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「ぐぬぬ……」


 美しく、品格あるスピッツ犬は、最後に深々と頭を下げた。


「わたくしどもは、人間はじめ他種族の良き隣人であるつもりです。犬の手が必要になりました際には、どうぞそのときこそ里にお越しください。必ずお力になりましょう」


 公爵家との間に遺恨を残さない気遣いまで見せて、マムートたちの母は腰を上げた。脚を引きずる彼女の両脇に、侍女のように二頭の妖犬が寄り添う。

 ムギとマムートは、彼らの帰路を拓くべく、地上への扉を開け放った。


「ああ……僕の犬たちが……」


 去っていく妖犬たちを引き止めることができず、ローディスはがっくりと項垂れる。

 そこへ真っ白な毛玉が、ぽんぽんと跳ねるように駆け戻った。


「ローディス坊っちゃま」

「お前は……」

「ワトゥマですの」


 傷心の彼を慰めるかのように、ワトゥマは大きな体全身でじゃれつく。


「ワトゥマ、そんな奴にくっつくな。早く帰るぞ」

「でも、にに様? ローディス坊ちゃまは悪いひとではないですの。とっても優しかったですの。ワトゥマも自分の口で、ちゃんとお礼が言いたいですの」


 くりくりと無垢な瞳を輝かせ、ワトゥマはにっこりと笑う。

 目の高さを合わせようと屈んだローディスの膝に前足を乗せて、ワトゥマは嬉しそうに尻尾を振った。


「お城のご飯、とーってもおいしかったですの。水浴びも気持ち良くて、楽しかったですの。ローディス坊ちゃま、ありがとうございましたですの。また遊びましょー」

「ぐぉっ……」


 ローディスの口から、強烈なボディブローを喰らったような呻きと、甘い吐息を混ぜた奇怪な声が洩れた。

 ときめく瞬間を、古典的な表現ではキューピッドの矢が刺さるなどと描いたりするものだが、今のローディスはまさにそれだ。

 真っ白もふもふの天使が、一撃必殺の矢を放った。しかもそれはローディスの胸を射抜くだけでは飽き足らず、関係のないムギにまで突き刺さる。


(ふぐぅ……っ! 生わたあめちゃんの可愛さ……天井知らず!)


 タイプは違うが、やはりムギとローディスは似たもの同士だ。


「ワトゥマよ」

「はい、ですの?」


 ローディスは鼻息荒くワトゥマの前足()を取る。


「正式に申し込む。うちの子にならないか」

()、でーすのー」


 ワトゥマの返答は実に簡潔で軽快だ。にっこり笑顔は変わらぬまま、ローディスのもとを離れて扉のほうへと一直線に駆ける。そこにいるのは、ムギとマムートだ。


「ワトゥマ、このお姉様と行くですの」


 ムギの太ももに鼻面を押し付けて、ワトゥマはぴったりとそばに侍った。


 懐っこいワトゥマに愛しさを募らせる一方で、ムギは痛いほどの視線を察知する。

 ローディスが恐ろしい形相で、睨んでいた。


「娘ぇ……貴様、僕からすべてのもふもふを奪うつもりか」

「ひっ……! めめめ滅相もございません!」


 ローディスの嫉妬に燃えた瞳に焦がされて、ムギは逃げ出した。ナルスとヴィゴーが前足を挙げて、「お達者で」と見守る。


「なにをしている、お前たち。あの娘を追いかけるぞ!」

「はあ……しかし、ご主人様。いったいなぜ?」

「なぜも、どうしてもない! お前たちばかりか、あの愛らしい妖犬(ワトゥマ)まで(たぶら)かすとは、あの娘はいったい何者だ!? 僕以上の妖獣使いか? そんな羨ま……違う違うっ――そんな危険な娘を野放しにしてなるものか」


