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 朱莉の直訴を、意外にもお狐様はあっさり受け入れた。


「君のことをもう少し調査する時間がほしい。その間は國の用心棒でもある龍海に君の監視を任せよう。大丈夫。きっとすぐに詮議も下りるよ」


 笑顔で告げたお狐様がパンと手を叩き、引見は幕を閉じた。

 歓喜の笑顔を浮かべる朱莉と、困惑するあやかしたち。

 何より監視役に指名され、大変不本意そうな龍海をその場に残して。


「……」

「……」


 そして今朱莉は、男の背中を無言で追いかけていた。

 どうやら、これから閉じ込められる獄に案内されるらしい。


 木造の廊下は照明がなく、まるでどこまでも続くトンネルのようだった。男が手に持つランプだけが視界を照らす唯一の頼りだ。

 何度か階層を上がってきて、恐らくここは七階。獄があるのは経験上地下が多かったので、少し意外に思う。

 足元にまとわりつくドレスを蹴り上げるのにもだいぶ慣れてきた。さわさわとドレス裾が床を擦る音を聞きながら、朱莉は前を行く着物姿の男を見る。


 体つきは少し華奢なのに、背は意外と高い。

 しなやかな筋肉と幅の広い肩、少し太めの首。

 どれも朱莉にはないものばかりで、胸がいたずらに騒ぐ。

 唯一ある共通点と言えば、背中にかかるほどの黒の長髪だろうか。


 とはいえ、花嫁になり損ねた自分の髪は無造作に背中に落ちているのに対し、彼の髪は後頭部で綺麗に結われている。


「龍海様。先ほどは危ないところを助けて頂いて、本当にありがとうございました」


 返事はない。朱莉は構わず続ける。


「湖面に身を投げたときは死ぬ覚悟を決めたはずでしたが、助けて頂いたときは心の底から嬉しいと思いました」

「……」

「それとその。助けて頂けたのが、貴方のような素敵な殿方だったことも。私にとってはこの上ない幸せです」

「俺に取り入ろうとしても無駄だぞ」


 振り返らない背中から届いた声には、至極平坦な声色だった。


「同世代の男なら話を通しやすいと踏んだのかもしれないけどな。俺にそういった計略は通用しない」

「計略……?」


 言葉を咀嚼し、頬にじわりと熱が集まる。

 確かに、自分からこんな風に殿方に話しかけることは今までほとんどなかった。


 指摘の通り、自分はこの人に好かれるため計略にかけようとしていたのか。だとしたら確かに浅はかだ。


「申し訳ございません。不快な思いをお掛けしました」

「わかればいい」

「あの。それでは最後に一つだけ、確認させて頂いても?」

「手短にな」

「龍海様は、私を食して下さるお気持ちはございますか?」


 男の歩みが止まる。

 背中に突っ込みかけた朱莉は何とか踏みとどまり、視線を上げた。


 ゆっくりと振り返った男の端整な顔立ちに、不謹慎にも胸が鳴る。


「最初に助けたときにも、その言葉が出たな」

「はい。覚えていらっしゃいましたか」


 視線を交わしての会話が嬉しくて、つい弾んだ声が出てしまう。


「俺は人間だ」

「ああ、やはりそうでしたか」


 そうじゃないかと思っていた朱莉は、小さく頷いた。

 先ほどの広場に集まった大勢の中で、恐らく龍海だけが朱莉以外の唯一の人間だった。

 とはいえ類い稀な美しさが備わっているのは変わりない。実はあやかしだと聞いても特段驚かないほどだ。


「知っているならこの問答は無意味だろ。俺は人間など食べない」

「え? ですが、殿方は気に入った女子を美味しく食すのだと聞いております」

「どこで受けた教育だ、それは」


 男は嫌そうに顔をしかめ、再び歩き出す。

 慌てて付いていきながら、朱莉は記憶を遡っていた。


 今の教えは、いつからか朱莉につけられてきた家庭教師から受けた。

 殿方は女子を選び、女子は選ばれることを誉れとする。選ばれた折には、殿方はその女子を食らう。それに女子は喜びを感じるべし──と。


