聖女の暗躍
当然だが、魔法陣はただ無機質に浮かぶだけ――。ムギの幻が現実になることはなかった。
ひとの出入りが途切れない礼拝堂を突っ切り、告解の間も通り抜け、一行は神殿のさらに奥へと案内された。
応接室というよりは、少人数で集まって会議をするのに向いていそうな小部屋が用意されていて、なかでは二人の男性が待っていた。
五十代に差しかかった頃と見られる神官が一歩進み出て、一行を出迎えた。
「ようこそ、おいでくださいました。わたくしは、王都のノルフィディス神殿を任されております、アミゼルドと申します」
しっとりと落ち着いた声音とともに、金糸の刺繍が施されたローブの裾が静かに揺れる。品のある物腰と威厳をまとった姿は、神殿を束ねる者にふさわしい風格を感じさせた。
神殿長に続き、ロマンスグレーの髪を濃い紫のリボンで結わえた貴族男性が一礼する。貴族らしい品はあるものの、アミゼルドに比べると、やや威厳には乏しい。
柔和な雰囲気は共通しながらも、存在感に差がある二人だ。しかし、その顔立ちにはどことなく似通ったものがある。
「これはこれは、リッシェル公爵閣下。新年の祝賀会以来でございますね。ご壮健で何よりに存じます」
ローディスが大仰に礼を返し、侍従一同それに倣った。
――リッシェル公爵セヴナール・リッシェル。自身も敬虔な信徒であり、アミゼルド神殿長とは従兄弟の関係にある。
ヴァルド家が個人的な用向きで神殿を訪れるとあれば、三大公爵家としてともに名を連ねる身として、様子をうかがいにきても不思議はない。
ローディスからは事前に、その可能性を伝えられていたので、一人とて動揺せずに対応できた。
「先だっては、わたくしの軽率な振る舞いにより、ヴァルド家の皆様をたいへんお騒がせしてしまい……深くお詫び申し上げます」
セヴナールは眉を頼りなげにしょげさせる。
妖犬狩り騒動のときに、リッシェル家の遣いを見たのを思い出しながら、ムギは二人の会話が終わるのを息を潜めて待った。
「先日、御父君と対面いたしました際に、かの御方のご様子を伺いました。確か――ローディス様とはご学友の間柄であられましたな。もしや、近況をお伝えくださったのは貴方でしたか?」
「ええ。妖獣を伴い領地を散策していたところ、偶然お見かけいたしましたので」
「今はどちらにおられるか、ご存じでしょうか?」
セヴナールが、身を乗り出すように問いかける。ローディスは眉ひとつ動かさず、首を横に振った。
「あの御仁は風のごとく気ままな御方。今頃はどこかで、狩りでも嗜んでおられることでしょう」
「左様ですか……。ご健勝であられるならよいのですが――。王都へお戻りになることは、もうないのでしょうか。アリーシャ様も、ずいぶん寂しい思いをされているご様子で……」
「さて……。わたしも学友といえど、深い御付き合いがあるわけではございませんので――お力添えできず申し訳ございません」
ローディスもセヴナールも、どこか探り合いながら話している雰囲気があった。
ムギに貴族同士の会話はわからないながらも、引っかかる点がいくつかあって、上手に聞き流せない。どうも、ムギも知っている人物の話題のように聞こえて、そわそわしてしまった。
「立ち話もなんです。どうぞ、お座りください」
アミゼルドの声で、公爵家の二人は互いに一礼して話を切り上げた。
ローディスが着席すると、アミゼルドは改まって恭しく頭を下げ、本題を切り出した。
「伺っておりますのは、魔封じの修行と、武具の浄化のご相談でしたが……間違いございませんか?」
ローディスとワトゥマが、こくりと頷く。杖を抱えて後ろに控えたムギも、それとなく頭を下げる――麦穂の乙女と切り離すため、あくまで他人から預かってきたことにしてあるのだ。
「少々、杖を拝見させていただいても? ああ……、やはりこちらは解呪の術式から施しませんと、浄化は困難でしょう。解呪には細心の注意を要しますので、別室に専門の者を手配しております」
アミゼルドが手を打ち鳴らすと、女性の神官が入室してきた。
