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麦は踏まれて育つ


 住民が倒れたファムプールは、当然ながら港街としての機能が滞っていた。いま街を支えるのは、ケルンをはじめとした近隣の町から集まった支援の手だ。

 彼らのなかには最初の数日間、カーミング邸に出入りしたものもいる。そこでファムプールの悪夢の経緯が知れることとなったのだ。


『ファムプールを悪しきものから解放したのは、若い娘だ』

『身を挺して街を守った健気な少女だ』


 当の娘は一般市民で、静養中の体に障るから騒ぎ立てないように――と、公爵家から御触れはあったものの、ひとの口に戸は立てられないものだ。

 まして妖犬を二頭連れた、空色の髪の娘となったら、ローディスの意中の人物だとの噂が立ったばかり。公爵領の人々の関心が向かぬはずはない。


『ローディス様の心を射止めるだけあって、器が違う!』


 未来の公爵夫人が領民に手を差し伸べたのだとの尾ひれつきで、まことしやかに囁かれている。

 ヴァルド公爵家が躍起になって火消しに走るほど、信憑性が増してしまうのだから皮肉なものだ。


「だけどそれにしたって……麦穂の乙女なんて呼び名はどこから……」


 ローディスが呼んでいるからだろうが、そもそもなぜそう呼ばれているのかをムギはいまだに知らない。

 自分が呼ばれている実感も薄いまま、逃げるように散歩をしていると――。


「麦穂の乙女は、ファムプールで奇跡を起こす以前に、ユナでも事件を解決しているんだ! 俺はその奇跡を目の当たりにした!」


 聞き覚えのある声がして、ムギははたと声のありかへ足を向けた。

 広場に集まった子供らに、カポルの実を配りながら生き生きと演説する若者がいる。


「しかし……乙女のなんと謙虚なことか! 手柄を驕らず、褒美も取らず、名を名乗ることすらせずにユナの町に頭を下げて去ってしまったんだ。その姿はまさしく! ノルファリアに実りをもたらす麦が、こうべを垂れる姿によく似ていた!」

「だから麦穂の乙女様なんだね!」

「そうだ! そしてなにを隠そう、この俺が……麦穂の乙女の名付け親だぁあ!」


 青年が声高に宣言すると、子供たちからは大きな歓声が上がった。

 覚えがあるのは、声だけではない。こめかみに浮いた神経質そうな青筋にも、ムギは見覚えがある。


「ヤ、ヤックさん!?」


 ユナの町長の息子である。

 再会するとも思っていなかった彼の口から、通り名の真相が明かされようとは、まったくもってムギの予想だにしないところだった。


「な、な、なんでここに……それにその呼び名は、ヤックさんが広めていたんですか!?」

「ああ、そうさ! なかなかいいだろ?」


 すっかり毒気が抜けた様子で、ヤックは白い歯を覗かせた。

 ファムプールの窮状を知るや、今季最後のカポルを荷車に積めるだけ積んで、馳せ参じたという。そして渦中の少女がムギと知るや、語り部よろしく麦穂の乙女の英雄譚を披露していたというわけだ。