 最初は理解に苦しんだその教えだったが、殿方に見初められる話はすでに本の中で山のように目にしてきた。


 恋、というらしい。


 相手を思うと喜びとともに胸が苦しくなる感情。

 物語の中で想いを通じ合えた二人は、皆一様にとても幸せそうだった。

 本の中でしか出逢えない感情に、長年朱莉は秘かに憧れを抱いていた。


 突然開催された見合いの席で、下卑た視線を一身に浴びるまでは。


「それで知ったのです。食される相手の殿方を好いていなければ、感じるのは嫌悪と恐怖だけだということを」

「……」

「ですが私、失念しておりました。それはきっと、殿方とて同じことですね」


 自分が相手を好いていたとしても、相手が自分を好いていなければ一方的な気持ちの押しつけになる。元婚約者が自分に無体を強いようとしていたように。

 早い内に気づけてよかった。


「申し訳ありませんでした、龍海様。無礼をお許し頂けますか」

「色々と言いたいことはあるが、今はいい。俺は別に怒ってはいない」

「ありがとうございます。龍海様はお優しいのですね」

「あんたの優しいの基準は随分と浅いな」

「そんなことはありません。殿方によっては、何度か頬を張られてもおかしくないことですから」


 再び、男は嫌そうに顔をしかめた。

 進む廊下には、徐々にほのかな明るさが戻ってくる。


「人間界は時代が巻き戻ったのか? 俺の記憶が正しければ、戦後はとうに脱して今は令和という年号だと思ったが」

「その通りです。私が長年置かれていた環境が、少々特殊だったようでして──」


 突き当たりの廊下を曲がる。

 その先に広がる窓の外の光景に、朱莉は目を奪われた。


 コンクリートで舗装された車道も、そこを駆け抜ける自動車も、電柱や電線もない。

 木造と瓦屋根で作られた家屋に包まれた街が、そこにはあった。


 どこか懐古的な建物が各々積み重なるように階層を伸ばし、互いを支え合うように立ち並んでいる。

 街のあちこちにはランプや提灯が掛けられ、旧式のモノレールは建物の間をゆっくりと移動していく。

 遥か下には細い石畳の道が見えた。そこを駆けるあやかしたちは一様に着物をまとい、子どもたちは無邪気な笑顔を浮かべている。


 まるで一枚の絵画のようだ、と朱莉は思った。


「おい」

「……はい」

「何故、泣いている?」


 静かな指摘を受け、朱莉は頬をくすぐる雫の感触に気づいた。

 慌てて頬を擦り、窓枠にそっと手をかける。


「も、申し訳ありません。お見苦しい姿を……っ」

「この國は人間界と比べて文明にかなりの遅れがある。泣くほど落胆しても不思議はないが」

「まさか! その逆です」

「逆?」

「まるで夢の中にいるみたいに、美しい街だと思えたんです」


 目の前の風景を、再び見つめる。


「今までずっと、本を読んでは未来を空想してきました。今居る場所を出た先に広がっているはずの、幸福で美しい世界を」


 窓ガラスに触れない程度に、そっと手のひらをかざす。

 恐らく自分はこのまま投獄される。外の世界に出ることは叶わないだろうけれど。


「この世界は、その空想の中のどの風景よりも美しい街です」

「……」

「望まない婚姻から逃れ、素敵な殿方に助けられ、こんなに素敵な街並みを望むことができました。私は、本当に幸せ者です」

「……この部屋だ」


 うっとりと微笑む朱莉を横目に、男は突き当たりの部屋のふすまを開いた。

 一瞬目を瞬かせた朱莉は、開けられたふすまの部屋をそっと覗きこむ。


 その部屋は、品良くしつらえられた和の一室だった。


 ふすまは円を象った枠の中に鶴の絵が模される上質なものだ。敷かれた畳は手入れが行き届いているのが分かり、ほのかに優しい藺草の香りがする。

 床の間には大きな黒い花瓶に美しい花が挿されていた。当然生花だ。


 誰かが用意してくれたのだろうか。でも一体何故?


