本当の信頼。
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突発的に逃げ出したものの、ムギは早くも頭を悩ませていた。
土地についても謝罪するべきではなかったか――。いや、やはり知られずに手続きが済めばそのほうがいい――。でも失礼すぎやしないだろうか、いやいや、でもでも。できることなら関わりたくない――。
気がかりで振り返ると、マムートが全力疾走で追い縋ってくるのが見えた。
その後ろを、大きな狼も駆けてくる。ローディスの妖獣ナルスだ。銀糸の毛並みが、葉蔭の下で彗星のようにひらめく。
あっと驚いて足を止めたムギの近くまで、ナルスは跳躍してきた。
「お久しぶりです、麦穂の乙女」
「こ、こんにちは……あれ? ヴィゴーさんは……」
「ヴィゴーなら、麦穂の乙女を追ったわたしの匂いを追跡して、ご主人様をお連れしてくるはずです。ああ、ほら。来ましたよ」
「え?」
ナルスの前足が示すほうに、茶色い狼の姿が見えた。その背には高笑いを響かせるローディスと、なぜかワトゥマまで乗っている。
ムギは呆気に取られて、構える暇もなかった。
ヴィゴーの背から軽やかに降り立って、ローディスはムギの前に仁王立ちになった。
「今日こそは逃がさんぞ、麦穂の乙女!」
「ひぇっ、すみません……」
「話はすべて聞かせてもらった!」
「あのぉ、ところでその麦穂の乙女って……なんなのでしょう」
残念ながら、ムギの声は彼の耳にひとつも入らないようだ。
「なるほど。先日〈聴き手〉の報告に挙がった一つは、貴様のことであったか。なんという運命の悪戯であろうな! はっはっは!」
なぜかとても嬉しそうで、それがやたらと恐ろしくてムギは小さくなるしかない。
「僕と取引をしないか」
勝ちを見越した余裕の眼差しで、彼は告げる。
「応じるなら、土地の権利を融通してもらえるよう、父に進言してやってもいい」
言葉の裏に、返答次第では最悪な結末も待ち受けていると匂わせる高慢な口ぶりだ。
やはり信用ならない男だと、マムートは犬歯を露わに唸る。
「ムギ、聞かなくていい。こんな奴に頭を下げるなら、ガイアスを頼みにしたほうがマシだ。ワトゥマも、早くこっちへ来い!」
「おっと。行ったりしないだろう、ワトゥマ?」
ローディスの問いかけに、ワトゥマは尻尾を振った。まるでナルスとヴィゴーに倣うように、彼の隣におすわりする。
「ワトゥマ、ローディス坊ちゃまのところに行きますの。そうしたら、ムギ様に土地をお譲りくださると約束してくださいましたの」
「なんだって!?」
「そういうことだ。ワトゥマの献身を無駄にしたくなければ、今すぐ主従の契約を解くのだ、麦穂の乙女」
ローディスの高笑いが山中に木霊した。何事かと鳥たちが翼をはためかせ、獣たちはきょろきょろと顔を覗かせる。言葉を失うムギたちに反して、山は騒がしかった。
「脅されているんだろう? なぁ、そうなんだろう、ワトゥマ」
マムートは信じられずに問いかけた。そうであってほしいと願う語尾に、力が入る。
ところがワトゥマは、屈託ない笑みを振るわせて首を振った。
「ワトゥマが決めましたの。ムギ様に喜んでいただけると思って! ね、ムギ様。ワトゥマ、お利口ですの。褒めて褒めて」
風を巻き起こす勢いで、尻尾が振られる。いつもは可愛らしくて飽きることなく見ていられるそれから、ムギは目を逸らした。
「喜ぶと思ったの……? わたしが?」
「はい、ですの! ムギ様がおうちをとっても大事にされているのは、存じ上げておりますの。これでご安心でしょう?」
無邪気なワトゥマの声に、ムギは顔を上げる。
女神から賜った瞳は、ゆらりと揺蕩う海の青。穏やかといえば聞こえはいいが、気弱というのがもっともな目尻が、この世界でのムギの顔だ。
だが今はどうだ。暗澹たる思いが渦巻いて、波は荒れたち、ワトゥマもマムートも知らない少女がそこにいた。
「どうして、いつも、勝手に決めちゃうの。ガイアスさんのときもそう、今もそう……」
「ム、ムギ様……? 怒ってらっしゃいますの?」
「怒ってるよ……怒ってるし、悲しいよ」
ワトゥマは初めてのことに戸惑って、耳をぺたりと伏せる。
「わたあめちゃんは、これでいいんだね? わたしとの契約を終わらせても、平気なんだね?」
「ワトゥマ、一番好きなのはムギ様ですの! 離れても、心はムギ様とともにありますの。ムギ様のお幸せが、ワトゥマの幸せですの」
「わたしが大事にしたかったのは、マメタとわたあめちゃんと一緒にいられる毎日だよ!」
ムギは基本的に怒ることが苦手だ。大きい声を出すほうでもないし、他者を非難できるほどの人間ではないと思っているから、どちらかというと落ち込むほうに気分が傾きがちだ。なので、沸点を超えることはそうそうにない。
怒り慣れないムギは、なにがなんだかわからなくて、だんだん胸が苦しくなってきてしまった。