「あ、あ、あ、あの……カーラちゃんのことはくれぐれも……」

「ああ、もちろん黙ってるって」


 さすがのヤックも、セイレーンを匿っていることは伏せてくれているようだが、ムギにしたら、まるっと口を噤んでいてほしいと思わずにいられない。


「あれから心を入れ替えて、獣人たちと改めて関係を築き直してるところだ。あんたには本当に感謝してるよ」

「いえ、そんな……わたしはなにもしていません」


 ムギが至極当然にそう答えると、ヤックは待っていましたとばかりに膝を打った。


「見たか!? これが麦穂の乙女様だ! とても慎み深いかたなんだ!」

「すげー!」

「素敵ー!」


 まるで自分のことのように、ヤックは堂々と胸を張る。聖女といい、ムギにといい……なにかしらの存在に傾倒しがちなヤックが、ムギは心配になってしまった。


「まずあいつ自身が、慎みを持つべきなんじゃないか」


 マムートまでもが思わず苦言を呈するも、興奮状態のヤックの耳には届きそうもない。

 ヤックの興奮ぶりに、ムギはもはや苦笑するしかなかった。これ以上ここにいると「ご本人から一言」などと求められかねない。早いところ退散するのが麦穂の乙女流だ。


「あのぉ……そろそろ行きますね」

「おう! 麦穂の乙女様がご出立だ。子供たち、しっかり見送るぞ!」

「おー!」

「で、ですからそれをやめてくださいってばぁ……!」


 逃げるように散歩コースに戻るも、数人の子供があとをついてきてしまった。

 落ち着いて散歩もできず困っていると、突然、民家の陰から手が伸びてきた。声も出せないまま、ムギは路地裏へ連れ込まれる。

 マムートとワトゥマは顔を見合わせ、さっと道を逸れた。

 それらはほんの一瞬のことだったので、子供らにはムギたちが魔法ででも忽然と姿を消したように見えた。驚きと感嘆を混ぜた声が、広場のほうへ戻っていく。


「……行ったな」


 民家の外壁にぴったりと背中を押しつけたガイアスが呟いて、ムギを捕らえた腕をほどいた。


「ぷはっ……! あ、ありがとうございます……助かりました」


 押し殺した息を吐き出して、ムギもほっと胸を撫で下ろす。

 いきなり引き摺り込まれた瞬間は驚いたが、助け舟を出してくれたのだと察したムギは、悲鳴を飲み込んで、ガイアスに身を任せた。それでマムートたちも、慌てることなく従ったのだった。


「まったく俺の小鹿さんときたら、すっかり人気者になっちまって。いつか手が届かなくなりそうだ」


 言葉こそ寂しそうだが、ガイアスの顔は楽しげに笑んでいる。その様子からするに、ずいぶん前からヤックの演説を聞いていたようだ。


「ちっとも笑えませんよぉ……」


 さめざめと肩を落とすと、ガイアスは優しい手つきでムギの頭を撫でた。

 慰めているつもりだろうが、最初のうちは放っておかれたとわかった今、ムギは少し釈然としない。口が尖りそうになるのを努めて抑えて、髪を整える。


「ところで、もう朝食は済ませたか?」

「いえ、まだ」

「なら……鈍った体を起こしがてら、一狩りどうだ?」


 街の外に見える森を示し、ガイアスは嬉々とした表情を隠しもしない。

 狩りへの抵抗は前よりも薄れてきたムギだが、彼と森に入るからには、それなりの覚悟が要った。護身術の実践だとかなんとか言って、獲物を狙う背後から、突然襲われたりするのだ。

 いつもなら、一度は弱音を漏らしてみるところだが、街から離れる口実にちょうどよかった。


 頭を下げるように頷くと、ガイアスは無言で歩き出したので、ムギもマムートたちもその後を追った。



 ***



 額に太いトゲを生やした一角猪(ホーンボア)は荒々しい息を吐き出す。まるで鎧を纏ったかのような硬い表皮に毛はなく、ムギのもふもふチャームも通じない。


 ムギが先か、猪か――。どちらかが視線を揺らがせば、命がけの狩りの始まりだ。

 視線のうえで、じりじりと火花が散る。

 額に浮かぶ汗が目蓋を濡らし、ムギが瞬きをこらえたほんの刹那――。

 一角猪が地を蹴り上げた。


 轟音とともに、木立が弾け飛んだ。

 猪の繰り出した突進をムギは反射的にかわし、妖犬たちが翻弄しながら罠へと追い込む。

 だが、獣も愚かではない。額のトゲを射出して仕掛けを破壊すると、角のぶんだけ身軽になった体を翻して、再び突進してきた。


 しかしムギも、すでに呪文を唱え終わって、反撃の姿勢に転じている。最初から、罠で仕留めるのが目的ではない……いや、それもまた違う。

 どんな状況でも、獲物を苦しめずに仕留める。それがガイアスの教え――狩人の矜持だ。


 ムギの指先が、鋭く振り下ろされる。次の瞬間、空を切り裂く雷が猪の脊柱を直撃した。

――バチンッ!

 空間に亀裂が入ったような衝撃音が、硬い表皮を打ち据える。一角猪はぴたりと動きを止め、力なく横倒しに崩れ落ちた。


 だが、まだまだほっとする暇はない。

 ムギの背後――森とひとつになって身を潜めていたガイアスが、いよいよ攻撃を仕掛けてきた。

 射った矢に見立てて投げ放たれるのは、木の枝だ。

 魔法を使えないことを前提にした訓練なので、体術を主体に攻防を繰り広げる。

 ムギが相手だろうとガイアスは容赦なく、投げ飛ばすくらいのことはする。ムギにも遠慮があった初めのうちなどは、青痣ばかり作っていたものだ。


 息が上がり、緊張の糸が身体中に巻き付いているように感じられるが、同時に住まいのある森に帰ったような感覚も覚え、ムギはようやく落ち着いて息をつける気がするのだった。