「あんたはどうやら自分が捕虜になったと思っているようだが、それは違う。捕虜でもないが客人でもない。強いて言えば、行きずりの旅人だ」

「え?」


 驚きに声が途切れる。


 十五年間、特に理由がなくとも養親からは自由を与えられなかった。

 それが、つい先ほど初めて面通しした人間にこんな上等な部屋をあてがうなんて。朱莉の経験ではまず考えられないことだ。


「お狐様は、あんたが今まで関わってきたような下賤の輩とは違う」


 首をもたげる朱莉を見かねたらしい。


 部屋へ入ると、男は閉ざされていた窓の引き戸に手をかけた。中のガラス戸も開く。

 瞬間、後頭部で結われた男の長髪がさらりと風になびいた。


「寒くなければ、この窓は開けておくと良い。今日は特に天気も良い」


 背に淡い陽を浴び振り返る姿に、朱莉は目を奪われる。


「布団はこの押し入れにある。手洗いはこの廊下を真っ直ぐ行った突き当たり。隣には簡単な調理場もある。水も食器も好きに使って構わない」

「……はい」

「お狐様が、あんたの見回り品を見繕うといっていた。用意が出来次第また来る」

「はい。重ね重ねありがとうございます、龍海様」

「……その呼び名も改めろ。俺はただの用心棒だ。敬語も不要だ」

「そんなわけには参りません。龍海様は私の命の恩人ですから」

「ならせめて様付けはやめろ。どうも性に合わない」

「では……龍海、さん?」


 恐る恐る呼ぶと、龍海は困ったものを見るように口角が動いた。

 もしかしたら今のは──笑ってくれたのだろうか。


「一応言っておくが、あんたはまだこちらの信用を得たわけではない。妙な動きを見せれば報告が入るし、事の次第によっては捕虜となることは覚えておけよ」

「はい。それは当然覚悟しております」

「そうならないことを祈る。俺は女をいたぶる趣味はないからな」

「それはつまり……女子を食べる趣味も?」


 思わず蒸し返してしまった話題に、龍海の動きが一瞬止まった。


「よく考えてみろ。本当に食べられたら痛いし、あんたも只じゃ済まないんじゃないだろう」

「しかし、痛くとも苦しくとも我慢をするものだと。それが女子の幸せなのだと……」


 ため息とともに、龍海の視線がすっと鋭くなる。


「あのな」

「きゃ……っ」


 次の瞬間、気づけば朱莉の両手首は捕らえられ、体ごと壁に押しつけられていた。

 驚愕に目を見開く朱莉に、陰った龍海の顔が間近に迫る。


 至近距離から見下ろしてくる黒の瞳に、胸が大きく音を鳴らした。


「男相手にその発言は、いささか問題だな」

「あ……」


 押さえつけられた手首が、びくともしない。

 いとも容易く封じられた動きに、小さな恐怖心が過った。


 元新郎からは下卑た視線を送られはしたが、こうして直接的に押さえつけられたことはなかった。


「恐いだろう」


 諫めるような低い言葉が降ってくる。


「これが、今あんたが口にしていた『食らう』の、ほんの前段階だ」

「っ、はい……」

「わかったなら、今後不用意な発言は控えることだな」


 素直に頷くと、捕らえていた手首がそっと離された。

 ほんの短い時間だったにもかかわらず、手首にはまだうっすらと他人の熱が残っている。


 ドキドキと、心臓が五月蠅い。


「とんだ偏った教育を受けてきたようだが、そんなものは幸せでも何でもない」

「そう、なのですか?」

「力で相手をねじ伏せ欲を遂げるのは、下賤以下の獣の所業だろ」


 吐き捨てるように龍海が言う。

 その瞳には、下賤以下の獣がすぐそこにいるかのような憎しみが込められていた。


「それにまさかあんたも、本気で俺に食べられたいと思っているわけじゃないだろう」

「いいえ。それは違います」


 朱莉はすぐさま首を横に振った。


「私は龍海さんになら、本気でこの身を捧げたいと思っています。これは偽りのない真実です」

「……それはそれで問題だな」

「問題、なのですか?」

「大問題だ」


 はあ、とあからさまなため息を吐く龍海に、朱莉の胸が嫌な音を立てる。

 もしかしたら、呆れられてしまっただろうか。それどころか嫌われてしまった? だとしたら、もう二度と会えないかもしれない。


 この十五年間、朱莉の前に現れた世話係の人たちの中には、その境遇に親身になってくれる者もあった。

 しかし結局はその全員が朱莉を見限り、ことごとく姿を消してしまっていたのだ。


「まあいい」


 そう言うと、龍海は何食わぬ顔でふすまに手をかけた。


「先ほど言った生活用品を取りにいってくる。あんたは部屋でくつろいでいろ」

「ま、またここに来て下さるのですかっ?」


 慌てて言いすがると、龍海が妙なものを見る顔で振り返る。


「そう言っただろう。お狐様にも、あんたの監視役を仰せつかっているからな」

「ですがその、龍海さんは無知な私に、呆れられたのでは?」

「あんた自身に呆れたわけじゃない。今までの境遇が、あんたに必要な知識を与えてこなかった。それだけのことだろう」


 淀みなく告げる。龍海の目に嘘はなかった。


「わからないことはこれから知ればいい。幸いあんたは素直だし好奇心も強そうだ。お狐様に反旗を翻さない限りは、俺も協力しよう」

「本当ですか!」

「ああ」


 不安が晴れ、ぱっと笑顔が咲く。

 そんな朱莉に呆気に取られた龍海だったが、すぐに調子を戻した。


「取り急ぎ、最初の教えだ。さっきのような食べてほしいという発言は二度と男に向かってするんじゃない。中には本気にしてあんたを食らう奴もいるんだからな」

「? 私、龍海さん以外には言うつもりはありませんよ? 私が身を捧げたいと思ったのは、龍海さんただ一人です」

「……俺に対しても、駄目だ」

「でも」

「この話はこれで終いだ。俺は行くぞ」


 それ以上の反論を待たず、龍海は部屋を後にした。

 何か釈然としないものを感じつつも、朱莉は廊下まで出て龍海の背中を見送る。

 部屋に戻ると、じわりと熱を帯びる頬に両手を添えた。


「はあ……こんな幸せ、あっていいのでしょうか……?」


 夢の中じゃないだろうか。

 頬をつねろうかと思ったが、万一夢が覚めては困るので辞めておく。


 十五年間閉ざされた牢獄で、自由に触れられるのは書籍だけだった。

 閉ざされた世界に生きてきた自分にとって、今居る世界のなんと眩しいことだろう。


 龍海が開けていった窓辺に寄る。

 夕焼けが落ちたらしい夜の國に、ランプの温かな光がまるで星空のように灯っている。

 天の川に浮かんでいるようだ、と朱莉は思った。


 ずっと眺めていたい。焦がれて仕方がなかった、美しい外の世界を。


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