1.隣の席の娘の彼氏がイマジナリーだということを、俺だけが知っている。
朝。授業が始まらんとする今の時間は、どこか気だるげだ。小テストがある時はもう少しピリピリしているが、何もない今日は机に突っ伏している生徒も少なくない。しかし、そんな中でも明るく雑談に興じているクラスメイトもいる。
「それでね。今日は私が部活の朝練で早いから、バラバラに登校しようって言っていたのに、たぁ君が居たの! 朝の電車に!」
「えー! わざわざ来てくれたんだ」
「やさしいねぇ」
「えへへ」
恋人を褒められた有馬奈緒は、ふわりと笑った。
だが、朝の電車で有馬奈緒は1人で居たことを俺は知っている。
「中学からの付き合いでしょ? ラブラブだね~」
「う、うん」
「いいなぁ。そこまでしてくれるなら、高校別々でも安心だね」
「……本当に、たぁ君のことが大好きなんだ」
有馬奈緒は顔を真っ赤にしながら惚気る。
でも、俺は知っている。そんな奴なんていないことを。
有馬奈緒。三波高校2年。女子テニス部所属。明るい性格で友人が多い。背が高い。170cmの俺とそんな変わらないぐらいだ。いや、少しあっちの方が高いのかもしれない。
顔立ちは整っており、黒く艶のある髪を肩の下で切りそろえている。時々揺れているので、邪魔じゃないのかと思う時がある。
そんな彼女と俺の共通点は中学。中2と中3の時同じクラスだった。クソ田舎の中学校。俺らの中学校区からこの高校までは電車で2時間近くかかるため、俺らの中学校区から三波高校への進学者は、俺と有馬奈緒しかいない。他の同級生のほとんどは中学から近い高校に進学する。
有馬奈緒と同中である俺は、彼女に中学から付き合っている彼氏なんていないことを知っている。中学の時から有馬奈緒はモテていたが、付き合っている人物はいなかった。クソ少ない学校の中に”たぁ君”に該当する者はいない。
俺が知っているのと反対に、『俺がたぁ君がイマジナリーだということを気が付いている』ことを有馬奈緒だって気が付いているはずだ。
なのに、有馬奈緒はイマジナリー彼氏の話を止めない。
俺が「そんな奴いない」と暴露すると思っていないのか?
いや、確かにそんな予定はないが。
もしくは俺が同じ中学校だったことを忘れている?
1学年2クラス全42人の中学で忘れるなんてことあるかよ。
俺には有馬奈緒がどういうつもりなのかわからない。
俺が悶々としている間にも、隣の4人は有馬奈緒の”たぁ君”の話で盛り上がっていた。
「朝からたぁ君に会えて嬉しかったんだけどさ、会うと思ってなかったし朝練仕様だったから、髪ヤバくて……。たぁ君へのドキドキと髪がぼさぼさな事へのドキドキが、電車の中ずーっと続いててーー」
俺も偶々、同じ朝早い電車で登校してたけど、お前ひとりだっただろ。乗り込むとき丁度目が合って気まずい感じになっただろ。
え、まさか俺に見えない誰かがいたのか? イマジナリーではなく霊感上の何かしらだと? ……いやいやいやいや、流石にそれは怖い。いや、イマジナリー彼氏の話を永遠としている今も十分怖いが。
「たぁ君は、中学の時からずっと優しくて……中学の時にめっちゃ厳しい美浦っていう先生がいたんだけど、その人からもかばってくれたことがあってさ」
俺も鬼ハゲ教師の美浦先生は知っている。ってかこの前、帰りにちょっと話した時「美浦先生、最近子供が生まれて丸くなったらしい」って話したじゃん。俺は、美浦先生は知っていても君の優しい同中の彼氏は知らないよ。マジでこいつは、今の隣の席が自分と同中だって事、忘れてんのか?
「奈緒ちゃん、最近特にかわいくなったもんね。やっぱ恋の力かな?」
「そ、そうかな?」
「そうだよ! この前もさーー」
いつになったら、こいつの妄想話は止まるのか。というか、周りの奴らも一回くらい「写真見せてー」とか言え。多分、いや絶対、たぁ君の写真は出てこない。
俺がムカムカしながら隣をチラ見すると、イマジナリー彼氏の自慢話を続ける有馬奈緒と視線がかち合った。しかし、有馬奈緒は目を細めると、すっと俺から視線をそらした。その表情はどこか冷めている。
なんだその目は?
