……とは行かないようで。
これでもかというほどの食材を買い込んで、四人は山を登った。
湿気を含んだ山道を踏みしめると、涼やかさに沈み込むような感覚をムギは覚えたが、それもほんの一瞬だ。
夜が訪れるまで我が物顔で空に輝く太陽が、枝葉から射し込むたびに、背中を汗が伝う。
小腹が空いてきたのもあって、冷たいアイスクリームを食べたいと、ムギは唾を飲み込んだ。
(牛乳に、卵か……)
牛を飼って乳を搾るのは現実的でなくても、出店に置いてきた鶏の雛に、一抹の未練が首をもたげる。
朝採りの卵でゆで卵、スクランブルエッグに目玉焼き、おやつは無添加卵のこだわりプリン――。そんな夢を思い描いてみたが、目下ムギの前には大きな問題が立ちはだかっている。
じっとりと額に張り付いた前髪を払って、ムギはふうと大きく深呼吸した。べたべたの体を、いますぐにでも洗い流したいと思う。
(下ごしらえを済ませてから……なんて言ってられないなぁ。日が暮れないうちに水浴びを済ませないとね……。やっぱりこんなときに、当たり前にお風呂がある生活が恋しくなるよ……)
今は近くの泉を使って身を清めているが、日の高いうちにことを済ませるのが基本だ。雨の日などは、水が濁って使えないこともある。
加えて、暑さに触れると寒さへの懸念も生まれるものである。来たる冬に向けて、ムギの引きこもり生活はインフラ整備が急がれていた。
先に水浴びをしようか、肉をタレに漬け込んでからにしようか、うんと悩みながらムギは足を動かした。
ひとまずは、水でも飲んで涼んでからにしよう――と、ようやく答えが出た頃、小さな家の煙突が見えてきた。
野菜を積んだ犬ぞりを引くワトゥマが、喜び勇んで駆け出す。ひと気のない家に帰るのは寂しいからと、率先しておかえりと迎える準備をしようというのだ。
「ただいま戻りましたですの……あら?」
ワトゥマのそりが、ムギたちの前方でぴたりと停まった。駆けつけると、家の前に見知らぬ背中があった。
涼しげなトーンの白いマントを羽織った、小柄な人物だ。身の丈以上もある大きな羽根ペン型の杖を手にしたいでたちは、魔法使いにも見える。
「どちら様、ですの?」
ワトゥマの好奇に満ちた問いかけに、その人物はマントを翻して振り返った。
黄緑がかった長い金髪がさらりと肩口を滑る。それがマントの色と相まって、涼やかで静かな印象を生んだ。
それだから余計に、そのものの顔が佇まいと釣り合わないようにムギは感じた。
小柄な体格だが、歳はムギとそう変わらない……あるいは少し年上と思しき女性は、一礼しながらも眉間に寄せられた皺を隠そうともしなかった。
吊り上がった眉に目、への字に曲がった口。いかにも、不満を噛み殺そうとしているような表情で、ムギたちの姿をそれぞれ確かめた。
ツンと尖った表情を崩さぬまま、女が口を開く。
「こちらにお住まいのかたは?」
「わ、わたしですっ……」
ムギが答えると、矢継ぎ早に次の問いが投げられる。
「そちらの妖犬は? 後ろのかたは?」
「二頭とも、わたしの子です。こちらは……」
「俺は狩りのために滞在していて、一緒に暮らしているわけではない。ガイアスで届けてあるから、調べればわかるはずだ」
ムギを隠すように、ガイアスが割って入る。大柄なガイアスと並ぶと、女はまるで子供のようだ。ガイアスもガイアスで、あえてそれを助長するような雰囲気すら滲ませる。
しかし、見た目で侮られるのは慣れているのか、女は取り合う様子もない。懐から出した書面を確認して、納得した様子でしまい直した。
ガイアスは彼女のマントの幾何学的な青い刺繍に目を留め、腕を組む。
「どうも、そちらさんは〈聴き手〉の人間のようだが……なにかあったのかい?」
「〈聴き手〉? 大地の声を聴くもの……?」
舌の上で確かめるようなムギの呟きを、女の耳は敏感に拾い上げた。
「高祖母の名を、ご存知なのですか」
視線から、わずかに険が払われる。そうすると、紫水晶色の瞳の美しさがぐんと際立った。
魔法使いのなかには、精霊との交信に長けた使い手がいる。
彼らは精霊の声を聴くことで、災害を予知し人々を助けることが多く、民に慕われ敬愛される存在だ。
また、地の利を利用した知略を巡らす戦法に長けてもいるため、軍官として起用されることも多い。
ムギがかつてエンシェンティアに送り出した少女ファリス・リオルーは、海洋国家を十日で滅ぼした奇病の原因を、精霊の声から土地の汚染であることを突き止め、その復興までを支えた。
その栄誉を讃え、その名を持って〈大地の声を聴く者〉の称号を賜ったのだった。
(あのファリスの子孫が、目の前にいるなんて――!)
