない真っ直ぐな青年の眼差しに晒されて、居心地が悪い。

 今のマムートに言っても聞いてくれそうにないので、ムギは自ら背中を向けた。


 肌触りのいい上質な綿の寝巻きの上を、カーディガンはためらいながら滑り落ちた。静寂をふわりと包み込んで、寝台の隅っこから二人の行く末を見守る。

 右半身を隠すようにそっぽ向くムギを、マムートは力づくで向き直させた。このうえ往生際悪く引っ込めようとしたムギの右手も、逃がしはしない。


「なんだ、これ」


 マムートは息を飲んだ。

 薄布を重ね合わせた袖が、花びらのように柔らかく揺れる。そこから伸びるムギの華奢な腕には、恐ろしげな痣が浮いていた。

 蛇が這ったような赤紫の痣は、すでに手首に届きそうだ。ムギが今朝見たときよりも、浸食が進んでいる。


「なんなんだよ、この痣」

「わからないよ……」


 言葉を濁すムギに、マムートは問いかたを変えた。


「いつからだ」


 マムートの視線が痣の上を這う。ずきずきと刺すような痛みを覚え、ムギの手は震えていた。


「いつから隠してた」

「セリフィオラに来る、少し前から……」

「なにがきっかけで、こうなったんだ」

「夢で……うなされるようになって……」

「ムギが悪い夢を見るようになったのは、妖魔を退治してからだな? その痣は、蛇に噛まれたところから広がっている。そうだな?」


 ムギが黙り込むのを肯定と受け止めて、マムートは声に怒気を孕ませた。


「なんで黙ってた」

「……言えないよ」

「言えよ! 俺では、そんなに頼りにならないのか?」


 マムートの声には、責めるよりも悔しさが滲んでいた。

 ムギは目を伏せ、震える手を固く握る。


「言えるわけ、ないよ……」

「俺を庇ってできた傷が原因だからか?」


 ムギは小さく首を振る。

 確かに、庇われたことを負い目に感じてほしくなかったのが、一番の理由だ。だが、それだけではない。

 妖魔に噛まれた瞬間から、ムギの心にわだかまっていたものがある。


「わたしが……カポル畑でマメタに助けてもらったときに言ったこと、覚えてる? 自分を守れる強さを持つべきだ――なんて偉そうに言ったのに、ファムプールでのわたしはどうだった?」


 追い込まれたら、身を捧げてマムートを守ることしかできなかった。


「マメタはちゃんと考えて戦ってくれていたのに、わたしが先走って浅はかな行動をしたから、こうなったの……。呆れるでしょう?」

「そんなわけあるか。俺を見くびるな」

「でもっ……! 現にマメタとわたしの心は、遠くなっているじゃない」


 声に出した瞬間、ムギの胸の奥がきゅっと痛んだ。

 絆の手綱が短くなったぶん、物理的な距離は近くなった。だが、あいだに見えない壁が立ちはだかっているように感じられる。それこそが、マムートがムギに呆れ、怒っている証拠だとムギは思っていた。


 どこかで目を背けていたかったのに、言葉にしてしまったら、真実と認めなければならない気がして、ムギは唇を震わせる。

 マムートは、驚きに呑まれるように目を見開いたが、やがて絞り出すように口を開いた。


「俺は……何も変わってないぞ。ムギが勝手に壁を作って、俺から離れただけだろ」


 いつもの、ぶっきらぼうだが温かみのある声音ではなかった。

 抑えきれない苛立ちと、何かを訴えかけるような熱が混ざっていて、ムギの胸を貫いた。



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