4.新なたぁ君の出現に、俺は驚いている。
現代文の時間。教壇には、見慣れない20代くらいの男性教師が立っていた。正にオフィスカジュアルといった服装で、眼鏡をかけている。短い髪は、格好良くワックスでまとめられていた。
「今日は多井先生がノロウイルスでお休みなので、私が代わりに来ました。菊沢隆です。女子テニス部の顧問をしています。ちらほら知っている顔もいるけど、普段は1年担当なので知らない奴が多いなぁ」
国語教師・菊沢はまるで体育教師のような体つきと顔の男だった。パキッとした声が教室の隅々まで響きわたっていた。
菊沢先生は「代打だからそんなに進められないんだよなぁ」だとか前置きをし、雑談交じりに授業を展開していく。いつものおじいちゃん教師だって悪くないが、若い男の楽しい授業に教室は色めきだっていた。
「実は私の母校も三波高校なんだ。中学校はここらへんじゃないんだけどなぁ。このクラスで言うと、有馬と一緒の中学なんだ。なぁ、有馬?」
「へ? はい!」
「おい、油断するなよ? 代打とはいえビシバシやっていくぞ~」
気を抜いていたらしい有馬奈緒は、声を裏返しながら返事をする。菊沢先生はニヤリとした笑みを浮かべながら、有馬奈緒を嗜める。女子テニス部の顧問と言っていたし、有間奈緒と菊沢先生は仲がいいのだろう。
というか、俺たちと同じ中学で同じ進路なのか。珍しいな。俺は菊沢先生のことを初めて知ったが、もしかしたら知り合いの知り合いとかかもしれない。
菊沢隆。菊沢と言う苗字は近所に家があった気もーーたかし?
同じ中学校のたかし。まさかこいつが、たぁ君?
てっきり、たぁ君は同い年だと思っていたが、確かに年上でもおかしくない。有馬奈緒の話には真実とウソがちりばめられている。
くそ、どうしてこんなに次々とたぁ君候補が出てくるんだ。考えないようにしていたのに。
俺の脳内に様々な想定が駆け巡る。
俺は思わず有馬奈緒の表情を盗み見たが、スンとした顔……というか「突然、当てないでよ」とでも言いたげに、眉をひそめている。
菊沢隆=たぁ君説は俺の考えすぎなのだろうか。いや、恋する乙女は複雑だと古事記でも言っているし、俺が察しとれないだけで、この顔が「もう! 先生ったら!(照)」の可能性だってある。
もう一度、たぁ君情報を思い出そう。
ウソ
・彼氏がいる(それに関するエピソードトーク)
ホント ※有馬奈緒の主観が入っている場合も有り
・好きな人がいる
・同中で優しい(背が高い有馬奈緒が揶揄われているとき助けた)
・成績優秀
・小倉大志ではない(本人談)
よくわからん
・今は違う高校?
・たぁ君(本名から連想?)
・猫みたい
・年齢は? ←NEW!
授業を聞きながら、俺は菊沢隆を観察する。
出身中学は一緒。教師になるぐらいだから、成績は優秀だろう。教師だから、もし有馬奈緒が身長のことで揶揄われていたら咎めるだろう。
猫みたい……というのはよくわからない。この数十分だけで考えると、猫より大型犬って感じがするが。
熱心な運動部の生徒と顧問。一緒にいる時間も長い。恋愛関係に堕ちる可能性は少なくないだろう。ということは、やはり菊沢先生がたぁ君?
ゲン〇ウポーズで授業を受けていると、きらりと光る何かが俺の視界に入った。
菊沢先生の左手の薬指に輝く、銀色の輪。
……既婚者かよっ!
菊沢先生が既婚者なら、早々にたぁ君候補者からは脱落だ。
いや、略奪愛なのか? 有馬奈緒さん、略奪愛なんですか!? それは良くないと思います!
女子高校生と若い男性教師の淡い恋愛。現実では眉をひそめられるが、少女漫画界隈では王道のジャンル。それに略奪愛まで加わったら、もはや、昼下がりか、遅めの時間のドラマの設定のようだ。ちなみに俺は、創作は現実的で無ければ無いほどいいと思うタイプだ。
俺は横目で有馬奈緒を確認したが、彼女は真剣に授業を受けーーいや、眠そうにウトウトしていた。頭がガクンガクンと揺れていた。有馬奈緒の整った顔立ちは居眠りの所為で歪み始めている。が、そこまでブサイクになっていないのは彼女の顔面ポテンシャルのおかげだろうか。一気に気が抜ける。
流石に頭とかどこかをぶつけそうだ。頭だけでなく体までぐでんぐでんに揺れている。俺が有馬を起こそうと手を伸ばすより早く、ピッと矢のような声が投げかけられた。
「おい! 有馬! 俺の授業だからって寝るなー!」
「ひゃ、ひゃい!」
「ったく、有馬は相変わらず、何というかーー」
クラスがクスクスとした笑いで包まれる。注意した菊沢先生も怒っているわけではないようで、眉を八の字に曲げながら苦笑している。
目が覚めた有馬奈緒は顔を真っ赤にしてうつむいた。これは好きな人に恥ずかしいところを見られたことへの赤面か? ……いや、普通に恥ずかしいだけか。
「部活がんばっているのもわかるし、通学大変なのもわかるけど、学生の本分は勉強だからな。ほどほどに頑張れよ」
「……はい、すいません」
「眠たくなる気持ちもわかるが、みんなも互いに起こし合って頑張ろうな!」
そう言って有馬や他の生徒たちに優しく笑いかけた菊沢先生は、授業に戻って行った。注意しても嫌な空気にしない。これは人気が出そうな先生だ。
というか、これは噂の「お前のことは俺が一番よくわかっているマウント」か?