年齢は神殿長のアミゼルドよりやや年上に見えるが、体つきはずっとしっかりしている。神殿兵のような力強さと眼光を備えた、ジェゾとはまた違うタイプの雰囲気のある女性だ。
「〈聖別の間〉へご案内いたします」
体格のわりに、柔らかで高い声質を放つ彼女に従って、ムギは杖とともに退室する。マムートは当然として、ムギの警護を言いつかっているジェゾもあとに続いた。
聖別の間の扉が開かれると、ほのかに清涼な香りが辺りに漂った。
窓から差し込む光が、床に刻まれた繊細な模様を淡く照らしている。模様を描く溝には、絶えず聖水が循環するように仕掛けがなされているが、水の巡る音はほとんど聞こえない。
空間全体が穏やかな気配に包まれ、部屋そのものが清められているのをムギは肌で感じた。
身を引き締めて、進められた椅子に腰掛ける。
うっかりすると、癖で内股に脚を閉じてしまうので、すかさずマムートがムギの膝のあいだに陣取った。はっとさせられたムギは、拳を握って膝に置くと、きびきびとした仕草で担当神官に杖を差し出した。
杖を手にした女性神官は、時折り聖水を振りかけたりしながら、穢れを受けたときの状況などを詳しく聞き取った。伝聞というかたちで答えなければならないため、ムギは慎重に言葉を選ぶ。
やがて検分を終えた神官は、机にそっと杖を横たわらせた。ふうと一息ついて、優しい声で語りかける。
「珠に閉じ込められた念からは、非常に強い波動を感じます。これを浄化するには、ひと月ほどお時間をいただかねばなりません」
「そんなに……!」
「ええ。それほどに強い……欲の思念です。他にもたくさんの念が封じられていたようですが、いまはすべて、この欲望に喰らい尽くされてしまったようですね。まるで意思を持ち、力として取り込もうとしているような不気味さを感じます」
闇のなかで蠢く蛇の影がちらつき、ムギの右腕にずきずきと痛みが走る。
「わたくしも、触れていて引きずり込まれそうになるほどでした。こちらの杖を普段お使いになっているかたは、ご不調を訴えてはおられませんでしたか?」
マムートとジェゾの視線にぎくりとしながら、ムギは知らぬふりを通した。そのうえで、ひとつの気掛かりを、神官に尋ねてみる。
「もし、持ち主になにか異変が起きていたとして……。杖を神殿に預かっていただき、浄化が進めば……そちらも自然と解消されるのでしょうか?」
「ご本人とお会いせずに、安易にお答えすることは、わたくしの本意ではございません」
じっと見つめられると、この場で右腕のことが露見してしまいそうで落ち着かず、ムギは瞳を伏せた。膝のあいだから、マムートが訝しげな視線を送っていて、握った拳にじっとりと汗が滲む。
「ご心配ごとがございましたら、ぜひご本人様をお連れになって、改めてご相談くださいませ」
「も、もしもの時は……そうさせていただきます!」
もしも、を強調してムギは深々と頭を下げた。
◇ ◇ ◇
杖を預けるために必要な手続きを進めていると、聖別の間の扉が静かに開かれた。
入室してきたのは、神殿前の広場で見習いの子に付き添っていた神官の一人だ。
「失礼いたします。こちらのお方を、少々お借りしてもよろしいでしょうか」
この空間においての主と等しき女性神官の了承を得ると、彼はムギを部屋の外へ促した。
「お待ちください」
ジェゾが一歩踏み出し、神官の前に立つ。控えめながらも、ヴァルド家に仕える侍従として、その名に劣らぬ堂々たる振る舞いだ。
「そのものは、まだ屋敷に上がったばかりの新人です。ご用件なら、彼を指導する立場にあるわたくしがお伺いいたします。なにかございましたか?」
「なにかというほどのことではございません。先ほど広場でお世話になった神官見習いが、とても喜んでおりまして……」
神官は柔らかい笑みを浮かべながら、ちらりとムギに視線を送る。
「熱心に話を聞いてくださった貴方様に、もう一度お礼を伝えたいと申しております。少しのあいだ、お時間を頂戴できればと」
「それでしたら、礼には及びません。わたくしたちも、小さな神官様の姿に目を楽しませていただきました」
ジェゾは神官から目を離さずに返す。ムギを守るのがいまの彼女の役目だ。
しかし神官もなかなか引き下がらなかった。