 狼たちはやれやれと顔を見合わせて、しぶしぶ階段を昇る。ヴィゴーが耳と鼻で追跡し、ナルスはその背に主人を乗せて後ろを走った。



 ***



 城内は、常では考えられない混乱状態に陥っていた。

 初めはたった一頭の妖犬ピノを探していたはずが、次から次へと現れる姿形も様々な犬たちに、使用人たちは翻弄されている。


「ええい、もう妖犬はいい! いま用があるのは、空色の髪の娘だ!」


 すると侍従の一人が進み出た。


「そのお嬢さんでしたら、本日の保護獣人の中にいらしたはずです」

「名は! 出身は!?」


 ローディスは、前のめりに侍従を問い詰める。

 彼の気まぐれに振り回されるのは常のことだが、いつにない様子に、居合わせた者たちは少しばかり喜色を滲ませる。

 人外にしか興味のなかった彼が、ようやく人並みに異性に関心を示したのだと勘違いしたのだ。

 実際にローディスの心を占めるのは、ムギへの恋慕などという穏やかなものであるはずがなく、ましてそうと知れたら大変な怒りを買うに違いないのだが――。

 そんなことを知る由もない侍従は、喜ばしさのなかに残念がる素振りも加えて答える。


「申し訳ございません。旦那様のもとへ向かうところで、このような事態に陥りまして、まだなにも」

「まったく、ヴァルド家ともあろうに何をしておるのだ!」


 ローディスは城をぐるりと見渡せるバルコニーに出て、ムギの姿を探した。お目当ての空色の髪はすでに、城門を出ようとしている。

 口笛ひとつで、ナルスは大きく跳躍する。城門まで、ぐんぐんと距離を縮めていく。

 上空から迫る影に気付いた少女が目を見開くのと、ローディスが勝気に口角を持ち上げるのは同時だった。


 しかしそこにもうひと方、同じタイミングで二人の間に割り込むものがあった。

 青毛の馬で乗り付けた若者が、城門前で下馬するやローディスに跪く。


「先触れもなく失礼いたします。わたくしはリッシェル公爵家の伝令でございます。ヴァルド公爵閣下に、我が主人(あるじ)より書状を預かって参りました。何卒、お取り継ぎ願い申し上げます」


 リッシェル家といえば、ヴァルド家とともにノルファリア三大公爵家として名を列ねる名家である。その家長同士が、緊急で連絡を取り合いたいとなれば、並々ならない事態が起きたのであろうとは誰の目にも明らかだった。

 公爵の手が空かぬとなれば、本日予定されている獣人の保護は、父に代わってローディスが担うことになるのも至極当然の成り行きで――悔しいかな、ローディスは目の前の少女にあとわずかで手が届かない。

 その隙を逃さず、空色の髪は妖犬たちを引き連れてイローネの街中へ消えた。


 リッシェル家の伝令を侍従に任せ、ローディスは賑わう通りを見やってほぞを噛む。捕えられたなら、いろいろと聞き出して、ワトゥマに気に入られる理由も解明しようと思ったというのに――悔しさを募らせた。


「いやいや、驚きましたなぁ」


 仕方なく踵を返そうとしたローディスの耳に、楽しげな声が滑り込む。

 振り返ると、二人の年嵩の男がにこやかに話しながら、城へ向かってくるところだった。一人は人間で、もう一人はうさぎの獣人だ。


「あれだけの妖犬を引き連れて、どうしたんだろうか」

「なんとも不思議なお嬢さんだ」


 賑々しい通りを振り向く彼らは、名残惜しそうに目を細める。


「今度こそ、お礼をさせてほしかったのに気付いてもらえず残念だよ」

「仕方がないさ。今日も目をみはる走りぶりだったから」

「はっはっは! それは違いない」


 ローディスは男たちに詰め寄った。


「おい、お前たち! あの娘を知っているのか!」

「なんと――!」

「これは、これは、ローディス様……!」


 男たちは跪いて、身分を明かした。人間のほうはユナの町を治めるもので、獣人はその友だという。

 彼らはリーヴェのカポル農家を代表して、品評会開催の報せを持ってきたと語った。


「ご苦労。今年のカポルの出来を閣下も楽しみにしておられる。……して。あの娘は何者なのだ」


 獣人の男と顔を見合わせてから、ユナの町長は言葉を選びながら答えた。


「公爵家の皆々様のお耳には、少々お聞き苦しいことかと思いますが――。つい先日、カポルが原因でいろいろとございまして」


 人間同士の揉め事で、すでに解決したと彼は語る。


「その際に、力を貸してくれた少女なのです」

「名はなんというのだ」

「それが……とても慎ましいお嬢さんで、名乗ることもなく去ってしまったのです。ああ、ええ、そうそう――。せがれなどは、〈麦穂の乙女〉様などと呼んでおりますよ」

「麦穂の乙女?」

「ええ。こう、謙虚にぺこりと頭を下げる姿が、実りに揺れる麦のようだと」


 男たちは再び顔を見合わせて、その光景を思い浮かべるように微笑を浮かべて頷く。ユナの町では、相当慕われているらしい様子だ。

 ローディスは何やら面白くなく、奥歯をぎりぎりと噛み締めた。


(おのれ、麦穂の乙女……この屈辱……忘れんぞぉ……!)



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