「嘘だって、言うな」ってか? はぁ? まず、虚言辞めろ!
そもそも俺はお前の虚言を告発できる立場で、むしろお前は俺に脅されても仕方がない、脅されるかもしれないと怯える立場だろ!? なのになんだよその表情は。俺のことはモブBとでも思っているのかよ。妄想だと分かり切っている惚気を聞かせられるこっちの身にもなれ。
ムカつく。横隔膜の表面がぐつぐつに煮えたぎる気分だ。それにーー
「大塚~? 次、視聴覚室に変更だって」
「……他の奴らも移動し始めたぞ」
「大塚宝く~ん? よっ、学年首席! 聞こえてる?」
「……全く聞こえていないな」
なにはともかく、俺の心を乱す有馬奈緒を、俺は許せそうにない。
俺は友達に肩を直接揺さぶられるまで、怒りの中に沈んでいた。
× × ×
「「有馬さんの彼氏は妄想?」」
「……あぁ」
結局俺は、煮えたぎる感情を抑えられず。友人たちに相談することにした。昼食を囲みながら、ポツリポツリと経緯を語る。
友人たち、府中青葉と中山皐月は怪訝そうな顔をしながらも俺の話を最後まで聞いてくれた。2人も有馬奈緒の彼氏の話は心当たりがあるらしく、驚きながらも“有馬奈緒の彼氏イマジナリー説”を納得した。
「なんかよく、樫山とかに話しているよね。たぁ君だっけ?」
「……なんか、部活中も時々そんな話してる気がするな。というか、本当に彼氏はいて、宝が知らないだけでは?」
「同中の彼氏ってのはよく話してるけど、クソ小さい中学だから俺が知らないってことはない。カレカノとかすぐ噂になったし、当時まだ付き合ってなかったとしてもそれっぽい奴に心当たりがない」
別に、これは小さい中学だからとかそう言う話ではないかもしれないが、同じ学年の話題ならすぐに広がる、恋愛話なら尚更。俺たちの中学校はそういう環境だった。
俺は熱心に噂話を楽しむタイプじゃなかったが、ゴシップ好きの友人の影響で結構情報通だった。だから、高校からできた彼氏ならともかく、中学の時からの関係ということであれば、自信をもって否定できる。
「向こうだって俺が同中で、彼氏がイマジナリーだということを気付かれているってわかっているはずだ。そもそも、なんでイマジナリー彼氏の話を……嘘を言い続けているかわかんなくて怖いし、その、気持ちが悪い」
意図がわからない恐怖。
別に盗み聞きしたいわけじゃない。でも、隣の席だと自然に会話は聞こえてくる。頭の中で繋がらない話をされるのは妙に気分が悪い。
イマジナリー彼氏の話以外なら、有馬奈緒は良い奴だ。明るいし、かわいいし、部活や授業にも積極的でいい奴だ。だからこそ、虚言という欠点が浮き彫りに感じ、否定したくなる。
俺は有馬奈緒に対し、たった一人の同中として妙な連帯感を持っている。だから、普通の友達として仲良くしたいのだ。
「じゃ、直接聞いてみれば?」
「は?」
俺は中山の提案にぽかんと口を開けたが、隣の府中は納得したように頷いておにぎりをむしゃむしゃと口にしていた。
「フツーに有馬さんがイタイ子の可能性もあるけど、本当に彼氏がいる可能性もワンチャンあんじゃん? 聞いた方が早いでしょ」
「いや、でもそれは聞きづらいって言うかーー」
「まぁ、センシティブな問題?かもしれないけど、案外どうでもいい理由かもよ」
「……女子同士のマウントの取り合いで、引くに引けなくなったとかな。それなら、気持ち悪いってよりかわいそうって感じになるんじゃね?」
「友達の中だけでのそう言うノリで、みんなイマジナリー彼氏だってわかっているバージョンもあるかもね」
「あと、男避けとか?」
2人が言うことも一理ある。めちゃめちゃ聞き辛いことを考慮しなければ、本人に直接聞くのがまぁ、一番だ。府中の言うとおり、女子同士のいざこざや男避けが原因なら、同情もできる。
俺は友人たちの提案に乗ることにした。
× × ×
その機会はすぐにやって来た。
帰りの電車で有馬奈緒と一緒になったのだ。自然と近くの席に座る。俺と有馬は帰りの電車は違うことが多いが、今日はテニス部が無かったらしい。
最初は他の乗客がいたが、俺たちの駅に近づくにつれて減っていく。
