暗雲
唐突に決まった王都行きに、ムギは期待もありながら、漠然とした不安を覚えてもいた。
(聖女リリベル様……は、奇跡を起こしたあと、神殿で保護されているんだっけ)
ムギの物語に聖女の存在はないが、聖女と神殿がセットメニューになるあたりに、異世界ファンタジーの王道を踏襲した世界らしさを実感する。
女神はリリベルに会え、とムギに告げた。一方で、自身の不干渉を改めて明言していたのだが――。
(これじゃまるで……お膳立てされているみたいに……)
王都へ行けば、ムギはリリベルとの邂逅を避けられない――そんな予感にこぼれたため息で、手燭の火を吹き消す。
灯りを落とした部屋は、窓の外の月明かりをよく誘い込んだ。ほのかな明るさを頼りに、疲れた体を寝台まで運ぶ。
ワトゥマはもう、寝台の頭のほうで丸くなり、ムギの枕になるのを待っている。マムートだって、ムギが布団に潜ったらすぐ、脚の近くに丸まった。
愛しい温かさに触れて、ムギもそっと目を閉じる。
どうか五日後の船出に、良い風が吹きますようにと祈りを込めて――。
ファムプールの波音に、ゆっくりと意識が沈んでいく。くたびれた体が現実から解放されて、深く深く……夢のなかへと潜り込む。
気づけばムギは、星もない真っ暗な闇のなかに、ひとりぽつんと佇んでいた。
「あ、あれ……? ここ、どこ?」
未知の恐怖に身を縮こませながら、あたりを見回すもひとの気配はおろか、マムートたちの息遣いも感じられない。
じっと佇んでいると、前方にぼんやりとした明かりが灯った。
ごくり――。緊張を飲み込んで、ムギは勇気の一歩を踏み出した。
近づくにつれ、明かりの正体に気づき、ムギの鼓動は大きく跳ねた。
「これ……わたしの……」
暗闇のなかに、ムギが執筆に使っていたノートパソコンが浮かんでいた。スリープモードに設定した動物の赤ちゃんの画像が、触れられるのを待つかのように、ムギをじっと見つめる。
恐る恐るキーボードに両手を添えると、馴染んだ感覚が指先に蘇った。パスワード「6969o2」を、指が勝手に打ち込む。
開かれたデスクトップに、ショートカットで貼り付けられた「エンシェンティア」の文字を目にした途端、マリエルやレックス、マメタたちと過ごしたエンシェンティアでの日々が思い出され、嬉しいような寂しいような思いに胸を締め付けられた。
「そ、そうだ……。ここがどこであれ……わたしの物語が書き変わっているのかは、確かめておこう……!」
涙を拭い、テキストファイルを開く。すると――。
突然、パソコンがフリーズし、強制的にシャットダウンされた。あたりは再び闇に包まれ、ムギを寄るべのない不安が襲う。
永遠にも思えるような数秒のあと、ふぅん……と子犬が鳴くようなどこか切ない音を立てて、パソコンは再起動を始めた。
再び明るくなった画面には、使い慣れた「一郎太」のソフトウェアが開かれていた。
戸惑って見つめるばかりのムギの前で、真っ白なページに文字が浮かび始める。
『マムートを生存させて、そのあとは?』
『やっぱり恋もさせたいよ』
『誰と? 犬?』
『そこはやっぱりご主人様でしょう』
チャットのように、文字列は次々と浮かんでくる。
『NL前提なら、ご主人様は女の子だね』
『えー、恋愛絡めるの決定なの? 朴念仁なところがいいって納得したじゃん』
『朴念仁だからこそのギャップ。ジレジレ。エモ』
『てかさ、犬と人間女子の恋愛って、そもそもハードル高すぎw』
『なら、マムートはヒト型になれるようにしたらいいんじゃ?』
『イケメン?』
『イケメン』
『『『 採用 』』』
タイプされていく文字なのに、ムギには妖魔との戦いで聞いた声で読み上げられているように感じた。
「なに、これ……なにこれ、なにこれ……!」
