八
(アキのヤツ、どこに行ったのかな)
いつもと同じような朝を迎え、並んで朝餉も済ませたのに、アキはなかなか稽古場に現れなかった。
今日もご用で引き留められているのかと、その部屋を覗いたが、すでに姿はない。
館の内をぐるりとまわった梅中は、縁側にぽつりと座っている小さな背中を見つけた。
(やっぱり迷っているのかな)
ここ数日の出来事は、梅中にとっても現実とは思えないほどのめまぐるしさだった。当事者のアキなど、受け止める事さえまだ出来ない様子である。時折何やらぼんやりと、宙を見ている事さえあった。
「アキ……」
意を決して歩を進めると、ぱっと数匹の雀が飛び立った。
アキは、あっと小さく叫び、空へと上がって行くそれを視線で追った。
「なんだよ、雀見てたのか?」
「うん。仲良しだなあと思って」
アキはそう言って、少し寂しげな笑みを浮かべた。
「雀って、あんなに何を話しているんだろう。けっこうおしゃべりだよね」
「言われてみればそうだな」
梢に止まった雀達は、変わらずせわしなく鳴き合いながら、枝々を飛び回っていた。
「はらへったなとか、いい天気だな、とかかな」
「え? そんな事なの?」
アキは少し驚いたように梅中を見上げた。
「でも、そんなものかもしれないね」
にこりと笑ったアキの瞳は少し赤かった。
朝貌を見た時から気になっていたのだが、やはりあまり眠れていないのだろうか。
「こんな所で雀見てないで、稽古につきあえよ。どうも静がしっくりこないんだ」
「梅長さんは、形は悪くないって言ってたじゃない」
アキはそう言いながらも腰を上げ、梅中と共に稽古場へと向かった。
「そうだけど、なんかイマイチなんだよな……」
ぼやく梅中に付き合って、アキも舞扇を取って舞い始めた。
立ち舞うべくもあらぬ身の 袖うち振るも恥ずかしや
悲しみをこらえながら静が舞うのは、春秋時代越の功臣、氾蠡の物語である。
越王を支えて呉王を滅ぼした彼は、その功績を誇る事なく身を引いた。その例えを上げ、都を出て無実を主張すれば、枝を連ねる青柳の如き兄弟の仲である。きっと御心は通じましょうと、頼朝から追われる義経を慰めるのだ。
ただ頼め 標茅が原のさしも草 われ世の中にあらん限りは
こう詠われた御仏の御心に偽りがなければ、やがて世の中にも認められましょう。
静は咽び泣きながら義経らと別れるのである。
これほどまでに別れが辛い人とは誰だろう。
梅中はずっと考えていた。
やっぱりアキだろうか……
アキはずっと自分の傍にいると思っていた。
これまでも、これから先も、ずっと一緒に舞って行くのだと。
想像しようと思っても、それが出来ないほどに、アキのいない日々には現実味がなかった。
アキはどう思っているのだろう?
視線を傍らへ送ると、時折アキは思い悩むように扇を止めていた。
気を取り直したように足を踏み出すが、やがてその動きを止めてしまった。
「アキ?」
「ごめん、梅中……」
アキは一言そう言うと、稽古場を出て行った。
ごめんてなんだよ……
残された梅中は扇を握りしめ、独り宙を見上げた。
「アキ……」
梅中が声を掛けると、背を向けて座っていたアキは、慌てて頬を拭って振り向いた。
「ごめんね、途中なのに。なんか巧く舞えなくて……」
泣き腫らした瞳でにこりと笑う。
梅中はその隣に腰を下ろし、それから言った。
「そうだな。ちょっと辛気臭いもんな。気分変えて他のやろうか」
何が良いかなと、梅中は思いを巡らせた。
「そうだ、二人乱やらないか。兄上も言ってたから、きっとお披露目の曲だ。これなら楽しいだろ?」
「うん」
アキは口ではそう言ったものの、小さく俯いてしまった。
「……なあ、アキ。迷ってるのか?」
「え?」
「口出しするなって言われたけど、黙って見てるのも辛いんだ。お前、侍になりたいのか?」
「そんな事ないよ」
「なら、申楽師はイヤなのか?」
「イヤじゃないけど……」
「それなら、なんで迷ってるんだよ」
「……迷って、るのかな」
「俺にはそう見えるけど」
「うん……」
アキは、また俯いてしまった。
「もしかして、西田様に気兼ねしてるのか? アキの好きにしていいって言ってたじゃないか。心配しなくても、後の事は巧くやってくれるさ」
「気兼ねか……。そうなのかもね。一清さんの事もあるし……」
「一清? なんで一清の心配なんだよ」
侍になりたいわけではないとはっきり言ったのに、アキの心にあるのは西田家に入れば一清に悪いと言う思いなのだろうか?
