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1 彼の話 9時30分から9時40分

 歩行者信号が点滅しはじめたため、駆け足で横断歩道を渡ろうとした山川大地は、その中ほどで一度立ち止まり、ゆっくりと横断していた老婆を背負って急いで向こう側へ移動した。


 大地はそっと老婆を地面に下ろし、彼女のほうを見る。「ありがとうねえ。あなたみたいに優しい人がいるなんてねえ。わたしの主人を思い出すわ」とやや間延びした声で言う彼女には老婆というより、老婦人という言葉のほうが似合っているような気がした。


「お礼といってはなんだけど、これ途中で飲みなさい」そう言ってかばんから老婦人が取り出したのは、ココアだった。キャップがオレンジ色なので、おそらく温かいのだろう。大地は思わず顔の前で手を振った。


「いえいえ、そんな。僕はお礼が欲しくてあなたのことを運んだわけじゃないですから」目の前の彼女は白いハットをかぶり、チェーンのついた高そうな眼鏡をかけている。薄紫のジャンパーに黒いジャージというありふれた出で立ちだが、どこか清潔感があった。


 彼女は、マスク越しでも分かる品のいい笑みを浮かべてココアをずいっとこちらへ差し出してきた。

「遠慮するのは大人になってからでいいのよ」


 大地は、本当にいいんですか? という気持ちをアイコンタクトで伝えたが、伝わったかどうかは分からなかった。一瞬、間をおいて「ありがとうございます」と彼女の手からそっとココアを受け取った。


「こちらこそありがとうね」と彼女は言い、大地の着ているジャケットへ手を伸ばし、それを整えてくれた。「わたしのことを背負ったせいでちょっとずれちゃったわね。いい服ねえ。これからデートにでも行くのかしら?」


 大地は図星をつかれてどきりとした。「そうなんですよ。よくお分かりになりましたね」

「まあねえ」彼女は相変わらず品のいい笑みを浮かべている。もしかしたら、彼女の目が細まっているせいで笑っているように見えるのかもしれない。「頑張ってきなさいよ」


「ありがとうございます。じゃあ、そちらもお気をつけて」大地は軽く会釈して体の向きを反転させる。背中から聞こえた「さっきはほんとにありがとうね」という言葉に、彼は振り向いて答えた。「いえいえー!」


 スラックスのポケットから携帯を取り出して時間を確認する。9:30と表示されていた。待ち合わせの時間まではあと1時間ほどある。今から待ち合わせ場所へ向かっても、15分ほどで着いてしまう。相手にがつがつしていると思われるのは彼の本意ではなかった。


 彼は初めてのデートということで、かなり舞い上がっていた。さきほど老婦人を助けたのも気分がよかったからという理由が大半を占めていた。


 男子校で1年半以上過ごしてきたせいで、大地は見た目や服装についてかなり無頓着になっていたが、今日だけは違った。前日に着る服を決めて、朝起きて真っ先にひげをそり、鼻毛が出ていないか確かめるため30分ほど鏡に向かった。


 いつもの彼なら上からマスクを着用してしまうため、そんなこと気にも留めなかっただろうが、今日の大地は違うのだ。今日のデートにすべてを賭けているといっても過言ではない。


 条件付きではあったが近所の女子高との合同文化祭が認められるという奇跡、文化祭での彼の部活の出し物にその高校の生徒グループがやってくるという奇跡、うち一人と好きな映画の話で盛り上がるという奇跡、彼女と連絡先を交換できたという奇跡、さらに今日が雲一つない快晴という奇跡、千載一遇という言葉ですらありふれているぐらいの奇跡が今、彼に起こっていた。


 ちょうどいい時間になるまであてもなく歩くのも疲れる、というわけで彼はさきほどからどこか座れるような場所を探していた。実家の最寄り駅から隣の地下鉄駅へむかってしばらく歩いたところに公園があったはずだ、と彼は歩いている途中でふと思い出してそこへ行くことにした。


 記憶をたどりながら進んでいくと、案の定、公園が見つかった。藤棚の下に二人掛けのベンチが二つ並べて置いてある。彼はそこに腰かけて、再び携帯を取り出した。ロック画面には9:40と表示されていた。


 トーク画面を開いて上へ上へとスクロールしていく。彼女の好みや彼女についてのことを把握しておくため、そして自分が何か余計なことを言ってしまってはいなかったか確認するためだ。


 それでもし、自分が余計なことを言っていたと分かっても今の大地にはどうしようもない。ただ後悔することしかできない。もちろん、それは彼だってよく理解していた。でも、ついつい見てしまうのだった。


 一度、トーク履歴の一番上まで移動したあと、今度は下へ下へとスワイプしていく。大地はその途中でいったん手を止めて、ココアのキャップを開け口をつけた。温かな甘みがじんわりと口の中へ広がり、昂っていた彼の心を抑えてくれた。


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