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 灰色に染まったドレスが、幾度となく膝元を擦った。


 首元に瞬く宝石は不格好に外れ、清楚にまとめた髪は所々ほつれている。

 それでも來島(きじま)朱莉(あかり)は、教会から伸びる通りをただ無心で駆け抜けていた。


「ウエディングドレスって……こんなにも、重いのですね……!」


 世の花嫁達は皆、こんなにも動きづらい纏いで人生最高の笑顔を浮かべているのだろうか。

 知らなくてもよかった現実を、自分はまたひとつ知ることができたらしい。

 建物が多くなり、次第に人がちらほら見えるようになってきた。


 休日は老若男女が集うらしい、東京の街の一等地。

 それでも今はまだ朝早い。出歩く人は恐らく店に出勤する人たちなのだろう。

 時折投げかけられる他人からの好奇の視線は、特段気にならない。


 この呪われた結婚から逃れるためなら、笑いものにでも何でもなる。

 そう決めて朱莉は教会を飛び出したのだ。


「あっ」


 追っ手の気配がする。

 咄嗟に選んだ先は、進入禁止の札がかかった脇道だった。

 ドレスの裾が標識に引っかかったが、適当に燃やし破り捨てた。このドレスだって、朱莉が好んで選んだわけではない。


 抜け出た先は工事道具が放置され、まばらに雑草が茂る空き地だった。

 人の気配はない。乱れに乱れた吐息を何とか整えていく。


「はー……つ、疲れましたね……」


 心臓が胸をどんどんと叩いて、痛い。


 今日の日を迎えるために、すっかりなくなっていた体力を可能な限り戻しておいた。

 それでもやはり、ウエディングドレスでの全力疾走は酷く身体が疲弊する。

 十五年間ろくに屋敷から出されなかったのだ。これでも次第点は優に超えているだろう。


「さて、どうなるのでしょうね。運良く生き延びられるか、早々に連れ戻されるか……」


 落ち着いてきた鼓動にそっと胸元を撫でつつ、朱莉は困ったように笑った。


 連れ戻された先に待つもの。それは死だ。

 養父母の目論見は破綻した。時の権力者であるヒゲ爺の顔に泥を塗った。

 息の根が絶たれる前にどのような仕打ちがあるかは考えたくもないが、どのみち生きてはいられまい。


 それが嫌ならば、逃げるしかない。


 幸い自分の身はまだ、あのヒゲ爺に穢されてはいなかった。

 まだ間に合う。長年想像の中でしか描いてこなかった、夢のような自分の未来を掴むために生きていくのだ。

 真に愛する御人を見つけ、共に語らい、支え合う。


 今は亡き、愛する両親のように。


「朱莉さん」


 肩がびくりと大きく震えた。

 強張った表情を改め、ゆっくり振り返る。


「どこへ行くのかな。今日は待ちに待った我々の挙式の日ですぞ」

「……(かなめ)様」


 式場に置いてきたはずの元新郎だった。

 老齢にしては背筋が真っ直ぐ伸び、見苦しくない程度にタキシードを着こなしている。


「客人もすでに集まってきておる。皆朱莉さんの晴れ姿を祝いに来てくだすった方々ばかりだ。今の君には、彼らの期待に応える義務があるのではないかな」

「……本来結婚式は、生涯を誓い合った者同士が行う儀式と聞いています。あいにく貴方様と共に交わす生涯は、私は持ち合わせておりません」

「朱莉! 貴様という女は……!」


 後方で鋭い罵声を上げるのは養父だ。

 質のいいモーニングコートを着ているが、腹部のボタンが今にも飛びそうになっている。


「世間知らずの小娘が生意気な口を利きおって! 要殿は、本来お前が娶って頂くなどおこがましいほどの、高貴な身の上の御方なのだぞ!」

「よいさ來島。今回の騒動についての処遇は、追々話すことにしよう」

「か、要殿……っ」


 赤から青に色を変える養父の顔を、朱莉は冷ややかに見つめる。

 後日自分に問われる責任の重さに怯えているのだろう。この人と血が繋がっていなくてよかった、と心底思う。

 やりとりの間に、立ち入り禁止の細道からはいつの間にか大勢の追っ手が集結していた。


「朱莉さん。貴女のことはこの私がしっかりと面倒をみると約束しよう。他の者は気づいていないようだが、私だけは貴女の真の価値を知っている」

「価値、ですか」


 嘆かわしい。

 人を人とも思わない瞳。こんな男に自分の尊厳を穢されるのは我慢ならない。

 亡き母との約束を破り、朱莉は右手を追っ手にかざした。

 怪訝な表情をした一同の中で、ヒゲ爺だけが僅かに身を構える。

 瞬間、辺りに轟音と煙、そしてあらゆるものが焦げ付いた匂いが立ちこめた。


「ほ、炎だ!」

「要様、危険です! 後方へ避難を!」

「一体どこから火の手が!?」


 今だ。


 朱莉は集結した追っ手たちが怯んだ隙に、空き地のさらに奥へ駆け込んでいく。

 まだ左手の火種が残っているが、これは最終手段のために取っておこう。


 あんな男に手折られるくらいならば、自らの手で死に花を咲かせたい。


「止まれ小娘!!」


 先ほどまでの一見品のいい老紳士が、まるで別人のように喚いた。

 思わず振り返ると明らかに形相を変えたヒゲ爺が、周囲の引き止めも聞かずに突進してくる。反射的に、朱莉も地面を蹴る足に力をこめた。


「そちらへ行くでない! お主を『向こう』にやるつもりはないぞ!」

「何を言って……、きゃ!」


 済んでのところで、その場に踏みとどまる。

 うっそうと生えていた背丈ほどの雑草の迷路。出口の先に広がる異様な光景に、朱莉は目を剥いた。


「これは……湖?」


 目の前に広がるのは、月のように丸く象られた湖だった。

 上空の風景を正確に反射させる湖は、水面がほとんど揺れていない。


 美しい。

 まるで大きな丸い鏡が横たわっているようだ。


「諦めろ。お主はもう逃れられん」


 老体にむち打ち走ったらしい。

 肩で息をしたヒゲ爺が、気づけば後十歩といった距離でにやりと笑みを深めていた。

 その配下たちも、じわじわと辺りに広がっていく。


「その湖は底なしだ。落ちれば最後、二度と出ることはかなわん」

「……そうですか。では」


 残しておいた左手全ての火種。

 それらを足元に放つのと、湖岸を踏み切るのは同時だった。


「なにっ!?」

「さようなら」


 火種は狙いどおり、朱莉の身体を湖の奥まで吹き飛ばす。


 これで追っ手たちにこの身を回収される心配もないだろう。そうならないことを切に願う。

 あとの心残りはひとつだけ。


 ──どうせ食べられるなら、美しく凜々しい殿方がよかった──。


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