……

…………



「よし、今日はここまで。少し休憩してから帰るか」

「は、はいっ。お手合わせ、ありがとうございました……!」


 肩で息をするムギに、ワトゥマが水筒を差し出す。気が利くことに、果汁を絞って少し塩気を足した水が入っていた。屋敷の厨房で可愛くおねだりする姿を思い浮かべて、ムギは小さく笑う。

 こくりと喉を潤すと、汗でしなびた体に爽やかな甘みが染み渡った。


――きゅうううぅぅううん……。


 途端にお腹が空いてきて、ムギの空っぽの胃は切なく鳴いた。獣の声と勘違いしたマムートが警戒して立ち上がるので、ムギは恥ずかしくてたまらない。

 それでも腹は無慈悲に鳴り続けた。腹の虫を閉じ込めようと、ムギは膝を抱え直す。その鼻先を、ふわりと香ばしい香りがくすぐった。


 顔を上げると、こんがりと焼き目のついたナシュルが差し出されていた。蒸しパンのパシュルと違い、薄く手延べした生地を壷窯で蒸し焼きにしたものだ。具を挟んでパニーニのようにしたり、スープなどに絡めて食べられる。


「君のぶんだ。こっちは香辛料抜きの、妖犬用だ」


 ガイアスは有無を言わせず、ムギの手にナシュルの包みを押し付けた。まだほんのり温かい。

 香ばしい焼き目と、挟まれた肉味噌の甘辛い香りに、ムギはごくりと喉を鳴らすと、恥を捨てて頬張った。

 こってりとした脂の甘みを、山椒に似た風味のピリヒリカが引き締めて、飽きずにぺろりと食べられた。


「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです!」

「そうだろうな」


 ガイアスは小さく吹き出して、ムギの頬についた肉味噌を拭い取った。


「うそ……!? やだ、もう……」

「お気に召したなら、また作ろう。材料も調達できたことだしな」


 血抜きして横たえた一角猪に、ガイアスの視線は向く。

 昔のムギなら、現実を見てしまったら可哀想で食べられない――と思った。だがいまは、いただいた命に生かされているのだと、体を巡る血の熱さに教えられている。


「おいしい、と心から思えることが、彼らへの感謝になっているでしょうか」


 ガイアスは、いつになく真剣な眼差しで、穏やかな微笑みを傾けた。

 ムギの頭を撫でる手が、路地裏で触れたときよりもずっと優しく、温かだ。


「君の成長の早さには驚かされるよ。もう教えることはなにもない……なんて言う日も近そうだ」

「お、大袈裟ですよ……」

「いいや、俺にとっては大事(おおごと)だね。君が手を離れたら、俺がそばにいる理由がなくなっちまう」

(理由なんて……)


 いらないと口に出しかけて、ムギは水で飲み込んだ。

 なぜそんなことを考えてしまったのか、ムギが恥ずかしさに頬を染めていると、不意にほわりと温かい重みが膝の上にのしかかった。

 マムートがムギの膝に顎を乗せ、横目で見上げてくる。


「俺もいるぞって顔だな」


 肩をすくめるガイアスに、マムートは遠慮なく鼻を鳴らした。


「……そんなことより、杖の修理についてわかったことはないのか?」


 主人を誑かす悪者を遠ざけるように、自ら別の話を振る。

 ムギのそばに寝かされた杖は、妖魔との戦いの爪痕を刻むように、先端の珠が真っ黒に変色していた。魔力を溜める珠に封じられた無数の感情が、澱となってそこに留まっているのだ。


「まだ調べ途中だが、普通の武具屋じゃ無理だな。そいつには浄化が必要そうだ」

「浄化って……解呪のようなものですよね?」


 ムギは杖を手に取り、失われた輝きを求めるように撫でた。


「この子は、呪われてしまったんですか……。すみません、いただいたものなのに、大事にしてあげられなくて」

「そこまで言われるそいつは、じゅうぶん幸せものだよ。心配するな。武具の浄化に優れたものを、ローディス坊ちゃんが張り切って探してる。じきに知らせをもって現れるだろうよ」

「ローディス様が?」


 ムギのために動いてくれるとは、とうてい思えなかった。なにしろファムプールの件以来、麦穂の乙女にすっかり人気を食われてしまったのもあり、なおのこと面白く思われていないのだ。

 そのローディスが自ら動くとなったら……。

 ムギの視線に、ワトゥマは目をくりくりさせて首を傾げた。



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