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獣人の消えた都


 ファムプールの朝に汽笛を響かせた船は、夜を越え、セリフィオラの朝靄のなかへ滑り込んだ。

 夜通し揺れ続けた船がしだいに速度を落とし、甲板には寄港準備に追われる船員たちの声が響く。


 南洋の風を強く受け、湿潤で温かな空気に包まれたこの地が――ノルファリアの王都セリフィオラだ。

 日に灼かれた船着場は、幾千の船客でごった返す。そんな熱気のなか、涼しげな顔で降り立つのはローディスだ。前方にナルス、左右をヴィゴー、ワトゥマで固めて、颯爽と馬車乗り場へ向かう。

 その後ろをぞろぞろとついていくのは、従者の一団だ。王都屋敷に勤める使用人らと合流するため、イローネの城からは侍従侍女ら五十名が派遣された。

 その隊列のなかほどに、ムギはいた。


「や、やっぱり変じゃないかなぁ……」

「そんなことはない。ワトゥマも目を輝かせていたじゃないか。よく似合ってるぞ」


 マムートはとことこと歩きながら、ムギの姿を見上げ、安心させるようにうなずく。

 賢く意思の強そうな黒目には、いつもと違う装いのムギが映っていた。

 肩につく空色の髪は後ろでひとつに結わえられ、仕立ての良い詰襟の服が、華奢な身体を包む。

 四方を囲む侍従たちと同じお仕着せだ。


 これが――ヴァルド家総力あげた「麦穂の乙女目隠し作戦」である。

 ローディス発案の作戦はなかなかに愉快なもので、ムギを侍従見習いの少年に仕立ててしまおうというものだった。


 ぴっちり分けた前髪に縁取られた剥き卵のような額には、いつもの頼りなげな眉はない。きりっと凛々しい眉山を描き、口を真一文字に引き結べば、ムギのふわりとした雰囲気も影を潜めた。

 しかし、穏やかな人柄を滲ませる海色の瞳は、都の活気に気圧されて、おどおどと揺らいでしまう。

 しゃんとしてさえいれば完璧に変装できているはずなのに、どこか儚げな雰囲気を拭いきれないのがムギらしい。


「うう……付け焼き刃にもほどがあるよ……」

「ええ、その通り」


 ムギの背後でジェゾが囁く。


「ですから、無理にそれらしく振る舞う必要はございません。背筋を伸ばし、胸を張るだけで十分です。さあ、しっかり前を向いてください」

「は、はいっ」


 大先輩の言葉に、飛び上がる勢いでムギは姿勢を正す。

 その日は、祭り見物をすることもなくまっすぐヴァルド家の屋敷へ向かった。

 お世話になる方々にもろもろの挨拶を済ませると、ムギは与えられた部屋で襟のボタンを外し、緊張の糸を解いた。



 ◇ ◇ ◇



 一夜が明け、生気を呼び覚ます光が窓辺を照らす。

 夜詰めのものと入れ替わりに働き始めた使用人たちの気配が、しだいに屋敷に満ちていくのを感じながら、ムギは身支度を整えていた。

 衣装棚には、昨日と同じ詰襟の制服が掛けてある。シャツに袖を通しながら、鏡を覗き込んだムギはぎくりとした。


(また広がってる……)


 はじめは小さな虫刺されのようだった痕が、この数日で右肩から肘の下にまで侵食を始めている。赤紫色をしたみみず腫れのようで、見た目に気持ちのいいものではない。

 ムギはそっと袖を引っ張って、手首のボタンを止める――。

 セリフィオラの夏は長い。半袖で過ごしたいくらいの陽気だが、格式を重んじた制服が今のムギにはありがたかった。

 襟元を正し、結んだ髪を整え、そっと息を吐く。胸の隠しには、ヒポグリフの手帳と筆入れを忍ばせた。


「……大丈夫。きっと、大丈夫だよ」


 杖を手に衝立の陰を出ると、マムートとワトゥマが大きく尻尾を振ってムギを出迎えた。二頭を伴って、階下へ向かう。今日は朝食を終えたら、神殿へ向かう予定だ。


 玄関ホールではすでに、神殿へ向かう準備が整えられ、最終確認を怠らないローディスの姿もあった。並びあったときのヴィゴーの顔映りが悪くなるからと、日傘の色を変えるように指示している。

 日傘が必要なのは、徒歩で神殿を目指すためだ。



 ***



「まぁああ! すごいですの! わくわくしますの!」


 ワトゥマの歓喜の声が上がる。

 王都は、収穫祭の真っ只中――。小さい村や町と違い、まるまる一ヶ月をかけて収穫を祝う。ノルファリア全土から見物客がひっきりなしにやってくる、セリフィオラで一番賑やかな季節だ。

