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立ちはだかる困難と嫡男。


「俺は嫌だからな」


 いつもなら率先して前に出るマムートの足取りが、今日は重たい。ムギが振り返ると、まだ家の前からほとんど動いていなかった。


「住む場所なんて、どうとだってできるだろ。なのにどうして、嫁入り前のムギが好きでもない男と、(つが)わなきゃならないんだ」

「まぁまぁ、にに様ったら。それは野暮というものですの。おうちのためというのは、お互い口実に過ぎませんの」

「そ、そういうんじゃないってばぁ……」


 ガイアスは二週間ほどで帰ってくるとムギに告げ、仕事のできるという知り合いのもとへ出かけていった。身分証ができるまでのあいだに、よく考えて答えを出すよう言われ、今日で十日になる。

 そろそろ帰り足にあるだろうガイアスを、ムギはあの日なあなあになってしまったままの晩餐を仕切り直して迎えたいと思った。

 そのための食材を買いに、今日はウタロまで足を伸ばすつもりだ。カポル騒動のほとぼりも、十分冷めたことだろう。


「ムギがそうやって甘やかすから、あいつが調子に乗るんだ」


 マムートはとうとう足を止めてしまう。

 ガイアスのための買い物になんか、ついてってやらないぞ――と、でも言っているかのようだ。

 それでもムギが歩き続けると、主従の枷はいよいよ限界まで伸びきって、二人は綱の引っ張り合いをしているような格好になってしまった。


 ムギが前へ進もうとするほど、マムートは前足を突っ張って、頑なにそこを動こうとしない。

 柴犬の妖犬が持つ特殊スキル「拒否柴」が発動したらしい。

 見えない枷が首に回っているせいで、首周りの毛や肉がすべて顔のほうに集中する。踏ん張るほどに、本人にとっては不服極まりないであろう、滑稽なむっすり顔が強調されていく。


(はぁぁぁあ可愛い……! あれ? だけど、この状態で変化したらどんなことになるんだろう……)


 ほんの一瞬……いけない想像がムギの頭をかすめた。皺くちゃの顔をこねくり回そうと疼く手が、すっと引っ込んだ。


「ごめんなさいですの、ムギ様。こうなったら、にに様は聞きませんの」


 上級スキル「不動柴」まで発動したら、テコでも動かないというから大変だ。


(なるほど。それはそれで……ごく自然な理由で、マメタを抱っこできるチャンスでは――?)