矛盾していると梅中は思った。
「アキ、まさか甲府様の事、本気なのか?」
え? とアキが貌を上げた。
「むこうは大名なんだぞ。自分でそう言ったんじゃないか」
「そうだけど……」
「きっと御愛妾とか、手の付いた小姓だって山ほどいるぞ。そりゃあ最初のうちは珍しがって可愛がってくれるかもしれないけど、飽きられたら終わりじゃないか。そうなったらお前、どうするんだよ」
捨てられてボロボロになったアキなど見たくなかった。
どうせ、ちょっと見目の良い毛色の変わった子供を珍しがっているだけなのだ。そんなお殿様のお遊びに付き合って、アキが泣く必要なんてないと思った。
アキはひどく傷ついた貌をして、梅中を見つめていた。瞬きもしない瞳から溢れ落ちた涙に、梅中はしまったと思った。
「……そうだよね。私など……」
「ごめん、そんなつもりじゃ……」
「ううん。その通りだ。親にさえ要らぬと言われたのだもの……」
アキはそう言って零れる涙を拭い、笑った。
(やっぱり気にしてたのか……)
自嘲気味なその笑みを眺めながら、梅中は思った。
アキが拾われ子なのは誰もが知っていたから、始終そう言われて彼は育った。特に子供は残酷で、親なし、捨て子とアキを囃し立て、からかわれた。
お前、悔しくないのかよ!
一度として言い返さないアキに、梅中の方が憤慨したが、だって本当の事だからと、アキはただ俯いていた。
その不甲斐なさにまた憤り、梅中は年上の子供達とも取っ組み合いの喧嘩をした。相手が武家の子だろうとなんだろうと、お構いなしである。
宗能にも迷惑を掛けた。でも、アキをいじめるヤツが悪いと思った。
もうやめて、梅中。気にしてないから。
アキは何度もそう言って、梅中を止めた。
気にしてないわけがない。それでもアキは言い返せなかった。どうにもならない事実だからである。
手を握り締めて俯いていたアキの気持など、梅中は思いやりもしなかった。
「本当に、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。一度会っただけの相手だぞ。すぐに別れが来るかもしれない。そしたら辛いだろ?」
「そうだよね。静御前でさえ、別れが来たのだものね」
神かけて変わらじと契りし事も定めなや
神にまで誓った仲なのにと、船辨慶の静はその別れを嘆くのである。
「でも、それでも、あの方に逢いたいんだ……」
アキはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
(俺はまったく進歩してないな……)
その背を見送りながら、梅中は小さく溜め息を落とした。
お祭りやら縁日やら、賑やかに人が集まるのが好きだった梅中は、どう誘っても一緒に行きたがらないアキが理解出来なかった。
梅中と違って、我を通す事などほとんどないアキが、この時ばかりは嫌だの一点張りで譲らない。引く事を知らない梅中はしまいには喧嘩腰になり、見兼ねたお勝がそっと事情を話してくれた。
坊ちゃん。小秋は親子連れを見るのが辛いみたいでね。察してやってくださいな。
お勝や宗能も、普通の幼子のように育ててやりたいと、アキを祭り見物に連れて行った事があるのだという。
最初の頃こそ喜んでいたアキも、いつしかお勝に手を引かれながら、涙をいっぱいに浮かべていた。
見渡せば、周りは幸せな親子連れで溢れている。人ごみにいればいるほど、アキは自分が独りなのだと思い知らされるのだろう。それからは、誰が誘っても首を振るようになったのだそうだ。
お勝に話を聞いて、無理にアキを誘う事は諦めた梅中だったが、その気持ちまで理解しての事ではなかった。
楽しいのに、どうして嫌なのだろう? そう思ってさえいた。
結局梅中には、アキの哀しみを解する事など出来ないのだろう。
今でさえ……。
君に再び逢わんとぞ思う行く末
義経に再び逢える日が来る事を、そのわずかな希望を胸に生きようとする静。
それはアキなのか、それとも自分なのだろうか。
梅中はふと、そんな事を思った。
「お勝さん……」
小さく呼ぶ声にお勝は針を止め、戸口を見つめた。
「小秋かい?」