感慨深くて、回答が疎かになるあいだに、女の顔には冷たさが戻ってしまった。ムギは慌てて、文献で得た知識だと誤魔化す。
「そうですか。先祖の偉業を知れど、その名を覚えているものはそう多くありません。あなたはお若いのに、ずいぶん博識なようで」
「いえ、そんなんじゃ……」
女は咳払いすると、軍隊でするような敬礼をした。
「失礼しました。懐かしい名に、つい舞い上がってしまい……。わたしは〈聴き手〉のイスカ。ノルファリアを渡り歩き、土地の異変を御上に奏上するのが仕事です」
「わ、わたしはムギです。こっちはマメ……マムート、それからワトゥマです。えっと、あの、あなたがここにいらっしゃったということは……この地で、なにか起きるということですか!?」
イスカの薄い唇から、ふーっと長いため息がこぼれた。その場の空気が少し下がったように感じて、ムギはぶるりと震える。
「起きるのではなく、すでに起きています。ムギさん……でしたね」
「は、はいっ」
「このままですと、土地の不法占拠で投獄されるでしょう」
「へっ……? え? えええええ!?」
イスカ曰く、ひとの営みあるところ、精霊の声は活発になるという。
この森の精霊が常になく騒がしいため訪れてみたところ、届けにない家が建っていた――というわけだ。
「届け出……必要なんですね……」
物語の進行上、そのあたりはふわっと寛容な設定で書いていたムギは、ここでもすっかりそのつもりで考えていた。
「商いでもしない限りは、そこまで厳しく取り締まってはいなかったのですが、近年は……」
はっきりものを言いそうな瞳を、イスカは不自然に伏せる。この国の住民がこうして言い淀むとき、たいていそこには二年前の変事が関わっていることを、ムギはこれまでの経験から敏感に感じ取った。
獣人と人間の友好関係に亀裂が入り、修復の兆しも見られぬいま、ノルファリア王家が警戒しているのは、抑圧された獣人たちが徒党を組むことだろう。彼らが蜂起する可能性は、十分に考えられる。
そんなときに、こんな山深い場所は隠れ住むのに最適だ。現にムギも、こうして引きこもれている。
獣人の保護を積極的に行なっているというのも、裏を返せば暴動を防ぐためもあるのかもしれないと、ムギは今になってようやく思い至った。
(警戒を強めるよりも、根本的な解決はできないのかな……)
そう思えども、ムギに口を挟めることではない。そんなことをしたら、不法占拠に加え罪状に王家に対する不敬罪まで加えられてしまったら、マムートを守るどころではない。
「投獄されたら、妖犬は連れていけません……よね?」
「当然です」
呆れたときも、人は眉間に皺が寄るらしい。
ため息こそ控えてくれたが、イスカは同情する素振りもなく、淡々と告げる。
「不法に土地を占拠した場合、最低でもふた月は王都に収容されます。ですが、まぁ……悪質ではなさそうですし、今回はひとまず注意のみで」
「い、いいんですか……」
「精霊のお導きです。感謝してください」
本人の言動よりなにより、イスカが信じられるのは精霊だ。彼らが「悪いやつじゃないよ」と言えば、それが答えなのだ。
「一ヶ月以内に、土地の賃借もしくは買受希望の申請書を、イローネの役所に提出してください。契約成立までの期限は考慮しますが、一切の手続きをしないまま来月もこちらにいた場合……今度こそ連行いたしますので、そのつもりで」
「し、承知いたしましたっ……」
ムギはごくりと唾を飲む。
「それでは、わたしは次の仕事がありますので――」
仕上げとばかりに、イスカは羽根ペンの形をした杖を地面に滑らせた。
すい……と軽やかにレ点が描かれる。調査が終わったことを記す印のようだ。
次の瞬間、それはほのかに光を宿し、あたりを舞う精霊たちのこぼす燐光とともに明滅した。
光が消えると、イスカの姿もまた、どこにも見当たらなかった。
***
「ワトゥマには難しいお話でしたの。どういうことですの?」
精霊や妖精が、そこかしこに息づくように。リスやウサギが、森に家を作っても咎められることがないように――。妖犬も、縄張りを築くのに誰に憚ることもない。
