大津麦、ありえない裏切りで人生終了。
「大津麦。この度あなたは、二十五年の生涯に幕を閉じました」
ああ、やっぱり――。
わたし……死んだんだ。
あんなことがあって、そのまま……。
「しかし幸運なことに、あなたはわたしと出会えましたね」
幸運かどうかは、わたしの感じ方次第なので、勝手に決めないでほしい。
はっ。すみません。ちょっと心がささくれだって、偉そうな口聞きました。心の中でですけど。
すみません、あの……痛いお仕置きとか、されますか……?
「あなたをこれから、第二の人生にご招待いたします。わたしは変換の女神。死に際の後悔を、次の人生に持ち越すことのないよう、力に変換して授けましょう」
カランカランと、鐘が鳴る。
聞き覚えのある、そしてわたしを苛む鐘の音だ。
ああ、やっぱり幸運なんて大嘘だ。これが大当たりだって言うなら、きっとこれから起こることもろくでもないことに決まっている。
***
人生は、あなたが主役の物語だ。
いかにも使い古された感じの言葉が、ふとわたしの頭をよぎった。
「大当たり! 沖縄三泊四日ペアチケット!」
「にこにこ商店街」と名入れされた、おめでたい紅白の法被に身を包んだおじさんが、高らかに告げる。
商店街のアーケードの下、これでもかと振り鳴らされる鐘の音に、帰途を急ぐ勤め人も何事かと振り返る。小さな世界の中心に、このちっぽけで取るに足らないわたしが、おめでとうの嵐とともに立たされていた。
「あ、あ、あ、あのっ!!」
おじさんの手首を、無我夢中で掴む。打ち鳴らされていた当たり鐘が、戸惑いながら口を噤んだ。
「やっぱり要りません! すみません、失礼します!」
「えっ、お姉さん。ちょっと――! ええぇ?」
フェルト生地の引かれたトレーに転がった金の玉をおじさんに突き返して、わたしはその場から逃げ出した。
(ごめんなさい、ごめんなさい。一等が欲しいわけでもないのに、引いてしまってごめんなさい)
三等の新米五キロが欲しくて福引きに並んだ。三等の玉は赤。わたしの今日のラッキーカラーも赤。きっと当たりを引けると思っていた。
実際に出たのは、大当たりだった。
正直、金の玉を目にした時は、思わぬ幸運に心踊ったものだ。けれど鐘の音が鳴り響いた途端に血の気が引いた。まるでミステリードラマのクライマックス、探偵が真犯人を言い当てた瞬間のように、人々の目が一斉にこちらを向く――その羞恥にわたしは堪えられなかった。
わたしの人生はわたしのものだけれど、主役になんてなれなくていい。名前も知らない通行人A、或いは名もなきモブの一人として、目立たずひっそり生きていたいの!
◇ ◇ ◇
涼しくなってきて、エアコンをつけずに過ごせる日も増えたけれど、夕立の後のアスファルトから立ち昇る熱気はまだ夏の名残りを感じさせる。
そんな中を慢性運動不足の私が長いこと走れるはずもなく、アーケードから五十メートルほどのところで限界が来た。
「はあぁぁあ……」
ため息か深呼吸か分からない息が零れてしまった。
立ち止まった途端に、じっとりとした汗が首筋から胸元へ伝う。カットソーの胸元が肌に張り付いて、どうにも気持ちが悪い。
ハンカチで汗を拭うわたしを、すれ違う人々が横目に眺めていく。
もしかして「一等当たりくじ引き逃げ女」とでも背中に書かれていたりする?
