食っても食われるな。
とはいえ、獣をしめる技が一朝一夕で身につくわけもなく、翌日もムギはおさらいを兼ねて、マムートたちと狩りに出た。
すぐに、妖犬たちによって野兎が二羽、ムギのもとへと追い立てられてくる。
ムギは雷を帯びた弓矢を創り、狙いを定めた。たとえ弓の技術がなくとも、追尾する魔法を使えば、いかに素早い兎であろうと外しようもない。
ところが――。
ムギは矢を放てなかった。
捕まるまいと、命を燃やして必死に地を蹴る兎の姿に、射出を躊躇ってしまったのだ。ガイアスの弓矢の重みと肉を断つ感触が、確かな質量をともなって手の中に戻ってくる。
(命をいただく重み……)
ワトゥマの仕留めたヒポグリフを捌くのとは、わけが違う。この瞬間に野兎の運命を決めるのは、ムギだ。
(こ、怖い――)
戦意を失ったムギと兎の目が合う。どう好転を望んでも、ムギの足元をすり抜けて兎たちが逃げていく未来しか思い浮かばない。主人に捧げる獲物を逃がすまいと、マムートは四肢を忙しなく掻く。
しかし驚いたことに、兎は突然逃げるのをやめ、ムギの前にちょこんと並んで座った。
そして戸惑うムギの足元にごろりと転がる。それはまるで、身を捧げるかのようだ。
無垢な瞳がムギを見上げ「さあ、お食べください」と言わんばかりに輝く。
「これは、例のスキルか?」
息を整えながら、マムートが関心を示す。
「そ、そうだと思う……」
「こんなところで恩恵を受けられるとは、驚きだな。狩りがずいぶん楽になるぞ。よかったな、ムギ」
「さすがですの! ムギ様は狩りの女神様ですの!」
「よ、よくないよっ。こんな無抵抗な子を捕まえるなんて……わたし……」
すると妖犬たちは、不思議そうに首を傾げた。ムギがなにを躊躇っているのか、まったくぴんと来ていない顔だ。
***
「それで結局、自分で手を下せなかったってか」
「はい……」
喉笛に噛み痕の残る野兎を携えて、ムギはガイアスの野営を訪れていた。
昨日の別れ際、少なくともあと十日は山に留まると言っていたので、思い切って狩りの極意を尋ねてみることにしたのだ。
「とんだ甘えただな。魔法使いの弟子だったんなら、生き物を贄に使うことだってあっただろ?」
「お、落ちこぼれだったもので……」
「ほぉー」
嘘はないか、その瞳で確かめようとでも言うのか、ガイアスはムギと顔を突き合わせる。
「ガイアスさん、近いです……」
少々強引さを感じさせるシャープな眉から、鼻梁へと流れるラインは、ムギがこれまで対面してきた異性のなかでもとりわけ整っている。
健やかな肌は男性ながらに滑らかで、その艶が相まって、どこか石膏像を思わせる美丈夫だ。
つまりはムギが免疫を持たない「三K」のいいオトコなわけだが……。
ガイアスの紅の瞳に見つめられると、ムギは途端に責められている気分になる。まして、設定に説得力がないなど、趣味の範囲の物書きと言えども致命的だ。
とにかく彼の疑念を払拭するのに必死で、「乙女の恥じらい」も発動しないくらいだった。
ガイアスも、期待していた反応が返ってこないとわかるや、戯れを切り上げて兎に向き直る。
二羽の兎は、二人でそれぞれ捌くのにちょうどいい――と彼の指導は今日も実践重視で性急だ。
獲物の種類による生態の違いはあれど、やるべき手順は変わらない。昨日を振り返りながら、ムギは気丈に手を動かす。
「死んでいれば、平気なのか?」
「そ、そうじゃありませんけど……」
覚悟を決めたけど――。でも、でも……。
お決まりの弱虫が顔を出して、ムギは自己嫌悪でどんどん声が小さくなる。
「どうしたら、狩った子たちへの罪悪感を拭うことができますか」
するとガイアスは、妖犬たちと同じ、きょとんとした顔をした。
「罪悪感? そんな罰当たりなもの、俺は持っていないな」
「ば、罰当たり……ですか?」
「ああ、そうだ」
ガイアスが、手にしたナイフを作業台に突き立てた。それほど大きな音がしたわけでもないのに、ムギの視線は自然と彼の手元へ吸い寄せられる。
