9.かわいい人のことをかわいいと思うことは、至極当然だと俺は思う。
「さっきのさ、数学わからないところあって……その、教えてくれない、かな?」
「は、はい。えっと、どこかな」」
10月、第2週。秋晴れは晴れやかで、窓の外には赤とんぼが追いかけっこをしていた。
そんな日の午後。突然、有馬奈緒が俺に数学の宿題への教えを乞うてきた。
俺は戸惑いながらも、有馬奈緒の机に椅子を寄せて数学の教科書とノートを開く。
「宿題の、問3がわかんなくて」
「あぁ、そこむずいよね」
「先生が、授業時間内に解けて当たり前みたいなこと言っていたから焦った」
「あー、まぁ、あの先生のいつもの文系差別だから」
最近の俺たちはよくわからない関係性のはずだが、勉強を教えるというワンクッションが入ると、スムーズに会話を進めることができた。
有馬奈緒は真剣にノートに向かっている。ノートには文字が何回も消された跡があり、分からないからと言って最初から放棄していないことがわかる。
有馬奈緒は垂れてきた横の髪を耳にかける。俺はゆらゆらと揺れるそれを思わず目で追ってしまう。
10月に入り残暑も終わった俺たちの制服は冬服に変わっていた。ネイビーのブレザーは彼女の白い肌を引き立てる。
……やっぱり、イマジナリー彼氏云々が無いと、素直にかわーー良い奴なんだよな。
自分のやってきた宿題と有馬奈緒のノートを見比べながら、解答を進める。
言われてみればなんてことない問題なのだが、それを見つけるまでが難しい問題。これで「分かりませんでした」と言ったら嫌味を言われるのだから、数学が嫌になる。まぁ、それは担当教師の問題もあるが。
有馬奈緒はあっという間に理解を進めていった。
「わぁ、できた! 大塚君、ありがとう」
「いいえ」
「そうだ。これ、お礼に」
そう言って有馬奈緒が取り出したのは、個包装されたお菓子だった。「チョコレート好き?」という言葉に頷きながら、それを受け取る。いつか、このお菓子のCMを見た気がする。
「これ美味しいんだ」
「名前だけ聞いたことあるな。……お菓子、普段から持っているのか? 休み時間によく食べてるよな」
「うん。えへへ。お腹すくから」
「そうか。まぁ、勉強には適度に甘いものが必要だよな」
これっぽっちで腹は膨れるのかと思いながらも、貰ったチョコレート菓子をポケットにしまう。いや、しまおうとした。
ポケットに手を入れた瞬間、有馬奈緒の大きな瞳が揺れたことに気付き、とっさに動きを止めてしまったのだ。
……なんだ? 今食べて欲しいのか? まぁ、チョコレートだと溶けるかもしれないし、今食べても問題はないが。
俺はチョコレート菓子をポケットにしまい込むことを止め、戸惑いながらも個包装をはぎ、急かされる様にそれを口の中に放りこんだ。
想像よりも甘くない。ガリっと噛むと中からドロッとした何かがこぼれだした。ストロベリー系のムースのようだ。ムースと控えめな甘さのチョコレートがフュージョンし、脳の疲れを癒す甘さを醸し出している。
俺がチョコレート菓子を素直に楽しんでいると、俺の反応を伺うように有馬奈緒がこちらを見つめていた。
「おいしい?」
「おいしい。ストレートなチョコじゃなくてビックリした」
「あぁ、これ中にストロベリーソースが入っているんだ。チョコの苦みとストロベリーの甘さがいい具合にマッチしているよね! これは冬季限定で、通常から売れているチョコ×チョコのもおいしいんだけどーー」
味の感想を告げると有馬奈緒が堰を切ったように話しだした。
「あっ。……ごめん。話過ぎたね」
「いや、大丈夫……有馬さんはチョコ好きなんだね」
「チョコだけじゃなくて甘いものなら何でも好き、かな」
「そうなんだ。それだけ語れると羨ましいな」
有馬奈緒は照れながら、へらりと口を緩める。
ここまで甘いものが好きだとは知らなかった。むしろなぜか意外だとさえ思った。