やっぱり、2人は良い感じの仲なのか? いや、でも教師は流石に無いか。……教師だから逆にあるのか?
あぁ、もう! ここ最近、たぁ君と有馬奈緒の事ばかりを考えている気がする。
考えを振り切るように、俺は窓の外に視線を向ける。真っ青なキャンパスにチョコチョコと雲が浮かんでいる。その雲の形がまるで俺を嘲笑っているようで、腹が立った俺はシャーペンを持つ手に力が入り、そのシンを思いっきり折った。
どこにも味方が居ない俺は、黒板を睨みつけながら授業を受けた。菊沢先生の授業はとても分かりやすく。真面目に聞くと中々楽しめるものだった。集中し始めると何も気にならなくなり、あっという間に授業が終わる5分前になった。
「じゃあ、今日の授業をちゃんと聞いていたかの確認ミニテストをするぞ! ま、多井先生はしてないかもしれないけど、俺の預かっているクラスではいつもやってるから、今日だけ付き合ってくれ~」
突然の菊沢先生の言葉に、教室がざわつく。しかし、菊沢先生の爽やかな物言いのおかげか、生徒たちからの反抗的な声は上がらなかった。
授業の確認テスト、というだけあって内容は簡単なものだった。俺はスルスルとペンを走らせる。
「はい、そこまで。今から解答読み上げるから、近くと交換してくれ」
俺は前の席の男子を捕まえようと手を伸ばした。が、その手は隣から遮られてしまった。驚いて横を見るとーー当たり前といえばそうなのだがーー有馬奈緒が俺の手をつかんでいた。
頬が少し赤くなっており、目もどこか潤んでいる。そしてその潤んだ瞳が俺を見つめている。
俺が声を上げるより先に、机の上の俺の解答用紙が有馬奈緒に奪われた。
「採点、お願いします」
「あ、はい」
なぜか敬語になった俺たちは、交換採点を始める。
いや、なんでだよ。周りに同性のクラスメイトいるだろ。
こんな強引に交換するってことは、やっぱり有馬奈緒は俺がーー
いやいやいやいや。
全然内容は頭に入ってこないが、俺の腕は丸付けをしていく。
……結構、間違えてんな。有馬奈緒。あの後また寝たのか?
ってか、赤らんだ頬と潤んだ目も、寝起きだからじゃないか?
ドキドキした鼓動がスンと止んでいく。スンとした感情のまま、解答用紙を返す。
「大塚君、満点だったよ」
「あはは、ありがとう。有馬さんはもう少し頑張った方がいいかな」
「う゛」
案に寝ていたことを指摘された有馬奈緒の目や口が、ギュッと中心に集まる。
ははっ、梅干しみたいだ。
交換採点のせいで教室はすこしざわつく。しかし、菊沢先生はそれを窘めるつもりはないらしく、前方の席の生徒に絡んでいた。
それを横目に、俺は有馬奈緒に探りを入れる。
「俺は菊沢先生初めて知ったんだけど、どんな人? 部活の顧問だし、仲いいの?」
「えっっと……」
「?」
有馬はどこか歯切れが悪い。でも、好きだから照れていると言って感じではない。
俺が有馬奈緒の様子に首をひねっていると、彼女がちょいちょいと手を曲げた。
なんだ? 言いにくいことでもあるのか?
俺は恐る恐る有馬奈緒の方に、半歩身を寄せた。有馬奈緒もまた、半歩こちらに身を寄せてくる。
そして、声をすぼめて俺の耳に口を寄せた。彼女の息が耳を触る。
「に、苦手なんだ」
「え?」
「菊沢先生のこと……苦手なんだ。その、距離感が近くて。悪い人ではないんだけど。……だから、なんとも言えないかな」
そう言って、有馬奈緒は俺から体を離した。眉は八の字に曲げて苦笑している。
なんというか、意外だ。明るい有馬×明るい菊沢先生は、直感的に相性がよさそうなのに。印象が爽やかで良い、若い、既婚者、授業が面白い……そんな菊沢先生でもダメに感じられるんだな。
というか、耳元で発せられた有馬の声が、思ったよりもくすぐったかった。首筋がぞくっとした。いつもと話す距離感が違うだけで、声ってこんなに甘くなるんだな。
いや、というか菊沢先生の距離感が近いって、有馬が狙われているってことなのか? いや、それはまずいだろ。既婚者、え、うん?
俺の脳内は混乱して止まらない。何とか落ち着きたくなって、何でもいいから口に出そうとした。
「それってーー」
「あ、もう時間だな。じゃぁ、号令頼む」
俺の言葉はチャイムと菊沢先生の言葉でかき消された。
俺はチャイムをまたいでまで再び有馬奈緒と話さなかったが、暫く有馬奈緒の声が離れなかった。俺は意味もなく首筋をさすり、トイレに行った時にそこを見ると、真っ赤になっていた。