窓から差し込む夕日が眩しい。ずっと差し込んでいるわけではなく、山に隠れたり現れたりしてパッパと切り替わっていく。目に優しくない。夕陽の熱で顔も焼けるようだ。しかし、そんな時ほどなぜか窓の外を見つめたくなる。
隣に座る有馬奈緒を盗み見る。
夕陽に照らされるその顔はどこか哀愁を帯びている……気がする。スッと伸びる高い鼻。整った顔立ち。こうしてみると、イマジナリーじゃなくても、彼氏が出来そうなものだが。中学の時も確か二度三度告白されていたはずだ。なぜ彼女はイマジナリー彼氏の話をつづけるんだろう。逆に男避けなのだろうか。様々な想像が生まれては消え、生まれては消える。結局、彼女の考えていることなんて、彼女にしかわからないのだ。
視線だけで見ていたはずだが、いつの間にか俺は顔ごと有馬奈緒を見つめていた。有馬奈緒はその視線に気が付き、俺をオドオドと見つめ返す。今回は彼女も俺も視線をそらさなかった。
「なぁ、有馬さん」
「え、あ、何かな。大塚君」
「何で彼氏なんていないのに、いるって言ってんの? わざわざエピソードトークまで用意して」
「え」
「いないよね。“同中の彼氏”とか。……そんな奴、俺は知らない。君も知っている通り、俺たちの中学校は小さい。同じ中学校なら、流石にわかる」
「そ、れは」
「その、盗み聞きするつもりはなかったんだけどさ、隣の席だと聞こえちゃうから……」
有馬奈緒は顔を青ざめたり赤らめたりした。視線を彷徨わせ、膝の上のリュックをぎゅっと抱き込む。
暫く、電車が風を切る音だけが俺たちの間に流れる。どうしたものかと俺が悩んでいると、有馬奈緒はゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「……その“彼氏”を聞いて、大塚君はどう思ったの?」
は?
どういう意味だ? そんなの「怖ぁ。なんでそんなことするの?」一択だが。純粋な恐怖と疑問。
有馬は「嘘は良くないと思う」とか「彼氏が欲しいのか?」とかそんな答えを待っているのか? 引くに引けなくなっているから、叱られたいとか?
有馬奈緒は何かを期待するような目でこちらを見つめている。……いやいやいやいや?
「ふ、フツーに、怖いなって思った。知っているはずの同中の話で、知らない人間出てきたから」
「そ、そっか」
その俺の答えは有馬奈緒の期待するようなものではなかったらしく、どこか気落ちしたように息を吐いた。「ため息をつきたいのはこちらの方だ」という言葉をぐっとこらえて、有馬奈緒を見つめる。
有馬奈緒は唇をぎゅっと巻き込み、覚悟したように頷く。
「じ、実はね」
「あぁ」
「私、彼氏いないんだ」
「それは知ってます」
思わず、敬語になってしまった。刑事ドラマで、絶対こいつが犯人だよなって奴が、どや顔で自供したシーンを見ているときのような気分だ。だが、有馬奈緒の表情は決してどや顔ではない。神妙な面持ちだった。
「本当は“たぁ君”は彼氏じゃなくて、好きな人の話なんだ。話しているうちに止まんなくなっちゃって」
「好きな人?」
「うん。私、よく友達と恋バナするんだけど、好きな人が彼氏だったらっていう妄想が、いつの間にかその子達の中で『彼氏との話』になってて。私も楽しくなっちゃって、訂正するタイミングを無くしてしまったって言うか、その……」
「なるほど?」
「彼氏ではないし想像の話もあるんだけど、まるっきり嘘でもないというか……」
つまり、有馬奈緒の彼氏は全くのイマジナリーではなく、人として存在することはするのか。彼氏ということだけが嘘。つまり、虚言癖というよりは誇張癖と言うべきか。友人との雑談に尾ひれがついて止まらなくなったって感じもするな。
俺が有馬奈緒の説明に納得していると、彼女はその“好きな人”について語り始めた。
「私の好きな人はね、気が使えて、成績優秀で分かんない所を聞くと分かりやすく教えてくれて、本当に優しいんだ。背が高い私が揶揄われていた時にスマートに助けてくれて、そこから好きになったの。動物で言うと猫みたいな感じ……どうかな?」
どうかな、とは?
