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悩める小鹿


……

…………



 玄関ポーチに淡いグラデーションの煉瓦を敷いた、カントリー調の家の門扉には、カエルの置き物がちょこんとお座りしている。

 帰宅時は、このカエルに目を合わせて「ただいま」と挨拶するのが、大津家に住まうものの証だ。


 いま、玄関前に佇む青年は、カエルに「久しぶり。また来たよ」と言えるくらいの間柄だ。

 半年前の九月、大津家の長女が不慮の事故で他界した。あの事故がなければ今頃は、彼もカエルに「ただいま」と言えていたのかもしれない。


 アイアンフレームの取り付けられた明かり取りの奥で、人影が揺れる。ほどなく、キャメルカラーのドアの向こうから、四十代後半の女性が顔を出した。

 痩せた肩にかけた生成色のショールは、手編みらしい温かさがあり、穏やかな微笑みをより柔らかく引き立たせた。


「いらっしゃい。卓弥(たくや)くん。鍵は空いているから、どうぞ。入ってきて」

「お邪魔します」


 六条卓弥はぺこりと頭を下げると、大津家の門をくぐり、慣れた手つきで内鍵を掛けた。



 ***



 アパートの外階段から転落した婚約者――大津麦を失った日から、半年が過ぎた。

 卓弥は月命日には必ず休みを取り、彼女の実家に帰った遺影と位牌に手をあわせにきている。


 リビングの日当たりのいいところに飾られた祭壇には、娘が寂しくないようにと母のなぎさ手製の犬や猫の編みぐるみが並べられている。卓弥が目にする限り、いつ来ても埃ひとつなく、庭で咲いた花も欠かさずに活けられた明るい祭壇だ。

 遺影のムギも幸せそうな笑顔に、卓弥には見えた。少なくとも、空の上でそうあってほしいと願って手をあわせる。

 黙祷を終える頃合いを見計らい、なぎさがコーヒーを運んできた。


「新盆のご供養を済ませたら、お仏壇を用意しようと思っているの。麦も、ちゃんとしたお家があったほうが落ち着くものね」


 節目節目で娘を亡くしたことを実感させられると、なぎさは寂しそうに呟いた。ため息でくゆる芳しい香りが、卓弥のところにまで届く。


「ご法事は、いつ予定されているんですか?」

「七月のあたまに、夫婦だけで済ませようと考えているのだけれど……卓弥くんも、声をかけていいかしら。その後でまた一周忌もあるわけだけれど……」


 卓弥はなぎさに向き直って、頭を下げた。


「ありがとうございますっ。僕は、麦になにもしてあげられなかったから、せめて弔いくらいは……」

「卓弥くん……。あのね、気を悪くしないで、聞いてほしいんだけど……」


 コーヒーをテーブルに置いて、なぎさも祭壇の前に膝をつく。そして深々と、卓弥に頭を下げた。


「これで一区切りをつけて、麦のことは忘れてください」

「お、お義母さんっ……? どうしてそんなことを」

「娘を想ってくれるのは親としては嬉しいけれど、あなたには、まだこれからがあるでしょう? もう一度素敵なひとと出会って、家庭を持つこともできるの。麦に縛られずに生きていいのよ? そう、お父さんと話していたの」

「お義父さんが……?」


 娘が転落したのは、もしかしたら自分たちの話を聞いたからではないか――。責任を感じた父親の(こう)はあの日以来、卓弥を避けるようになり、たまに顔を合わせてもろくに言葉を交わせていなかった。


 卓弥は室内をぐるりと見回す。テーブルには、なぎさのマグカップと来客用のカップが並ぶのみ。(こう)が愛用している織部焼のマグカップは、洗ってキッチンに伏せられている。


「お義父さんは、いらっしゃらないんですか?」

「ええ、東北のほうに泊まりでね。S峠に行っているの」

「ああ、今朝のニュースでも触れられていました――あの土砂崩れ事故から、三年だって……。そうか、そちらに行かれたんですね」


 事故の一報が入ったとき麦と卓弥は、出張でS峠を通りかかった孝が巻き込まれたのだとばかり思って、パニックに陥った。

 幸いにして孝は無事だったものの、後続の大型トラックが巻き込まれ、運転手が犠牲となった痛ましい災害事故だった。


「お義父さんは、その後の救出活動にも参加されたんですよね」

「ええ。タイミングが違えば、土砂に埋もれていたのは自分だったかもしれないって……そうせずにはいられなかったのね。今日だって、娘の月命日なのに事故現場へ行ってしまうんだから……。でも、あのひとらしいでしょう?」

「優しいところが……本当にお義父さんらしいです」


 意外と涙もろかったり、押しに弱かったりと、彼の穏やかな人柄を卓弥もよく知っている。娘の麦も、優しすぎるくらいに心根が穏やかだった。

 卓弥はそんな二人を、どちらも――、等しく――、本気で――愛していた。


「お義母さん。さっきの話ですが」


 なぎさがしたように、卓弥も深く頭を下げた。


「申し訳ありませんが、麦を忘れることはできません。僕は麦の死に縛られているのではなく、ただあるがままの気持ちに従っているだけです。なんと言われようと、僕にとって麦以上の(ひと)はいないんです」

