10
辿り着いた先は、外出時にも訪れた小さな踊り場だった。
ここなら朱莉の部屋からも比較的近く、街も一望できる。
眼下の街はすでに日が落ちかけ、人通りも多くはない。
昨夜はあちこちに灯っていたランプの明かりはやはり少なく、街全体が濃紫の影に包まれつつあった。
「つい先ほどまで床に伏せていた人間が、無謀じゃないのか」
後ろに立つ龍海は渋い顔をしている。
心配してくれているのだ。その事実がまた嬉しく、胸がくすぐったくなる。
「大丈夫です。龍海さんがそこで見守ってくださるのなら」
「……手元が狂って大火事なんてことにはならないようにな」
「はいっ」
はにかみながら頷いた朱莉は、そっと意識を集中させる。
両手を皿のように眼前に差し出すと、白い光の粒が集まっていく。火種たちだ。
ふっと息を吹きかけると、たちまち光の粒は赤い火となり辺りに浮遊した。
きらきらと瞬く様は、いつ見ても天の川の流れのように美しい。
集まってくれてありがとう。
「さあ、この街を照らしておいで」
今一度、朱莉がふっと吐息をかける。
すると火種たちは、流れ星のように街のあちこちへと落下していった。
しばらくすると、徐々に街並みに明かりが灯り、昨夜見た夜の風景が浮かび上がってくる。
「すごいな」
いつの間にか隣に歩み進んでいた龍海の言葉に、自然と笑みが漏れた。
「これで大丈夫です。火は短くとも三日三晩は持ちましょう」
「そうか。住民たちも助かるだろう」
「お役に立てたのなら嬉しいです」
「ああ。ありがとう」
ありがとう。
龍海の何気ない言葉が、朱莉の胸に明かりを灯す。
この言葉だけであとひと月は生きていける。そんな気がした。
「あんたに一度、詫びを入れたいと言っていた」
「え?」
「クロキチやタマキの母、それに近隣の住民たちがな」
目を瞬かせる朱莉に、龍海は肩をすくめる。
「俺は不要だと言ったが聞き入れなかった。悪人と決めつけて街中で罵ったにもかかわらず、あんたは街を守った。そのことを詫びて、礼を言いたいと」
「そ、そんな! 私はただ、自分が守りたいものを守っただけで……!」
「あんたが拒否しても止まらない。あいつらもなかなかに頑固だからな」
龍海は鉄柵に肘を置き、街を見下ろす。
促された先に視線を落とすと、お狐様の屋敷の門前には溢れるほどの住民たちが集っていた。
朱莉が今しがた灯したばかりのランプを持つ者もいる。
「朱莉様! この度の数々の無礼、どうかお許しくだされー!」
「ク、クロキチさん!?」
第一声を放ったのは赤ら顔の大柄な鬼──クロキチだった。
続くように、地上の群衆からわあっと声が上がる。
「朱莉様! この街を救ってくださってありがとうございます!」
「お狐様にも、今回の朱莉様の御慈悲は余すことなくお伝え致しました!」
「姉ちゃーん! ランプの火をつけてくれて、どうもありがとうー!」
一斉に向けられる、詫びと礼の言葉。
その温かさに、朱莉は呆然とした。
徐々に心に沁みていった感情に、朱莉はふらりと手すりに寄り掛かる。
「おい。あまり身を乗り出すな。危ないぞ」
「こんなふうにお礼を言われる日が来るなんて……思ってもみませんでした」
熱いものがこみ上げてくる。
じわじわと沁みてくる温かな感情が胸いっぱいに広がって、息が苦しくなっていく。
自分の内側にこんな感情が残っていたなんて、知らなかった。
「あんたが望むなら、ここを棲み家にしたら良い」
静かに告げられた言葉に、一瞬の間を置いて振り返る。
「この國に害を成せば遠慮なく追放するところだが、その素振りもない。人間界に返す方法もなくはないが、あんたは向こうの生活には未練がない様子」
街に散りばめた橙の灯りが、そこに佇む男の姿を淡く映し出していた。
次第にその凜々しい輪郭が歪み、目もとに熱が帯びていく。
「明朝お狐様の詮議が下りる。そこであんたの意向を聞かれるだろう。それまでに心を決めておくことだ」
「っ……あ、あり……」
ああ、駄目だ。声が出ない。
目尻まで溢れた涙はそのまま頬を伝い、喉は小刻みに震える。
せめて嗚咽を抑えようと口を結ぶも、押し寄せる感情の波にそれも無駄な抵抗に終わった。
顔を伏せ両手で覆った朱莉に、頭上で僅かに動揺する気配が届く。
龍海さんを困らせている。早く泣き止まなければ。
「え……?」
顔を濡らす涙を急いで拭っていると、頭に何かが触れたことに気づいた。
温くて、少し固い。
龍海の指先だった。
「龍海さん……?」
「あんたが今までどんな人生を歩んできたのかは知らないし、聞き出すつもりはない。それでも、本来負う必要のない苦労をしてきたことは分かる」
「……っ」
「今までよく頑張ったな。朱莉」
ああ。また名前を呼んでくれた。
お狐様に呼ばれたときとはまた違う喜びを感じながら、朱莉はそっと目を閉じる。
この街で過ごすのも、一瞬の夢幻のようなものと思っていた。
しかしもう少しだけ、夢を見ていてもいいのだろうか。
「ありがとうございます。龍海さん」
「あんたは礼を言ってばかりだな。少しは褒美をねだってもいいほどだ」
「……では褒美として、私のあの願いを聞き入れてくださる気は?」
「……冷えてきたな。そろそろ部屋に戻るぞ」
うっとりするような手の感触が離れていく。
背を向けた龍海が踊り場から建物の中へと戻っていくのを、朱莉は笑顔で見送った。
冗談でも気の迷いでもない。
土蜘蛛に食われかけた瞬間さえも、やはり自分は思ったのだ。
食べられるのならば、やっぱり龍海さんがよかった──と。
屋敷前の住民たちに深く一礼し、朱莉も踊り場を後にした。
自ら灯した明かりで彩られた地下ノ國の街並みは、この上ない贅沢な光景に思えた。
終わり