好きな人の話をする有馬奈緒は、教科書という名の少女漫画で見た恋する乙女と相違なかったが、今の状況だけが少女漫画とは異なっていた。
「どう、と言われても」
「どんな人に聞こえた?」
「え、フツーにいい人に聞こえたけど」
「そ、そっか」
俺に糾弾されるとでも思っていたのか、暗い表情をしていた先ほどとは一転、有馬奈緒の表情は赤みが戻っている。いや、夕陽で照らされている部分もあるかもしれないが。
俺たちはそれ以上の会話をすることはなく、ただ淡々と駅まで電車に揺られた。俺も疑問が解消されたことに対し、少しばかりの達成感があったので、それ以上会話を続けようと思わなかった。
駅から出ると、有馬奈緒のお母さんらしき人が迎えに来ており、車の中からこちらに手を振っていた。俺は歩きなのでここで別れることになる。軽く会釈し、リュックの位置を直す。
すると、そのリュックを後ろからグッと引かれた。
「ぅえ?」
「……大塚宝君。またね。また学校でね」
「ま、またな」
俺のリュックを引いたのは有馬奈緒だった。そしてそのままダッシュで母親の車に乗り込む。
……なんだったんだろうか。
俺は困惑しながらも家に向かって歩き始める。
ふとスマホを取り出すと、中山から連絡が来ていた。返事をするために道の脇に寄る。
『今、軽音部の面々で課題やってんだけど、全然わかんないから明日の朝教えて!』
時々、中山はこうやって、宿題に関する助けを俺に求めてくることがある。俺のことを回答集扱いしてるんじゃないかと思う時もあるが、中山はそれなりにいい生徒だ。簡単なお礼も毎回用意してくれるので、断るに断りにくい。
と言っても、1回は突き放してみる返信を書いてみた。
『今日はまだまだ時間があるぞ』
『解ける気しないんだよ』
『他の奴らもそうだって』
『頼むよ、学年首席様!』
俺が1つ返すと3つの返事が勢い良く帰ってくる。ブブブと震えるスマホに苦笑しながら、俺は了承の返事を返す。
『はいはい。あと、この前の中間は学年一位じゃないから、学年主席って呼ぶの止めろ』
『それはニュアンスだろ♪』
『大塚きゅんが頭いいことは確かなんだから』
『OKってことでいいんだよな?』
『あぁ。少し早く学校に行くために、早朝に家を出なくてはならない俺の通学事情も考えて欲しいんだが』
『お前の家は秘境だもんな』
『課題の件、頼んだぞ!』
『今度、アイスおごる』
中山へOKのスタンプを返し、俺は家への道を再び歩き始めた。
空はオレンジのような紫のような奇妙な色に染まっていた。長い長い通学は大変な時もあるが、こうやって歩くことは嫌いじゃない。
……そう言えば、結局のところ有馬奈緒の話はどこまで本当で、どこまで嘘なのだろうか。夕方と夜が曖昧になった空を眺めながら、そんなことを考える。
ウソ
・彼氏がいる
ホント ※有馬奈緒の主観が入っている場合も有り
・好きな人がいる
・同中で優しい(背が高い有馬奈緒が揶揄われているとき助けた)
・成績優秀
よくわからん
・今は違う高校?
・一緒に通学している?
・たぁ君(本名から連想?)
・猫みたい
ん? なんというか……いや。
この条件をうまい具合に合致するやつを俺は知っている気がする。……いや。
……俺では?
脳内でこれまで見聞きした話を書き出してみると、そんな結論に至る。
俺の名前は大塚宝。“たから”からたぁ君は連想できる。まぁ、親にも祖父母にも呼ばれたことないが。
そして、俺の成績は良い方だ。田舎のクソ中学から、比較的都会の進学校に進学するためにかなり努力した。
中学の時に、背が高いことで揶揄われていた有馬奈緒をかばった覚えはみじんもないが、「言い過ぎだろ」ぐらい言っていてもおかしくない。
やっぱり、俺では?
嘘は少しだけ本当のことを混ぜるとそれっぽくなるというのは有名な話だ。それに姉ちゃんから借りさせられた少女漫画で、好きな人に好きな人の話をして『鈍感野郎!』ってなる駆け引きがある話を見たことがある。
いや、いやいやいやいや。
だとしても、リアリティがないだろ。俺が有馬奈緒と話す時、あいついつも俺の目を見ないぞ! ……照れている? いや、そんな事――
いつの間にか家の前で俺は立ち尽くしていた。
俺は有馬奈緒の彼氏がイマジナリーであることを知っている。
でも、彼女の好きな人が誰かは、今はまだ知らない。
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