「……うん。開けてもいい?」
「かまわないよ」
お勝が頷くと、そっと木戸が引かれ、アキが中を覗いた。
「……あの、今日、ここで休んでもいい?」
消え入りそうな声で遠慮がちに訊ねる。沈んだその様子に、お勝は針山へとそれを離した。
「どれ、そんなら寝支度しようか。布団は持って来たのかい?」
コクリと肯き、するりと戸を抜けたアキは、お勝の元へと駆け寄って来た。
「まだ針仕事があるのでしょう?」
「ああ。別段急ぐわけじゃないのさ」
このところめっきり目も悪くなり、夜の繕い物はこたえるようになった。いいかげん歳なのだと、お勝は痛む肩をさすった。
それを見ていたのだろう。夜具を運び終えたアキは、裁縫道具を片付けるお勝の傍へと座り、肩を揉み始めた。
「おや、ありがたいねえ」
「なんか、久しぶりだね」
指に力を込めながら、アキは笑った。
「最近、膝はどう?」
「そりゃあ、歳と共にあちこち痛くなるさ。そんなもんだよ」
心配しなくていいと、お勝はアキへと頷いて見せた。
「……なら、どんどん痛くなるね。肩も、腰も……。揉む人がいないと辛いよね」
「そうよな。したら、鼻ったれの末弟子の役目にでもしてもらうかね」
お勝は冗談のように言い、笑った。
「どのみち小秋はもうすぐ半元服じゃないか。元服すれば、さすがにこうしてもらうわけにも行くまいねえ」
「そうなの?」
「もう大人じゃないか。わきまえたがいい」
言われてアキはその手を離した。
「ああ、楽になった。さあ、明日も早いからもうお休み」
「……お勝さん、迷惑?」
「そんな事ないよ」
「……太夫は引き留めてくれないんだ。梅中はなんで迷うんだって。言われてわかった。確かに迷ってる。中条になれるのが、あんなに嬉しかったのに……」
アキは俯いたまま小さく言った。
先だっての夜も、アキはそっとお勝の元を訪れた。
あのね、太夫が半元服してくれるって。
その報告に、お勝も頬を緩めてアキを祝福した。
それでね。
アキはちょっと辺りを見回して、お勝の耳元へと近づいた。
これはまだ内緒なんだけど、太夫がね、私の子になりなさいって。
それを聞いたお勝は思わず瞳を潤ませ、良かったね小秋と、何度も頷いた。
お勝さんにそう言ってもらえて、なんか本当な気がして来た。
アキはまだ半分夢心地な様子で、そうお勝に笑った。
あの時のアキは本当に幸せそうで、ようやくこの日を迎えられた事にお勝は涙がこぼれた。
ありがたや……
神様にも、仏様にも、そして宗能にも、お勝は手を合わせて伏し拝んだ。
ようやくこの子も幸せになれる。そう思っていた。
なのに、今目の前にいるアキは、消え入りそうに俯いて、思い悩んでいた。
「梅中と舞っていても、あの方の事が思い出されるんだ。打ち消しても、打ち消しても、逢いたいって……」
「逢いたいなら、逢いに行けばいい。それが叶うのなら、行けばいいじゃないか」
背を撫でながらお勝が言うと、貌を伏したままアキは首を振った。
「梅中は、捨てられたらどうするんだって。それでもいいって思ったけど、本当は不安なんだ。不安で不安で、たまらない……」
親に捨てられたこの子だ。委ねたその身を打ち捨てられる恐怖を拭い去る事は、けっして出来ないだろう。ただひとり、この子の欲するその人が、腕で永遠に抱き留めてくれない限り……。
「――小秋。これは話すまいと思っていたが、あたしにも子があるんだ」
アキは驚き、涙に濡れた貌を上げた。
「あたしもこの性分だ。諍いが絶えなくてね。売り言葉に買い言葉で家飛び出して、結局子供と別れてしまった」
いずれ共に暮らすつもりで懸命に働いたお勝だったが、夫の親族にしてみれば自分勝手に出て行った嫁である。今更引き取りたいとは随分虫の良い話だと、子供の所在を訪ねた先はどこも門前払いだった。
それでも、せめて息災なのかと、あちらこちらに頭を下げて廻れば、見えて来たのは厄介者として育った我が子の現状だった。
みな、暮らしに余裕などない。たらい回しの末、口減らしに出された奉公先からも逃げ出して、紆余曲折を経て実父と暮らしていると判ると、お勝は子を訪ねるのを諦めた。