あたりでくつろいでいた妖犬たちまで、ぴんと背筋を正した。
「ムギ。狩りは畢竟、弱肉強食の自分本位な行為だ。だが慈悲深い神殿の連中にも、咎められることはない。なんでだ?」
「え、えっと……。ガイアスさんのように、それを生業としている方もいて、許可が出ているから?」
ムギはヴァルド城の二の舞は踏むまいと、なるべく早く簡潔に答えようとしたが、自分でも納得のいく回答は導き出せなかった。
「答えは、もっと単純だ」
ガイアスは突き立てたナイフを引き抜き、野兎の脚を落とす。
「肉を食えば美味い。毛皮に加工すれば暖かい。狩りをすれば、暮らしが潤うんだ」
「引き換えに、この子たちの暮らしを奪って……?」
「そうだ。そしていずれ俺たちも土に還る。土が肥えれば生き物も増える。そうやって巡っているだけなんだよ」
ガイアスは鼻で笑う。
「それとも君は、ユカの実を取るのにも、いちいち謝っていたのか?」
「そんなことは……」
「食うために奪うという行為は同じだろ?」
「いえ……、だけど」
「君はずいぶん甘やかされて育ったらしい」
率直な言葉にムギが言葉を返せずにいると、はらはらしたワトゥマが足元に擦り寄った。
温かさに励まされたムギは足を踏ん張って、下は向かずにガイアスの言葉に耳を傾ける。
「いいか、ムギ。君の糧になるため命を差し出したものに、謝って許されようとしないことだ」
それこそ、自分の気持ちを誤魔化すための身勝手な行為だとガイアスは言う。
「祈りを捧げるなら、彼らに生かされていることに感謝したほうが、ずっといいと俺は思うね」
「生かされている……」
マムートらを見ると、納得の表情で尻尾を振っている。それが彼らとムギの違いだ。
「感謝する……」
捌きかけの野兎を前に、ムギは手を合わせる。
言葉を覚えてから毎日欠かさず使ってきた、いただきます――という言葉を、初めて正しく使えたような思いがした。
***
片付けまで終えると、ガイアスはムギを天幕に招いた。茶をふるまってくれるという。
麻を編んだ敷物に膝を折り、差し出された茶器を受け取る。顔をかすめた湯気から、レモングラスのすっきりした香りが立った。
「いい香り……」
「いける口なら、ハーブ漬けのワインもあるぞ」
酒を酌み交わすほど、ムギは彼に気を許していない。やんわりと辞し、まろやかな温もりで喉を潤した。
「昨日、今日と……ガイアスさんには頭が上がりません。本当にありがとうございます」
「別に。払うもん払ってくれりゃあ、いつでも師匠になってやるぜ?」
ガイアスはなにかを求めるように、手のひらを仰向けて差し出した。
彼の意図が汲めず、ムギは正直に首を傾げた。
するとガイアスの口が「講義代」と無音で動く。
「えっ――。ヒポグリフは差し上げましたよね!?」
「それはそれ、これはこれだろう」
「そ、それなら今日は兎を……」
くくっ、と喉の奥でガイアスは笑う。
「だから君は甘えたなんだ」
ガイアスはムギの手から茶器を取り上げると、なにを思ったか、強引に肩を抱き寄せた。
「へっ……?」
「兎は食い飽きた」
レモングラスの香りが遠のいて、ふわりとかすかなラベンダーの香りがムギの鼻をかすめる。
彼の衣服から香っているのだと気付くと同時に、逞しい腕のなかにすっぽり囚われてしまったことも知る。
困惑のあまり一拍遅れて、ムギは素っ頓狂な声をあげた。
「ひぇえええ!?」
「なんだ。ちょうど食べごろの小鹿がいるじゃないか」
「ガイアスさん! わたし、そんなつもりは……!」
どんなつもりだと問うように、悪戯めいて妖しい笑みが傾けられる。
「ムギ、どうかしたか」
「ムギ様ぁ?」
天幕の外で、異変を察知した妖犬たちが腰を上げる。
助けてと一言叫べば、彼らはすぐさま天幕を切り裂き、ガイアスを暴漢として切り捨てるだろう。
しかしムギは――。
「な、なんでもないよ! お茶をこぼしちゃっただけ!」
彼らを遠ざけた。
(こんなところ、子供に見せられないよ!)