「決して長くは引き止めませんし、無理をお願いするつもりもございません。ただ、どうか……見習いのささやかな願いを、聞き届けてはいただけませんでしょうか。祭りのために、一生懸命に練習を繰り返してきたのです」
あくまで穏やかに、礼を失しないように話す神官こそ、一生懸命に見える。
ジェゾはしばし考え込んだ。話に不審な点はなく、逆にこれ以上ジェゾが頑なになるほうが、ムギの素性を怪しまれかねない。
葛藤を察したマムートは、ムギの足元に寄って、ジェゾを見上げた。凛々しい瞳は「俺がいる」と無言の意思を示していた――。
***
ムギとマムートは、神官に従って歩くうち、神殿の外へ出ていた。
見習いの子たちは離れにでもいて、聖歌の準備をしているのかもしれない……などど、このときはまだ、わくわくしていられたのだが――。
神殿までの道すがらに見た河沿いに連れ出され、渡し船に乗せられた瞬間、高揚感は一転――頭に警鐘が鳴り響いたが、もう遅い。
川面を滑り出した船は止まらない。熟練の船頭による櫂さばきで、ぐんぐんと推進力を上げ、セリフィオラの街を突き進む。
やがて、いくつも見かけては通り過ぎた船着場のなかでも、極めて立派な作りの渡し桟橋のたもとで船は停まった。
「おい、どこまで行くつもりなんだ」
警戒する二人を宥めはしても、肝心な説明はないまま、神官は「こちらへ」と手招くばかりだ。
「ど、どうしよう……」
「いまはおとなしく従ったほうが、よさそうかもな。街路に出れば、もっと人の目がある。それに相手は神官なんだ、おかしな真似はできないはずだ」
「そ、そうだよね……」
小声で話し合って、なにかあればお互い持ち前の脚力で逃げようと決めた。
そして二人が辿り着いたのは――。
白亜の石造りが美しい優雅な城だ。
高くそびえる塔は、空に近づくほどに淡い青色を帯び、光を受けた城壁が柔らかな輝きを放つ。
古来より街を見守ってきた巨木を城門前に残した姿は、威厳よりも調和を重んじたマリエルを象徴しているかのようだった。
ここは、ノルファリアで最も高貴な方々の住まう王城である。
「ええええ! な、な、なんで……!?」
「ふむ、神官見習いは城で勉強するものなのか?」
「そ、そんなことはないと思うよ!?」
戸惑っているあいだに、次々に取り次ぎがなされ、通用門のひとつから城内へと招き入れられた。
人払いのされた回廊に、戸惑いも露わな息づかいが響くようで、ムギは息もできない思いがする。
逃げ出すにもどうしたものかと苦慮していると、先を行く神官がようやく足を止めた。
神殿のレリーフが掲げられた扉を、神殿兵と王城の衛兵が二人ずつ並んで守っている。彼らはムギたちを一瞥すると、周囲への警戒を強めながら観音開きの扉に手をかけた。
神官は、ムギになかへ入るよう促しながら、背後に立って退路を断つ。
後に引けず、恐る恐る歩を進めると、聖別の間で嗅いだのと同じ清涼な香りに身を包まれた。香りとともにムギたちを閉じ込めるように、背後で扉が閉まる。
「ご足労いただいて、申し訳ございません」
鈴を転がす声に飛び上がり、ムギは室内を見回す。
白を基調とした調度品が並ぶ、光に満ちた部屋の窓辺に小さな後ろ姿があった。
小柄な影は光を背に、ゆっくりと振り返る。逆光に浮かぶ姿は、どこか現実離れした雰囲気があって――ムギは思わず息を呑んだ。
生花をあしらった藤色の髪を揺らし、ムギに向き直ったのは、年端もいかない少女だった。
少女はふわりと広がったドレスの裾をつまみ、軽やかに膝を折る。
「申し遅れました。わたくし、リリベル・アイリス・ジュノーと申します」
「えっ!!」
伏せた顔が上げられ、ターコイズブルーの瞳とムギの視線がぶつかった。
「あっ、あなたは……まさか!」
見聞きしたものをなんでも吸収しそうな瞳は爛々と輝き、ムギの動揺さえ楽しむかのようだ。
「あるときは神官見習い。またあるときは、この国の聖女と呼ばれております。どうぞ、よろしくお願いいたしますね」
リリベルは愛らしく小首を傾げ、ムギに微笑みかけた。
三章一話 終
二話「変わりゆく世界」に続く。