ムギは膝を折ってワトゥマを撫でる。自分の落ち度で不安にさせてしまってはいけないと、安心させるつもりでそうしたのに、ふわっとした手触りに自分こそ慰められるような心地がした。
「えっとね……。ここで暮らしていくには、持ち主のかたにきちんとお許しをいただかないといけないんだって」
「持ち主って誰なんだ?」
「ヴァルド公爵家だ」
マムートの問いに、ガイアスが横から答える。
「この山一帯まるまるな。入山申請をするときに確認したから、間違いない」
やはりそうか、とムギは憂鬱なため息を呑み込む。個人の私有地なら、イスカももっと詳細を告げるだろうとは思っていた。そうでない公爵領の一部が、どこに帰属するかは想像に容易かった。騒動を起こした手前、二度と関わるまいと思っていたのだが――。
そう思うのはマムートも同様か、苦虫を噛み潰したような顔で低く唸っている。
そんな二人を見たガイアスは、神妙な顔で顎を撫でた。
「若い娘が妖犬を連れて、こんなところに住んでいるのも、妙な話でなぁ。だから俺はてっきり、君がヴァルド家ゆかりのものか、あの坊ちゃんのお手つきかと思っていたんだが」
「こ、怖いことを言わないでくださいっ」
万が一、本人の耳にでも入ったら、名誉毀損で首を刎ねられかねない。ムギのなかで、公爵家嫡男ローディスという人物はそういう印象だった。
最終的な決定は公爵が下すものとしても、「無理ゲー」だろうとの諦念が頭を占めてしまう。最悪、他の地へ移ることも視野に入れたほうがよさそうだ。
「ガイアスさん……この際、恥を上塗りでお尋ねします。土地を買ったり借りたりというのは、誰でもできることなんですか?」
「犯罪歴もなく、身元がはっきりした人間ならたいていの申請は通るはずだ。ただ、今はノルファリア国籍を有して、納税義務を果たしているものに限られるが……君は――」
どうなんだ、という視線からムギは逃亡を図った。が、獲物を追い詰めることに一定の歓びを見出すガイアスに、背中を見せるなど悪手以外のなにものでもない。
「正直に答えてもらえないと、貸せる手も貸せないな」
「うぅぅ……」
これは逃げられないと悟り、ムギは当たり障りない範囲で、これこれこういうわけで身分証も師匠に取り上げられてしまったのだと、説明した。
勘当され、右も左もわからぬノルファリアに放り出された異国出身者、という設定にしているが、本当のところはイレギュラーな転生者で、国籍はおろか戸籍すら存在しない。
どう考えても、詰んでいる。
最悪、創造主の強みで抜け道がないでもないが……。
「身分証の再発行、国籍の取得……そこから借地手続き……一ヶ月以内にできるわけ、ないですよね……」
「まず無理だろうな」
わかってはいたが、言い切られると絶望感が募る。
すると、ガイアスが小さく笑った。どこか悪い顔をしている。
「普通なら、な」
「なにか、方法がありますか? 安住の地を得られるなら、わたしにできることはなんでもやりますっ。あの、でも、痛いことと死んじゃうようなことは……できたらご勘弁願いたいんですけどぉ……」
「仕事の早さが自慢の役人に伝手がある。そいつに話を繋げば、一ヶ月以内に土地利用の申請までは余裕で通るだろう」
その後で使用許可が下りるかどうかは別問題だが、申請の事実さえあればひとまず首は繋がる。
「そ、それって……書類の偽造とかじゃありませんよね?」
「頼めば、そっちの仕事もしてくれるが、そのほうがいいか?」
「よくないです!」
「だろうな。安心しろ。普通の役人が三日かかる仕事を、一日でやってくれるだけの話だ」
ムギがほっと胸を撫で下ろすあいだも、ガイアスの意味深な笑みは崩れない。
「まずは君の身分証を再発行してもらうだろ? それと同時に、俺がこの土地を買うなり借りるなり、申請すればいい」
「ガイアスさんが? どうして?」
それではムギの居場所がない。ところがガイアスは、おかしなことを言っているとはちっとも思っていない様子で、胸を張る。
「ノルファリア国民でない君が、暫定的かつ合法的に土地を得る方法がある」
「そ、その方法とは……?」
「土地の持ち主と結婚すればいい」
「えっと……つまり?」
ガイアスは、とびきり人の悪い笑顔でこう告げた。
「俺と夫婦になるか? ムギ?」