混乱しているわけではない。ムギはこれでも、自分の置かれた状況を冷静に理解していた。
(このひと、わたしをからかって楽しんでる……)
ここで頬を赤らめたりしたら、相手の思う壺。下手したら明日には街道に看板が立てられて、「チョロい女」と拡散されるかもしれない――。
伊達にネガティブに生きていないムギは、そこまで想像して青くなった。
カンストしたステータスを頼りに身をよじるも、ムギの体が強張る瞬間に、腕の中で上手に力を逃がされてしまう。
(手慣れてる……! 裏の職業は遊び人かな!?)
鑑定眼を使う余裕があったら確かめられるのに、などと考えている間に、視界がひっくり返った。
硬めの敷物が背中に触れて、汗を吸ったブラウスがひやりと肌に張り付いた。
飲み下すように息を吸って、ムギは天を仰ぐ。間近に迫る芸術的に整った顔面は、やたらに眩しくて直視できない。
その様子を見つめるガイアスは、満更でもなさそうだ。
「どうした、どうした、小鹿さん。ずいぶんおとなしいな。君のところの兎を見習ったのか?」
「いえ……そういうんじゃ……」
からかわれているだけなのに、大慌てで騒いだら間抜けなだけ――。
仮になんらかの気の迷いで本気だったとしても、暴れたところで痛い思いをするだけ――。
悪いほうに思考が巡るだけに、ムギはこの場を穏便に収めることに注力した。
「あ、あ、あの……お口に合うか、わかりませんが……」
自らブラウスのボタンを、首元からひとつふたつと外す。
そこまで想定していなかったのだろう。ガイアスが目をみはった――が、手許を見るのに一生懸命なムギは気づいていない。
「あの……もしかしたら変なところもあるかもしれませんが、なにしろ初めての挑戦なので、その、大目に見ていただけると……」
くつろげた胸元から、ムギは下着の奥へと手を突っ込む。
「ああ、わかった。俺が悪かった!」
ばつが悪そうに白状して、ガイアスはムギを抱え起こす。
「君があんまり素直だから、警告がてらにかまいたくなっただけだよ」
華奢な鎖骨が覗く胸元をかき合わせ、乱れた髪を耳にかけ直してやるあいだも、小鹿は気の毒になるほどおとなしい。
調子が狂ったガイアスは、興をなくした素振りでそっぽ向いた。
「仕方ないから、今日の分はツケておいてやるよ」
「えっ……それは困ります!」
「な、なんだって?」
身に迫って感じにくい、目に見えない金銭のやり取りが、ムギは不安だ。ツケを盾にもっと酷いことを迫られるのではないかと思うと、なにがなんでも清算しておきたかった。
「せっかくなので食べてみませんか」
「は?」
「も、もうこの際なので、食べて感想などいただけたらなぁ、なんて……」
「おい……おいおいおい。俺は茶と間違えて、酒を出したか?」
ガイアスは、傍らによけた茶器の匂いを確かめる。
すっきりしたハーブの香りに目が覚めたか、厄介な女に手を出してしまった――そんな顔のガイアスだ。
しかしムギは構わず、改めて懐に手を突っ込む。
引っこ抜いた手には、布でくるまれたガラスの小瓶が握られていた。
橙というよりは茶色に近い、なにがしかの乾果が詰め込まれた瓶を、ガイアスは訝しそうに見つめる。ガラス瓶と乾果の隙間を満たすのは、少し白濁した水だ。
「これは?」
「日干ししたカポルを、塩水に漬けて発酵させたものです」
発酵を促すため懐に入れていたと説明するムギに、ガイアスは大きくため息をつく。とんでもない誤解をしていたのを恥じるような、男心を弄ばれて怒っているような複雑な顔だ。
「ど、どうぞ……召し上がれ」
「いや、でもな……」
ガイアスは手を伸ばそうとしない。
それもそのはず、ノルファリアでは馴染みのない食文化だ。
だがムギはこれが、エンシェンティアの一部地方では酒好きに好まれる珍味だということを知っている。エンシェンティアにおける「美味い」と「不味い」を創り出したのは、他でもない作者だ。
今はその「美味い保証」にすべてを賭ける。
(わたあめちゃんが譲ってくれたカポルの、最後の一つ……。今夜の楽しみだったけど、背に腹は変えられないもんね……! どうか気に入ってもらえますように!)