「卓弥くん……」

「籍も入れていないのに、図々しいと思われるでしょうね……でも僕は、お義父さんとお義母さんのことも、もう本当の家族だと思っているんです」


 卓弥はなぎさの手を取り、訴える。


「これからも一緒に、悲しみも喜びも分かち合わせてもらえませんか? それに僕は看護師なんで、お二人の老後もサポートできますよ」

「もう……気が早いわ、まだそんな歳じゃないわよ。やぁねぇ、卓弥くんったら、もう! ちょっと、ごめんなさいね……」


 なぎさは目頭を袖で押さえて、慌ててリビングを出て行った。洗面所からの水音が、すすり泣きのように響いてくる。

 卓弥はもう一度祭壇に手をあわせた。


(麦――。お義父さんは君を悲しませたくないから、俺と距離を置こうとしているんだろうけれど、大丈夫……俺はわかってるよ。優しくて、家族思いの麦なら、俺の決断を理解してくれるし、背中を押してくれるはずだって)


 遺影の恋人が、にっこりと微笑みかけてくれたように見え、卓弥は自信を持って大きくうなずく。


「約束するよ。お義父さんは、俺が必ず幸せにする! 大丈夫、お義母さんにも寂しい思いはさせないから。安心して見てて」


 卓弥は鞄から、一冊の本を取り出した。

 遺影の隣に、華やかな美男美女のイラストが目を引く表紙の小説が供えられる。

 文庫サイズにも関わらず、麦の笑顔もかすみそうな存在感だ。加えて「欲張りさんめ……」と書かれたピンクの帯の主張が強い。


 文豪風の怜悧な眼差しの紳士と、顔つきに青さの残る書生の若人のあいだに、それぞれの男性と指を絡めたヒロインが配置されている。

 そこまでは普通のティーンズラブ小説の表紙だが、ヒロインの背後で男性キャラクター同士も手を繋いでいる構図は、ボーイズラブ的展開を匂わせているようにも受け取れる。帯の文言を取るなら、愛の欲張りセットといったところか。

 いずれのキャラクターも着衣が乱れ、頬や肌に差した赤みも相まって、全体的にピンク色な印象の書籍だ。


「麦の好きな作家さんの本、書店で見つけたんだ。そっちで楽しめるように置いていくね」


 ()()()()()()作『大正パラレル恋絵巻〈書生の青い吐息編〉』の隣で、麦ははにかむように笑っていた――。








 ***







「わたしが好きなのは、()()()()()()先生だよ!」





 一番鶏をも差し置いたムギの寝言が、ファムプールの朝に木霊した。

 ひどい悪夢にうなされて飛び起きたムギだが、肝心の夢の中身は、夜の闇と一緒に朝陽に溶けて消えてしまった。

 なにかやり場のない腹立たしさだけは残って、すっきりしない目覚めだ。


 このところムギは、気持ちよく眠れない日が増えていた。なにかにうなされて目覚めた朝は決まって、蛇に噛まれた痕が疼くように痛む。

 ムギは右腕をさすって、妖魔との戦いを思い返し、小さく息をついた。ムギが目を覚ましてから、一週間が経つ。マメタの死亡フラグを回避できて万々歳のはずが、あの日以来ムギの頭はたくさんの心配事に支配されている。


「大丈夫か?」


 足のほうで、マムートがもそりと起き出す。


「また変な夢を見たのか?」

「ううん、覚えてない……けど、きっとそうなんだと思う」


 ムギは寝台を抜け出して、カーテンと窓を開ける。カーミング邸の客室からは、朝陽を受けて煌めく海が一望できた。

 しっとりとした潮風に鼻をひくつかせ、ワトゥマも揚々と起き上がる。


「おはようございますですの、ムギ様。お散歩に行きましょー」

「待ってね、すぐ準備するから」

「でしたらワトゥマは、お水の用意をしてきますの」


 言うより先に、器用にドアを開けてワトゥマは出ていった。持ち前の懐っこさで、カーミング邸の使用人も味方につけてしまったほどだ。じきに水筒を持って帰ってくるはずだ。


「じゃあ、わたしは着替えるから……」

「わかった。終わったら声を掛けてくれ」


 衝立の陰にマムートが見えなくなるのを確認してから、ムギは寝巻きを脱ぐ。


 これが、心配ごとのひとつだ。

 あれから手綱はますます短くなってしまい、どこへ行くにも何をするにもマムートがそばにいる。

 風呂に手洗いに……と落ち着かない思いがするのはもちろんだが、それ以上にムギは、マムートを気にして頭を悩ませていた。


 自由を奪われてしまったマムートに対して、妹のワトゥマはほとんど手綱が外れている。

 マムートにしたら不本意で、さぞやきもきしているだろうと思うと、衝立越しの無言の背中が苛立っているようにムギには見えた。


 そしてもうひとつ。ムギの悩みごとは、ファムプールの街にあった。


「じゃあ……行こうか」


 支度を終え、ワトゥマを伴ってカーミング氏の屋敷を出発する。高台からジオラマのように完成された街並みを見下ろしているあいだが、ムギにとっては癒しの時間だ。

 だんだんと街が近づくにつれて、足取りは重くなっていく。


「も、もう帰ろうか……?」


 通りに住民の姿を見つけた途端、ムギは逃げ腰で引き返そうとした。ところが、相手も同様にムギに気づいて駆け寄ってきた。いつかの猫獣人だ。


「あ! 麦穂の乙女様! おはようございます!」


 大きく振られる手と一緒に、尻尾もまっすぐ上を向く。嬉々とした彼の声につられて、次々と民家の扉が開いた。


「麦穂の乙女様がいらっしゃったの!?」

「本物だ!」


 通りはあっという間に、住民の歓声で埋め尽くされる。

 ムギはいまやファムプールでは、聖女に匹敵する有名人となっていた。



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