 などと邪念が首をもたげたムギの脳裏を、再びマムート(獣人・穢れなき眼・顔がいい)が横切る。

 冷静さを取り戻して、ムギはふうっと息を吐いた。


 目には見えないが、確かに二人を繋ぐ枷を頼りに、ムギはマムートのもとへ歩み寄る。

 頑なに足を突っ張ったままのマムートの前に膝を折って、できるだけ優しく語りかけた。


「マメタ。わたし、ガイアスさんは頼りにしているけど、結婚するつもりはないよ。そもそも、そこまでしてもらえないし」


 嘘を見抜こうとする目で、じとりと見上げてくる。白目がちらりと覗くところに、胸をきゅっと掴まれながらも、ムギはぐっとこらえて落ち着いた声音を心掛ける。


「一旦はガイアスさんの名前をお借りして、猶予をもらおうとは思うの。その後で、正式に国籍をいただいて、自分でなんとかしてみるつもりだよ」


 ウタロの町へ行くのは、仕事探しも兼ねてだ。マムートを危険から遠ざけるためと、ムギの性格的にも在宅ワークが望ましい。


「マメタ、心配してくれてありがとう。大丈夫だから、機嫌を直して。ね?」

「別に……怒ってない」


 むすっとした顔は相変わらずのマムートだが、ムギが鼻先に差し出した手に、顎を乗せて目を細める。ムギもほっと安堵の笑みをこぼした。


「じゃあ、お買い物に行こうか」

「ガイアスのための買い物だったら、俺は行かないからな」


 またも、ぐっと四肢を踏ん張る。これでは行かないというよりも行かせない、だ。

 今日のところは諦める他なさそうだが、せっかく出かける準備をしたのに、それももったいない気もする。そこでムギは……。



 ***



「あ! マムートにワトゥマ! それにムギ姐さんも!」


 クリーム色のチワワが、千切れんばかりに尻尾を振って駆けてきた。

 マムートたちの幼馴染ピノだ。


 買い物は散歩に変更し、妖犬の里に立ち寄ることにした。ガイアスはともかくとして、マムートに関しては甘やかしている自覚のあるムギだ。

 おかげで、マムートの機嫌はすっかりよくなって、故郷の風を纏ってピノとじゃれている。

 そんな姿を見るにつけ、ムギの守りたいという思いは強くなる。マムートたちの存在があればこそ、困難に立ち向かう勇気が湧いてくるのだった。


 ピノの尻尾を追いかけるマムートとワトゥマは、里の変化に気がついて耳をひくつかせた。

 一見なにも変わりないようだが、ごろごろ転がる岩が以前とは別の場所に動いているように感じたのだ。

 丸太を組んで作った障害物があったり、縄の輪っかがぶら下がっていたり、なかったはずの壁が設置されていたりなど――。幼い妖犬たちを中心に、若い犬たちも一緒になって楽しげに駆け回っている。

 さながら、アジリティのようだ。ムギはそういう印象を受けた。


 変わったのは、それだけではない。

 岩陰に、鋼の匂いを漂わせた人の気配が蠢いている。

 警戒して唸るマムートに、ピノがおずおずと声をかけた。


「とりあえず大丈夫だよ。それ、公爵家のひとなんだ」

「なんだって? 奴ら、まだ里を狙っているのか?」

「違うんだよ。この前のお詫びにって、里の周りを巡回してくれてるんだ」

「母さんは、なんて」

「せっかくのご厚意だから、ありがたく受け取りますってさ」


 それからピノは、思い出したように飛び上がる。


「そうそう、早くシェルマ様のところに行ってよ! 大変なことになってるんだ!」

「かか様になにかあったんですの!?」

「いいから、早く早く!」


 小さい頭で兄妹の尻をせっつき、里長の巣穴のほうへと押し出した。

 悪い知らせではなさそうだが、気が気でなくて駆け出す二人にムギもついていった。

 シェルマは脚が悪いので、起伏の少ない集会所の近くに住んでいる。日当たりのいい横穴で、ワトゥマも里を出るまでは一緒だった。

 そこから楽しげな話し声が、外まで聞こえてくる。


「はっはっは。シェルマ殿の武勇伝には、毎度驚かされる」

「お恥ずかしい。若さゆえの無鉄砲でございます」


 若い男と、シェルマの声だ。

 朗々と響く若々しい声に聞き覚えのあるムギたちは、顔を見合わせる。

 穴の中をそっと覗くと、そこにはヴァルド公爵家嫡男ローディスの姿があった。シェルマの傍らに敷物も敷かずに座り込み、真白な背中を気安く撫でている。


「なんで、ここにいるんだ! 母さんから離れろ!」

「ローディス坊ちゃまですのー! 遊びに来てくださいましたの?」


 反応こそ対照的だが、妖犬兄妹は同じタイミングで母の住処へ飛び込んだ。


「おお! ワトゥマ!」


 ローディスの陶器のように白い頬に、一瞬で花が咲いた。優しげで綺麗な顔立ちが、ぱっと破顔した途端に少年のようなやんちゃな印象に様変わりする。彼がいかにワトゥマとの再会を喜んでいるか、一目でわかるというものだ。

 そして瞬く間に、今度は鬼の形相へと変わる。岩陰で、一生懸命隠れているつもりのムギに気づいたからだ。


「やはり貴様も一緒か、麦穂の乙女ぇ……」


 歯の奥を噛み締める音まで聞こえてくるようだ。


(ひぃっ! なんでか知らないあいだに、変な呼び名を付けられてる!)