きっと母親に捨てられたと恨んでいるだろう。面と向かって詰られるのが怖くなったのだ。
「もっと辛抱すれば良かったのかねえ。あるいは、無理をしてでも連れて行くべきだったのか。過ぎた事だとわかっていながら、くどくどと思い悩んだよ。けどね、なんのアテもないあたしと行けば、飢えて死ぬことになるかもしれない。一緒に川に飛び込むなんざ、端っからゴメンだったさねえ」
お勝は滲んだ涙を拭った。
「男の子だったよ。親がこの御面相だ。小秋とは似ても似つかないし、歳もまるで違う。だから、お前を身代わりだと思った事はない。小秋は小秋で愛しいと思っていた。本当だよ」
お勝はアキの頬を拭い、笑った。
「ただね、離す側にも理由があるんだ。憎くて捨てたんじゃない。きっとお前の親も、何か事情を抱えていたんだ。それが子供にとって最善だと思ったから、お前を手放した。あんな暖かな日に、陽をさんさんと浴びて輝く銀杏の樹の下に赤子を置いたのだもの。生きて欲しいと願っていたんだ」
お勝は流れる涙を止める事が出来なかった。
「だからね、小秋。お前は捨てられたんじゃない。委ねられたんだ。みんな、お前を大切に思ってる。それを忘れてはいけないよ。捨てられた子だから、自分に価値がないなどと思わないでおくれ」
「お勝さん……」
赤く潤んだ瞳で見つめるアキに、お勝は頷いた。
「お前の親御さんのおかげで、こうしてあたしは、こんなに可愛い子と過ごす事が出来た。お前には申し訳ないが、感謝してるんだよ」
にこりと笑ったお勝は涙を拭い、夜具を開いてアキを促した。
身を横たえたアキに布団を掛け、胸のあたりをそっと叩く。この子が幼い頃から続く、おやすみの合図である。
行燈の光を衣で覆い、緩めると、お勝は薄い布団の中へと身を横たえた。
赤子の世話をするようになったお勝に、かつては祝い膳などをしまっていた囲炉裏脇の納戸を片付け、与えてくれたのは宗能である。夜具を二組み延べるのが精一杯の狭い処だが、アキの成長を見守り続けた場所だった。
薄闇に、しばらく静寂が続く。
「……お勝さん、まだ起きてる?」
「なんだい?」
「うん。一番良い道って、どんな道なのかな」
「良い道?」
「太夫は一番良い道を選べって。広い道。平らな道。楽な道……でも、違うよね」
「そうだねえ。平らだと思っても、少し行ったら荒れていたり、急に狭くなったり、上り坂だったり。まあ、道なんて、そんなもんじゃないのかねえ」
「そうなんだ……」
「あたしはね、どんな道かより、誰と歩むかだと思うよ」
「誰と?」
「たいがい道なんて険しいものさ。でも、一緒にいる人によっては、苦にならない時も、その逆もある。小秋が誰と歩みたいかじゃないのかい?」
「……でも、お勝さんも、喜多のみんなとも、別れたくないんだ」
「別れじゃないさ。生きてさえいれば、また逢える日も来る。あたしは常にそう思っているよ」
憎まれているであろう息子にさえ、いつか逢える時が来るかもしれないと、お勝は僅かな期待を断ち切れずにいた。ましてやアキとなら、今生の別れというわけではないのだ。
「……そうか。“君に再び逢わんとぞ思う行く末”だね」
「なんだい?」
「船辨慶。義経と別れなければならない静は、もう一度逢える日に僅かな望みを賭けるんだ」
「人とは、きっとそうしたものなのだろうねえ」
どう考えても無理だとわかっていても、それでも願わずにはいられないのだ。自ら打ち捨てた我が子が、変わらず自分を慕い、逢いたかったと言ってくれる日を……。
人とは愚かで、浅ましく、ずうずうしい生き物なのだと、お勝は我が身に思わずにはいられない。
けれど、だからこそ愛おしいのだと……。
ただ頼め 標茅が原のさしも草 われ世の中にあらん限りは
漏れ聞こえる謡の中から覚えた一節である。
宗能に訊ねると、元は清水観音の釈経歌だと教えてくれた。ただ私に救いを求めなさいと、悩み迷う人々を慈しみ諭す詠なのだと。
それ以来、お勝は心の中で幾度となくこの和歌を唱えた。
観音様。どうか、この子に幸せな未来を……
お勝は願わずにはいられない。傍らで思い悩むこの子の先に、まぎれもなく開かれた道が続いている事を。