一生懸命、体を捻ってみたけれどわからない。
「変な女だ」
「非常識だ」
きっと、そんなことを言われているんだろうな。
ああ、またやってしまった。こんな後悔をするくらいなら、逃げないで羞恥に堪えたほうが良かったんじゃないかだなんて思えてくる。
いや、だけどちょっと待って。そもそもわたしなんかに大当たりなんて来るはずがないとも思う。つまりあれは誰かの仕掛けたドッキリで、喜ぶわたしを観察して嘲笑っていたりしたのかもしれない……。
被害妄想はぐるぐると暗い方にばかり転がっていく。
タイムカードを切って勤め先の印刷所を出た時は、こんな気持ちじゃなかったのに。
シルバーウィーク直前の浮き立つ空気に飲まれた上司が、終業時間を一時間も繰り上げてくれて、今日はついてる、と思っていたくらいだ。……そもそも、ついてるなんて思ったから福引に手を出したんだった。
ああ、だめだ。もう最初から詰んでいた。
「はあぁ……」
私、大津麦二十五歳は被害妄想激しめのネガティブ武装女子だ……年齢的に女子は厳しくなってきたけれど、いい語呂が見つからないので、今のところはこれで勘弁願いたい。
この性格ゆえにいつだって、やっても後悔やらなくても後悔を引き連れて、人生を歩んでいる。
(明日からは家を出る時間を早めよう。遠回りになるけれど、商店街を避けて通勤しなくちゃ……)
そう思いながらも、わたしは悶々と考える。
(でも急に姿を見せなくなったら……逆に噂されたりするかしら……いやいやでも)
ほら。これがわたし。「でも」「でも」の応酬に自分でもうんざりしている。
でも、でも、変われない。
「はぁ……とりあえず帰って考えよう」
一週間分のお野菜が入ったエコバッグを、肩に掛け直す。二人分だと結構重たいけれど、今はその重たさが、しんみりした気分を根っこから支えてくれていた。
五年付き合った恋人の卓弥と、同棲を始めて三ヶ月。些細なことですぐに自信を失くすわたしが、なんとか腐らず踏みとどまっていられるのは彼の存在が大きい。
どんな時も大らかに包み込んでくれる彼といると、こんなわたしでも愛されていいんだと許された気持ちになれる。
両親とも良い関係を築いてくれていて、彼と帰省するのが当たり前になって久しい。
みんなで過ごすと家族っていいなって思えて、その時だけはわたし……本当に幸せで、恵まれてるなって思えるの。
(よーし。今日は、たくちゃんの大好きな根菜たっぷりおからの炒り煮を作ろう!)
それで家事も一段落したら、お気に入りの小説を読みに小説投稿サイト「エブリワンスターになろうα」に行くんだ。
今ハマっているのは『虐げられ熟女ですが、なぜか獣の王子に求愛されて幸せ余生に片足突っ込んでいます』――。
大好きなクリエイター 水無月あやめ先生の作品で、作り込まれた世界観が本当に魅力的。公開から毎日休まず更新されているのも、日々の活力になっている。続きを読むために、一日がんばるぞと思えるの。
(そろそろ主人公の更年期フラグが回収されそうなんだよね。水無月あやめワールドはどう展開していくんだろう。ああ早く更新時間にならないかなぁ!)
気持ちを立て直して、奮然とスニーカーを鳴らす。やがてぬるい空気の向こうに、愛しの我が家が姿を見せた。
築三十年の安アパートは、外階段も雨ざらしで所々腐食が見られる。雨上がりは滑りやすいので手すりを使うけれど、うっかりすると剥げた塗装で手を切ったりするので注意が必要だ。
階段を上がったそばの部屋が、わたしとたくちゃんの住まいだ。
たくちゃんは夜勤の入りだから、今頃はもう病院にいるはず。いないとわかっている時でも、つい「ただいま」って言っちゃうのはどうしてだろう。「おかえり」って声まで返ってくる気が予感がする。
頬が緩むのを感じながらドアの前で鍵を探していたわたしは、何かおかしなことに気がついた。
少しの違和感に注視すると、玄関ドアの脇……台所の換気窓が開いている。
たくちゃんったら、閉め忘れ?
いや……何か違う。
中で、ひとの気配がする……?
慎重に窓の下に寄って耳をそばだてると、男二人分の声が漏れ聞こえてきた。
(うそ、うそっ……空き巣!? 冗談でしょう!)
途端に心臓が激しく鳴り出した。
男が部屋に侵入している! それも二人組!
わたしはトートバッグのスマホに手を伸ばす。
ああ、もう! どうして、こんな時に限ってなかなか見つからないんだろう。
やっとの思いで手にしたスマホに、震える指をかざす。百十番って何番だっけ――とベタなパニックに陥っている間に、室内の声は何か言い争う様相を呈し始めた。ヒートアップしているようで、二者の声を聞き分けられるまでになっている。
一人は少し鼻にかかった甘みのある若い男……。もう一人は落ち着いた渋みのある中年の声だ。
(あれ?)