確かによくお菓子を口にしている様子は見かけるが。食べるだけじゃなくて、商品ラインナップの簡単な説明ができるほどの知識もあるとは……。
有馬奈緒に対する新発見だった。
「私いっつも話し過ぎちゃうんだよね。気を付けているんだけど」
「何で? 別にいいと思うけど」
「そう、かな。なんか、ウザくない?」
有馬奈緒はヘラりと笑う。
「ウザい」と言われたことがあるのだろうか。
確かに一気に話し出されるとビックリはするが、ウザいとはならないだろう。むしろ、「そんなに好きなんだな」と感心する。
俺は思ったことをそのまま有馬奈緒に伝えた。
「勢いに驚くことはあっても、別に『ウザい』とは思わないよ。もし、さっきの俺が変な顔をしてたとしたら、びっくりしただけ」
「そ、そっか」
「有馬さんの話を聞くと、好きなんだなって思う」
「ふぇ!?」
「え?」
有馬奈緒の表情が一気に色づく。
な、何か変なことを言っただろうか。俺は分けもわからず視線を彷徨わせる。
「えっと、どうかした? 俺、変なこと言った?」
「い、いや。何でもない。……その、ありがとう、大塚君」
「どういたしまして」
何故か互いに頭を下げ合う。変な感じだ。
先に頭を上げた俺の視界は、有馬奈緒のつむじを捉える。なんか、可愛い。いや、つむじが可愛いってなんだ。
変な考えを振り払うために、目頭をもむ。
俺がそうしている間に、有馬奈緒は元の姿勢に戻っていた。その表情はどこかポヤポヤとしている。
それにしても、自分の「好きだと勢いよく止まれない」という性格を、有馬奈緒はあまりよく思っていなかったのか。もしくは本人からすればどうしようもないが、後ろめたく感じていたということだろうか。
彼女だけに自分の欠点を話させるのもどうなんだろう。
俺は少しだけ気まずく感じ、最近感じている自らの欠点を話すことを決めた。
「俺はさ、あんまり考えていない人生なんだなって、最近思っているんだ」
「あんまり考えていない? 大塚君、頭いいのに?」
「勉強ができる事と考えていないってのは違うでしょ。……その、なんて言うのかな。日々の出来事に疑問を持たず、全部受け入れちゃう節があるって言うか」
「それって悪いことなの?」
「うーん。俺としては、中々生きるのに適した性格なのかなって思っているけど、悩んでいる友達とか知り合いの話を聞くとさ、『俺、何にも考えてないな』って思うんだよね。……不安になる」
有馬奈緒は驚いたような表情で、俺を見つめていた。
「……そんなに見られると、照れるな」
「あ、ごめん!」
「別にいいよ」
勢いよく頭を下げてきた有馬奈緒に対し、笑って声をかける。
有馬奈緒は言葉を探すように、再び俺に向き直った。
「大塚君は、何が不安なの?」
「えっと……自分が頑張ってないこと、かな。考えてるってことは、頑張っているってことだと俺は思うんだよね。いや、逆か。頑張るために考えている、か」
「大塚君は頑張っているよ」
俺の言葉を聞いた有馬奈緒は、間髪入れずにそう言った。
俺が「慰めは良い」と言う前に、彼女は更に言葉を重ねる。
「大塚君はさ、勉強に手を抜かないじゃん。それに、授業で分からなかったところを分からなかったままにしない。嫌な先生でも質問しに行く」
「え? あー、まぁ、それは勉強に必要だし」
「だから、私とか中山君がわからない所を聞いた時に、何でも答えられる。大塚君からしたら当たり前なのかもしれないけど、私の目からは頑張っているって思うよ」
最初は自信満々だった有馬奈緒の声色が、段々と自信なさげになっていく。そして俺の様子を伺うように、上目遣いでこちらを見つめていた。
そうか、俺は頑張っていたのか。
「有馬さん」
「は、はい!」
「ありがとーー」
俺がお礼の言葉を言うと同時に、チャイムが鳴った。
あぁ、なんて間の悪い。
俺は顔を歪めかけたが、有馬奈緒の表情を見てその必要は無くなった。
チャイムにかき消されても俺の気持ちは届いていたらしく、有馬奈緒はふわりと笑っていた。