 後退りしそうになる足を叱咤するため、ムギは膝に手をやった。ぱちん、と瑞々しさが弾ける音がする。その勢いを殺さぬままに深々と頭を下げた。


「先日はたいへん失礼いたしました! そして、これにて失礼いたします!」


 さすがの逃げ足の速さで、ムギはもう来た道を引き返していく。枷のせいでマムートは引きずられてしまうため、たまらず足を突っ張る。


「待てっ、母さんが心配だ。少し話を……」

「安心なさい、マムート。わたくしはほら、この通り」


 シェルマが、ゆったりと体を起こした。初めの一歩は常であれば、側に仕えるものたちに支えられて踏み出すところだ。

 転ばぬようにワトゥマが、さっと横に付く。しかし、シェルマはそれを優美な笑顔で押し留めた。


 シェルマは後ろ脚を庇いながらも、誰の支えもなしに一歩一歩をしっかりと歩み出す。目をみはるマムートのところまで辿り着くと、息を切らす素振りも見せずに優雅に座り直した。


「ローディス様が、頻繁に按摩を施しに通ってくださったのです。たいへん貴重なお薬や、歩行を助ける装具などをお貸しくださって……。おかげでこんなに良くなったのですよ」

「なに、たいしたことはしていない。リーヴェの地に暮らす民、そしてこの地を守る同志として、妖獣たちが健やかであれと願うのは当然のことだ」


 ふふん、と顎を反らせてローディスは得意げだ。


「シェルマ殿は怪我を負った際に、適切な治療を受けられなかったのだろう。僕がついていれば、再び走れるようになるのも夢ではないぞ。そのためにも、城に来ていただくのが一番なのだがな!」

「ほほほ、お戯れを」


 ローディスは決して冗談では言っていそうにないが――。百戦錬磨のシェルマを口説き落とすのは、容易でなさそうだ。

 そんなシェルマの微笑みは、マムートを安心させるようで、同時になにをすべきか問いかけているようでもあった。

 マムートは枷に引っ張られながら、なんとかそれらしい格好でローディスに頭を下げた。


「俺はあんたを許すつもりはない。だが……、里を気にかけてくれているのは……その……感謝する」


 ぶっきらぼうにそれだけ告げると、マムートは主人を追って走り出した。


「もう、にに様ったら。申し訳ございません、ローディス坊ちゃま。兄は素直じゃありませんの。ワトゥマが代わりに、いーっぱいお礼申し上げますの!」


 ワトゥマ流の感謝の舞が披露される。くるっと回って飛び跳ねて、最後のターンはローディス(観客)とのハイタッチで、決めポーズまでばっちり決まった。


「ワトゥマ、まだありがとうの気持ちがおさまりませんの。もう一度踊りますの」

「そうか、そうか。ならば、今すぐ麦穂の乙女のもとを離れ、僕と契約を結んでくれても構わないのだぞ!」

「麦穂の乙女って、ムギ様のことですの? でしたら答えは、()。でーすのー」


 一緒に狩りをして、一緒に食事をして、一緒に眠る――。そんな慎ましい暮らしが楽しいと、ワトゥマは目を細める。


「ぐぬぅ……! 僕のもとに来れば、シェフと共同開発した最高の食事が待っているぞ!」

「前に食べた、あの美味しいご飯ですの!?」


 口の端から滴り落ちそうな涎を、ぺろりと舌で掬うも、尻尾はゆさゆさ大きく揺れる。

 ローディスはさらに甘い言葉で、誘い込む。


「あれよりもっと上等だ! それに加えて、働きに応じて褒美も授けよう!」

「ご褒美ですの?」

「ああ、ワトゥマの望みならなんでも叶えてやろう」


 ワトゥマは興味深げに、頭を左右にくりくり揺らす。そして清らかな(まなこ)になにが映ったか、嬉々と立ち上がった――。




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