ちょっと、待って。通報、待とう。
聞き覚え……というか、耳馴染みのある声に改めて耳をそばだてる。
……?
やっぱりどう考えても、若い男のほうはたくちゃんで、中年男性のほうは私の父の声としか思えない。
困惑する私と壁一枚隔てて、二人のやりとりが鮮明に聞こえてきた。
「お父さん、もう一度話を聞いてください」
「これ以上なにを話すことがある。麦との結婚なら反対はないさ。娘を幸せにしてやってくれ」
ちょ、ちょ、ちょ、ちょ……えっ!?
わたしのいないところで、何かすごく踏み込んだ話をしてる!?
「しかしね。マスオさん同居だけは、認めたらいけないんだよ」
「どうしてですか! 一緒に暮らしたら、みんなで楽しくやっていけるでしょう!」
たくちゃんは、わたしの実家が相当居心地がいいらしく、結婚したら両親と同居したいと言っていたけど、本気だったんだ。
そしてお父さんは、その関係をマスオさん同居って言うんだね……初めて聞いたよ。
「卓弥くん、君が思うほど甘くはないよ。今だって危うい橋を渡っているというのに、同居なんてしたらどうなるか……」
「わかってます……俺だって麦を悲しませるつもりはないんです。ちゃんと幸せにするって決めてます! でも……、でもっ。お義父さんのことだって!」
ん――?
「もう、やめてくれ。麦の幸せを望むなら、わたしたちは終わりにしなければいけないんだ……失礼するよ」
「待ってください! 今夜のためにシフトを誤魔化して時間を作ったんです! もう一度、場所を変えてよく話しあいましょう!」
「わたしだって……わたしだってな……本当は……っ! すまない……わかってくれ」
「嫌です! 帰しませんよ!」
ちょ、ちょっと待って。
あの、えっと、つまり――?
事実確認のため窓から顔を突っ込みたいところだけど、押し問答がドアのそばまでやってきている。
待って。待って待って!
これ表に出てくるパターンかな!?
隠れなきゃ……! いや、逃げないと――!?
動転していた。
ほんの数秒。いいや、きっと一瞬のことだったけれど、わたしの頭の中では多くの言葉が駆け巡って、目に映るものも見えているようで見えていなかった。
注意力――なんてものは当然、意識から弾き出されて、外階段が濡れていることはすっかり忘れていた。
擦り減らしたスニーカーのソールが空滑りして、見事に階段を踏み外した。
股関節がへんに伸びて嫌な痛みを感じたのも、咄嗟に手摺りを掴んだ手に塗装のささくれが刺さるのを感じたのも、一瞬のことだった。
鈍い音と何かが弾けるような衝撃を感じたのが、最後――痛みはなかった。
ただ意識だけが体から切り離され、ふわふわと漂っている感覚があって、それすらも少しずつ遠のいていくのがわかった。
聞こえてくる声や音が、やけに鮮明に聞こえて……。
たくちゃんもお父さんも、私が立てた音になんか全然気付かないで、言い合い……いや、痴話喧嘩している。
薄い本だったら、仲直りして熱い抱擁からのキスくらいには持ち込めそうな雰囲気だ……。
実父と婚約者の恋物語……そんな特殊なジャンルが、身近にあったなんて驚きだよ。需要あるかな、それ。
そうか。
わたし、
信じていた二人に裏切られてたんだ。
浮気はわかるよ。わたしみたいな魅力の薄い暗い女……優しいたくちゃんだって、目移りしてどこかに行っちゃう時があるかもしれない――って説明がつけられるよ。
だけど、あんまりじゃない? 相手が実父って……。
お父さんも、酷すぎるよ。こんなの、家族会議……いや、家庭内裁判必須だよ。そこにわたしは参加できないだろうけれど。
消えかける意識の中で、解けもしない問いが浮かび上がる。
どうして?
いつから?
そして――。
「どっちが……受け、なん、です、か?」
その言葉を最期に、わたしの意識は遮断され、とうとう何も聞こえなくなった。