欲望の塊
「まだ……まだだよ」
ムギが震える声を絞り出す。
「そうです、終わらせませんの!」
ワトゥマは林檎の転がるほうへ、お尻を向けると激しく砂かけをした。
たちまち土が山となっていく。そこへやってきたのはマムートだ。
「ノルファリアを、妖魔の餌にくれてやるもんか!」
マムートは大きく飛び上がると、落ちる林檎を四肢でしっかりと捕まえた。
ワトゥマの作った土の山は、杯へと形を変えて、マムートを受け止める。
破裂は免れたが、林檎はマムートの腹の上で暴れ始めた。離してもらえないなら、その場で爆散しそうな雰囲気だ。
「バッドエンドになんて……絶対に、させないっ……」
ムギは杖を林檎に向けて掲げた。噛まれた腕の感覚がなく、杖の先が震える。
軽くて手に馴染む杖が、まるで棍棒のように重たくて、握り込めば握り込むほど照準が合わない。
冷たく震えるムギの手に、大きな手が重ねられる。ガイアスだ。
ムギが振り仰げば、彼の頼もしい笑顔がすぐそばにある。絶対に離しはしないと、手の温もりが教えてくれていた。
今度こそ、ムギはしっかり狙いを定めて杖の先に力を込める。
下手に攻撃すれば実は弾け、妖魔の子が解き放たれる。皆が固唾を飲んで見守るなか、透明の珠がほのかに輝き始めた。
魔力を溜められる珠の性質を利用して、ムギは林檎に蓄えられた養分を吸い上げた。妖魔を育む源を断ち、卵としての役目を終わらせるつもりだ。
思惑通り、珠へ光が吸収されるにつれて、林檎の実はしなびていく。
だが一方で、ムギの顔色は悪くなるばかりだ。
それもそのはず――実に蓄えられた養分は、人々の感情だ。
幾人もの様々な想いの奔流が、杖を伝ってムギに流れ込んでくる。心がばらばらになるようで、ムギ自身の意識は弾き出されそうだ。
特に好んで蓄えられた欲望の波動の、強いことといったらなかった。子供の純粋な夢のようなものから、目を背けたくなるような醜いものまで、すべてがムギに伝わってくる。
珠の色もだんだんと、透明から靄のかかった灰色へ濁り始めた。
遠のく意識のなかで、ムギは数々の声を聞いた。それは知らない声であり、どこか聞き覚えのあるもののようにも感じられた。
『マメタに生きていてほしかった――』
そのうちに聞こえてきた声に、ムギは強く意識を引っ張り上げられた。
『マメタならもっと、できたはずだ――』
(これは……誰……? わたしの声……?)
ファムプールの住民の思いであるはずがないことは、明らかだ。ならばこれは、いったい誰の、なんの声なのかムギは耳を澄ませる。
『むしろ庇われる展開はどうだろう』
『それが後にご主人様になる』
『そこから恋が始まるとかは?』
『ないない。マメタは朴念仁なくらいが可愛いんだよ』
概ね解釈が一致しているので、やはり自分の心の声なのだろうと、心で頷いていると――。
『でもせめて、名前はもう少し異世界風にひねってもよかったよなぁ』
『マメタ……マムツァ……マムートとか』
『お、なんかそれいい』
『じゃあ、わたあめはワターメ……ワトゥメ』
『マムートと音を揃えて、ワトゥマがいい』
『いいね、採用』
「えっ……!?」
ムギが考えた覚えのない、なんならこの世界で初めて触れた兄妹の名前が聞こえてきて、思わず声が転げ落ちる。
驚くあまり、ムギの集中がぷつりと途切れた。
途端に、水が低いところへ流れるように、感情の濁流が押し寄せる。
横っ面に一発喰らったような衝撃に襲われ、ムギはとうとう意識を手放してしまった。
「ムギ様!」
主人の限界を目の当たりにして、絶望感がワトゥマを襲う。もともとのストーリーでは、兄マメタを失って初めて抱く、強い感情だ。それがわたあめの成長を促し、不治の病を治せるほどの癒しの力を発現させるのだ。
いま、ワトゥマも同じように変わろうとしていた。
「ムギ様の頑張りを……無駄にはさせませんの!」
ワトゥマの真っ白な体が光り輝き、足元の地面まで明るく照らし出した。光は土を伝って、マムートを戴く杯をなみなみと満たしていく。
「にに様! 林檎をしっかりと光に漬けてくださいませ!」
「つ、漬ける……? こうか?」
仰向けで実を抱えていたマムートは、刺激を与えないようにそっと横向きになった。
光にひたされた林檎が、みるみる小さくなっていく。光のなかで蒸発するように溶けて、やがては完全に消えてなくなった。
ほうぼうで蠢いていた根も、蛇の妖魔も、跡形もなく消えている。
「ワトゥマ、いったいなにをしたんだ?」
「わかりませんの。ただ夢中で思うままに力を込めたら……なにやらできてしまいましたの! それより、ムギ様は……ムギ様はご無事ですの!?」
二頭が駆け寄るも、ムギのいらえはない。
薄闇にいるせいか、土気色に見える顔でガイアスの腕に身を預け、ぐったりとしていた。
ガイアスがムギを背中におぶって、立ち上がる。
「ここじゃ満足に診れない。街に戻るぞ」
「それなら俺がムギを連れて行く! こうなったのは、俺の責任だ」
足元から見上げてくるマムートの真っ直ぐな瞳を見据え、ガイアスは堅い表情を崩さなかった。
「わざわざ、もう一度獣人の姿になって、それでも俺より小さい君がか? 妙な意地を張るよりも、いま自分にできることをするのが先じゃないか?」
辛辣だが、マムートは返す言葉が見つからなかった。
ムギを助けたい。その一心で、入り組んだ地下隧道を、潮の匂いと音を頼りに先導して走り出した。
ローディスに先触れをもたらせば、すぐにムギを介抱できるはずだと信じて駆ける。しかし――気持ちは逸るも、ムギとを繋ぐ枷が絡んで思うより前に足が出ない。
そのうちに、ワトゥマに追い抜かされた。
「先に行きますの! ムギ様をお任せいたしますの!」
マムートは悔しさを犬歯で噛み締める。暗く狭い穴が、走れども走れども続いているようだった。
***
知らせに来たのがワトゥマだったことも手伝って、ローディスはすぐさまムギを受け入れる手はずを整えた。
カーミング邸に一室設けさせ、医学の心得のある侍従ジェゾをそばにつけると、蛇毒に効果を期待できる治療をすべて試みてくれた。
しかし、ムギは夜が更けても目を覚まさなかった。
マムートとワトゥマが一睡もできずに見守る傍らで、深い深い眠りに落ちていたのだ。
ムギが夢で訪れていたのは、いつか見た宇宙空間といったていの、だだっ広い場所で――、遠くで景気のいい当たり鐘が打ち鳴らされる音が響いていた。
近づきたくないはずなのに、まるで呼ばれているような鐘の音に、ムギの足は吸い寄せられてしまう。
終わりなき星の海をしばらく行くと、鐘を手にした人物が立っていて、虹色の瞳を細めてムギに微笑みかけてきた。
金糸の髪を踝まで垂らした、アール・ヌーヴォーな雰囲気の美女だ。
気まぐれな女神は、久しぶりに会った旧友に手を振るように大きく鐘を振り鳴らした――。