 緑に青、白のリボンを結った飾りが揺れる大通りには、所狭しと屋台が並ぶ。香ばしい香りにつられた人々が列をなし、さかんに声が飛び交っていた。


 果実酒の甘い香りに混じり、陽気な音楽が風とともに運ばれてくる。広場の一角で、芸人の一座が歌劇を披露しているところだった。

 ワトゥマが興味津々で尻尾を振る。


「少し観ていっても、約束の時刻までたっぷりある」


 ローディスの一言で、侍従たちは素早く動いた。ムギも慌ててそれに倣い、空いている座席の一角に敷物を広げた。


「ど、どうぞ、ご主人様っ」

「うむ、ご苦労」


 ローディスの機嫌は昨日から上々だ。

 こうして祭り見物をしながら神殿へ向かっているのも、なにも馬車が使えないからではない。王都が初めてというワトゥマを、彼自ら案内したいと言い出したからだ。

「麦穂の乙女目隠し作戦」の一環で、屋敷の外ではワトゥマはローディスの犬ということになっている――それで、彼はとても気分がよかったのである。


 舞台上では役者が歌い、舞う。愉快痛快な喜劇に、観客たちの反応も良い。

 燦々と降る陽射しのなか、喝采をあげていれば欲しくなるのは冷たい飲み物だ。

 幕間の頃合いを見計らって、水売りが座席を回る。冷却効果のある鉱石をくり抜いて作った樽には、果汁入りの炭酸水が満たされている。観客の手が次々に上がった。


 楽しげな雰囲気に、ムギの胸もわくわくする。

 だが一方で、物足りなさも感じていた。確かに人出はあるのだが、ムギの思い描くセリフィオラの祭りに、肝心なものが欠けている。

 物足りなさの正体にムギが気づくのと同時に、そばを通りがかった男の子が舞台を指差した。


「お母さん。今日も獣人の旅芸人は来ないの?」


 母親は人目を気にしながら、男の子の腕を引く。


「そんなこと、口にしちゃいけません」

「どうして? だって、あんなに楽しかったのに。ぴょーんって高く飛んで、くるっと回る軽技また見たいよ。去年も今年も来ないなんて、つまんない!」

「こ、これっ……およし! 獣人は悪い生き物なんだよ」

「なんで? お母さんはなにかイヤなことされたの?」


 母親は答えに詰まったようだった。逃げるように、子供の手を引いてその場を去っていった。

 ムギはうつむいて、ぎゅっと拳を握った。


 王都はもともと獣人たちの多い街だった。商人として、職人として、旅芸人として、さまざまな獣人がこの地で暮らし、祭りを盛り上げてきた。

 マリエルの手記が公開されて以来、蔑視の目に晒され、彼らは少しずつ街を離れていったのだ。

 こうして観劇席が空いていること自体、これまではなかったことだ。


 まもなく始まった後半の演目にもまったく集中できず、ムギがうつむいていると――。


「おい、そこの見習い」


 ローディスの声で、ムギは顔を上げる。目の前に、果汁水で満たされた木のカップが差し出されていた。


「王都の祭りは、貴様の肌に合わぬらしい」

「い、いいえ! そのようなことは……!」

「退屈で仕方なかろう。ならば仕事をくれてやる。そら。貴様が毒味したまえ」

「えっ」


 高貴な御仁は、下々の食物をおいそれと口にできないのは本当らしい――そんなことを思いながら、ムギはカップを受け取る。しかし戸惑いは隠せず、視線を泳がせた。先輩従者のジェゾたちは、ただうなずくだけだ。

 マムートは主人を侮られた気分で、かっと頭に血を昇らせた。それをナルスが、大きな前足でそっと押さえ込み、耳のそばでささやく。


「お静かに。ご主人様は、麦の君の顔色が優れないのを気にかけておられるのです」


 ローディスは素知らぬふりで舞台に向き直ってしまったが、その隣でワトゥマはにこにこしている。

 気遣いが本当だと言うなら、なんと分かりにくいのだろうとマムートは呆れた。第一、肝心のムギに気持ちが伝わっていないようでは、気遣いになっていない。

 マムートがちらりと見上げると、ムギは真っ青な顔で木椀の中身をじっと見つめていた。


(お毒味って、どれくらい口に入れるのかな……。飲み過ぎたらご主人様に失礼とか、そういうマナーはあったっけ? 何ミリ? 何ミリリットルまでが毒味の範囲ですか? あれ? というか、そもそも口を付けていいの? なにかスプーン的なものとかは? なんでいきなりこんな……はっ! もしかしたらローディス様は、目隠し作戦の陰で、わたしを亡きものにしようと……? ま、まさか本当に毒入り……?)


 ごくり、とムギの喉が鳴る。

 きっとまたいらないことを考えているに違いないと、マムートはこちらにも呆れてため息をこぼした。

 ムギのふくらはぎを、濡れた鼻でちょんちょんとつつく。


「ローディスは一杯飲んでみて、腹の膨れ具合まで教えてほしいみたいだぞ」

「そ、そうなの? だったら……。不肖ながら、この見習いめ、お毒味いたします!」


 いかにも新人らしい力みを見せて、ムギはカップをあおった。下手な演技よりも、よほど説得力がある。

 ローディスの真意は伝わらないながらも、喉を滑り降りた爽快な喉越しに目を輝かせるムギに、マムートもどこかほっとした。


「南方らしい濃厚な果実の甘さと、きめ細かな発泡感がとても相性がいいです! 薄荷水も混ざっているのでしょうか。甘さのわりに後味がすっきりとして、二口目も新鮮に味わえます」


 ムギの真剣な食レポを、侍従たちは微笑ましく眺める。

 ローディスはふんと鼻を鳴らして、新たに買い求めてきた果汁水をジェゾから受け取った。一口含んで、舌で転がすように時間をかけて飲み込んだ。


「うむ……、この味は変わらぬな――。学院にいた頃は、祭り見物をしながら友らと飲んだものだ。舞台に飛び入りで参加するような輩もいて……そう、種族など関係なく、楽しんだものだ」


 広場からでも見えるフェイリッド学院の尖塔を眺め、ローディスは口元を緩めた。

 しかし横顔には、届かないものを見つめるような寂寞と焦燥が滲む。

 ローディスにシンパシーを抱きながら、ムギは彼の目に映るかつての王都を思い描き――服の上から手帳を撫でた。



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