ムギがワトゥマに苛立ったのは確かだが、それ以上に自分の不甲斐なさが腹立たしかった。怒りが悲しみとぐちゃぐちゃに混ざり、気づけば涙がこぼれていた。
「わたしだって、わたあめちゃんに笑っていてほしくて、だから頑張ろうと思えるのに……。住む場所だけあったって、わたあめちゃんがいないんじゃ、幸せになんかなれないじゃないっ……」
だがムギは、自分の口からこぼれる言葉にすら打ちのめされる。不甲斐ないから、ガイアスを頼るしかないし、ワトゥマは自力でなんとかしようとしてしまうんじゃないか――と。
そんなネガティブな思いを否定できる力も自信も、ムギにはない。悔しくて、情けなくて、込み上げる涙を拭って、子供のようにしゃくり上げるばかりだ。
「ムギ様……。えええん! ムギ様ぁ……っ!」
たまらずワトゥマが飛びかかる。真っ白いふわふわの弾丸に押し倒されて、ムギは尻もちをついた。
「ごめんなさいですの。ワトゥマ、ムギ様のお気持ちをわかっていなくて、ごめんなさいですの! どこにも行きませんの。ずっとムギ様のおそばに、おりますの。うえええん、ごめんなしゃいでしゅのぉぉぉ」
ひっくり返った視界に仰いだ木漏れ日が、皮肉なくらいに綺麗で、ムギはまた無性に泣けてきた。
妖犬狩り騒動があったとき、ワトゥマの行動はもっと冷静だった。だが、チャームにかかってからというもの、ムギのためとなると明らかに周りが見えなくなっている。
今だって、泡を吹かんばかりになっているローディスのことは見えていないに違いない。
一緒になって涙するワトゥマの重みを胸に感じながら、「もふもふチャーム」で心を縛る罪深さをムギは痛感した。
(もっと胸を張れる自分になろう……。この子に愛されるに足る存在に……。この子が、わたしでよかったと言えるように……)
***
「麦穂の乙女! またしても僕からワトゥマを奪うのか!」
涙に滲む景色の端っこから、ローディスの怒声が響いた。
そもそもお前のものじゃない、と食ってかかりそうなマムートを引き寄せて、ムギは居住まいを正す。ごしごしと擦った目元が真っ赤で、格好はつかない。それでも背筋だけはしゃんと伸ばした。
「はい。渡せません」
「ほおおおおおう、そうか! それが貴様の答えなのだな! ならば当然、リーヴェの地を二度と踏めぬ覚悟もできているのだろうな!」
「はい。自分の足で、この子たちが安心して暮らせる場所を探します。ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。出立の準備が調うまで、少しの猶予をお許しください」
期待した反応が得られず、ローディスは歯噛みした。だのに、その場を去ろうとしないのは、ワトゥマの心変わりに一縷の望みを抱いているからだろう。
「とりあえず帰るか」
「そうだね。今日から少しずつ荷物をまとめて……。ガイアスさんには、なんて言おう」
呆れられて、お説教を受けるに違いない。考えるとちょっと憂鬱だが、それほど嫌な感じはしなかった。
よっこらせと腰を上げたムギの膝を、ワトゥマが前足でちょんちょんと触れた。話を聞いて欲しそうに見上げてくるので、ムギはもう一度姿勢を低くして耳を傾ける。
「ムギ様はいつもお優しいから、ワトゥマがなにをしても許してくださる気がしていましたの」
「そんなわけあるか。主人を困らせる妖犬が、どこにいる」
「はいっ、ですの。反省しましたの。だから怒らないで、にに様ぁ」
体の大きさがまるきり違うのに、ワトゥマのほうがすっかり縮こまって見える。泣いたカラスがもう笑うの喩えそのままに、ムギも気が抜けて笑ってしまった。
ワトゥマはいつになく、おずおずと鼻面を寄せた。
「でもワトゥマ、嬉しかったですの。ムギ様が、ちゃんと叱ってくれて。やっと、本当にムギ様のおそばに寄らせていただけた気がしましたの」
「それは……わたしも同じだよ。わたあめちゃんに始まったことじゃなくて……これまで、ずっと。ひととぶつかるのが怖くて、言えないまま誤魔化しちゃったことって……あるの」
逃げ腰の人生を振り返り、後悔してももう戻れない。ならばここでは、そんな後悔を減らしていけたらとムギは願う。
「みんなに不誠実だったと思う。ごめんね、わたあめちゃん。気づかせてくれて、ありがとう」
「うぇぇぇん、ムギ様ぁ! ムギ様、大好きですの!」
ワトゥマはぴょんぴょん飛び跳ねて、泳ぐように前足をかいた。ムギを抱きしめようと頑張っているようだが、妖犬の骨格では背中まで手が回らない。どうしてもムギに抱きしめられる格好になってしまう。
興奮が冷めやらぬワトゥマは、やきもきして自分の尻尾を追いかけた。するとどうしたことか、くるくると回るうちに、ワトゥマが霞に包まれ始めた。
霞は綿雲のように、もくもくと膨らむ。ワトゥマの姿は完全に見えなくなって、いまだに様子をうかがっていたローディスのことも大いに狼狽えさせた。
やがて霞が風にさらわれて、クリアになったムギの視界に飛び込んできたのは――。