ムギはガイアスの警戒を解くため、発酵カポルを少し千切って自分の口に入れた。
舌と鼻にツンとした酸味が広がる。初めこそ強い刺激に感じられたが、むっちりした果肉を噛むと、優しい甘みがまろやかにそれを包み込んだ。
噛むほどに、甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。乾果はしだいに溶けるように柔らかく崩れていき、その滑らかな食感さえも楽しい。
(フルーティーなクリームチーズみたい!)
ムギは思いがけず笑みがこぼれて、もうひとつつまみたいとさえ思った。
自然と笑みがこぼれてしまうものが、不味いはずはない。ついにはガイアスも発酵カポルに手を伸ばし、未知の味覚に挑んだ。
そのときの彼の驚喜に満ちた反応といったら、取引が無事に成立したとムギに確信させるものであった。
そして、ほっとするのと同時に、嬉しくもなった。もともと自分で食べるよりも、ひとが食べて喜ぶ顔を見るほうがムギは好きだ。
卓弥とはよく、手料理の感想を言い合った。出先で食べた料理を再現したり、隠し味を言い当てたり……思い出すと懐かしくて、鼻の奥がツンとする。
「あの……ユカの実を使った、兎の美味しい食べ方も知っています」
「そいつはぜひ、ご馳走になりたいね」
紅い目が光る。ぎらぎらと飢えてはいない。狩りを楽しむ余裕すら垣間見える。
からかわれたことは面白くないし、不埒な気配は信用を欠く。
それでもムギは、不思議とガイアスを憎みきることができなかった。
「ユカの実が乾いたら作ってみるので、また食べてくれますか?」
「それなら次は、罠の仕掛け方でも教えてやろう」
「ぜ、ぜひっ。よろしくお願いします!」
***
淹れ直してもらった茶を飲み干して、ムギはいとまを告げた。表で日向ぼっこをしていた妖犬たちも、主人と帰路につくのを待ちわびたようにすっくと立ち上がった。
マムートは枷が許す限り先行して、道の安全を確かめる。後ろをついてきているムギを振り返っては、満足そうに尻尾を振った。
ワトゥマはムギの隣にぴったり寄り添って、いつだって元気に揺れる尻尾を千切れんばかりに左右に振る。膝の後ろに当たるふわふわの毛がこそばゆくて、ムギの口からは小さな笑い声が転げ落ちた。
「ムギ様、ご機嫌ですの。ガイアス様とのお話、楽しかったですの?」
「え? ……うん、そうだね」
勘違いさせてしまったようだが、ムギは確か気分の高揚を感じていたので、あえて否定しなかった。
「わたあめちゃんが飛び出したときは、どうしようかと思ったけど……。今はそう……わたし…、楽しいって感じてる」
「ワトゥマ、お役に立てました?」
「うん、とっても!」
ワトゥマの口角が上がり、ぱっと笑顔が咲いた。嬉しさが暴走して、ムギに抱っこをせがむ。
こういうところも少しずつ躾けていかねばならないなと思いながらも、ムギはついついワトゥマを抱き返してしまう。ムギも甘いが、ワトゥマの嬉々とした笑顔はもっと甘く、愛おしさが込み上げるのだ。
ムギの腕の中で、ワトゥマはふんふんと鼻を鳴らす。
「ムギ様から、ガイアス様の匂いがしますの」
「えっ! な、なんでだろうぉ……? 天幕で一緒にいたからかなぁ!?」
可愛い我が子の心を汚してはならない。ムギは盛大にとぼけてみせた。
そんなムギの耳元に、ワトゥマはマズルを寄せる。
「ボタンをひとつ掛け違えていらっしゃいますの」
「えっ!」
大丈夫だとでも言うように、ワトゥマはゆったりと頷いた。いつものにっこり笑顔に、達観した雰囲気が見え隠れする。
「ワトゥマが陰になりますから、にに様が見ていないうちに、お直しくださいませ。さぁさ、どうぞですの」
「あ、ありがとう……」
もふもふの目隠しの後ろで、ムギは不恰好な胸元を正す。ワトゥマはなぜか、さっきよりもご機嫌だ。
「うふふぅ、春ですの」
「そ、そういうんじゃないからね……」
二章一話 終わり
二話「ムギ、偽装結婚する!?」に続く。