夢中でバックスペースを押す。軽く叩いただけでは消えない。ムギのキーボードのバックスペースは少し壊れかけていて、長押しするように強く押し込まないと反応しないのだ。その癖も、ムギの指は覚えていた。
強く、強く、押し込む。だが、不気味な会話は止まることはない。
ならば別の手段で止めるしかないと――ムギはキーボードを叩いた。
「そんなの違う! わたしの書きたい物語じゃない。わたしのマメタはイケメンじゃなくたって、最高にかっこいい子なの!」
いくら叫んでも書き殴っても、ムギの主張は画面に介入できなかった。がむしゃらにキーボードに指を滑らせていると――。
「痛っ――!?」
不意に鋭い痛みが右腕を刺し、ムギは弾かれるように目を覚ました。
薄闇に揺れる天蓋が目に入った。荒い息で上下する胸を押さえて、ムギは飛び起きる。
月明かりが静けさを際立てるなか、ワトゥマは枕元で丸まり、マムートも足元で穏やかな寝息を立てていた。夜はまだ深い。
「ゆ、め……? うっ……!」
ムギは右腕を押さえ、折れるように身を屈めた。
二の腕がじくじくと痛む。熱を持ったように、腕が重いのに、冷たい何かが巻き付いているような違和感があった。
なにかにじっと見つめられる気配を感じ、ムギは恐る恐る視線を右腕へずらした。
そこにいたのは、真っ黒な影。蛇の形の影が、ムギの腕に絡みついていた。
「――――!!」
凍りついて声にならない叫びをあげる。
すると影は、まるで生きているかのようにするするとムギの腕から離れた。這うように消えるのは寝台の脇。そこには、真っ黒に変色した珠を掲げた杖が立てかけられていた。
ムギはマムートたちを起こさないよう、息を潜めて朝を待った。
杖から一瞬たりとも目を離せず、水平線から太陽が昇るころには、すっかり目が赤くなっていた。
げっそりしたムギの様子を、妖犬たちは敏感に察し、心配そうに頬を寄せる。
「ちょっと夢見が悪くて……。でも大丈夫だよ、お散歩には行くからね。わたあめちゃんは、また水をお願い」
「行ってきます、ですの!」
「マメタは……」
「ああ。あっちにいるから、慌てないで支度してくれ」
マムートは物分かりよく、衝立の陰に移動する。
どうにかやり過ごせたことに安堵して、ムギは寝巻きを脱いだ。
腕の痛みはすっかりないが、蛇の這った感触が忘れられず、粟立つ肌を撫でさする。ちょうど妖魔に噛まれたところだったので、ムギは恐ろしくなり朝日のもとに腕を晒した。
そこには、ぽちりと小さな虫刺されのような痕があるだけだ。触れてみたが、痛くも痒くもない。
(気にしすぎ、かな……?)
気にしすぎなところがムギの悪い癖であり、同時に身を守るすべでもある。
変化があればすぐに気づけるよう気に留めておくことにして、この朝はブラウスに袖を通した。
ところが、この日を境に蛇の影は夜ごと現れるようになり、責めるようにムギの腕に絡みついた。絡みつかれると、必ず傷痕が疼く。
最初は小さな痕だった。
しかし三日もすると赤紫に腫れ上がり、ムギの腕を這うように触手を伸ばし始めた。長いものは、肩に届くほどに広がっている。
鑑定眼では「呪い:痣が全身に広がると、?????」の部分しか判別できず、不安ばかりが募った。
痛みはないものの、ずん……と肩が重い。おまけに寝不足も手伝って、ムギはすっかり疲弊していた。
しかし誰にも知られるわけにはいかなかった。――特にマムートには、絶対にだ。
知れば彼は、妖魔から庇われたことを結びつけるだろう。そうなれば、要らぬ後悔を植え付けてしまう。
だからムギは、傷痕を隠すように袖のある服ばかりを選んだ。わけあって、ジェゾたちが着替えを手伝いに来ることもあったが、どうにか理由をつけて一人で着替えをさせてもらった。
そしていよいよ、王都セリフィオラ行きを翌日に控えた晩。ガイアスがムギを食事に誘い出した。




