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秋芳馨る  作者: 故
7/10

 翌日。

 いつものように室へと訪れて雑事をこなしているアキに、早速着物でも仕立ててやろうと宗能は水を向けた。

 これまでも年に幾度かの機会はあったものの、他の弟子達への手前もあり、それほど多くの事をしてやれたわけではない。

 実家からの支援を当てに出来る梅中の方が気を回してくれて、自分の着物をアキへと譲っていたくらいだった。

 年中お古を着ているアキに、もっと新しい衣を着せてやりたいと思ったのだが、アキは笑みを浮かべて首を振った。成長期だから、お下がりがちょうど良いと言うのである。

「そうか、ならば……」

 宗能は自分の着物をいくつか取り出し、アキへとあてがった。

「……もそっと色映りの華やかな方が似合うかの」

 愛くるしい貌立ちをした子である。三十路(みそじ)を過ぎた大人のそれでは、さらに地味に思えた。

「お気持ちだけで嬉しうございます」

 宗能の気の済むまでそれに付き合いながら、アキは本当に嬉しそうに笑った。

「いずれ、着させていただく事もありましょう」

 言われて、宗能はなるほどと思った。

 アキとはこれから共に過ごせる時がある。ただでさえ子供の成長は早い。何も急いで自分の古着を着せる必要はなかった。

 内心落胆を感じていた宗能は幾分気を取り直し、それでも何かしてやりたいと思いを巡らせた。

「紋服は新調するが、なんなら装束も改めるか」

 半元服の事である。真新しい唐織でお披露目も良いなと、宗能はひとり頷いた。

「いやなに。甲府様から改めて御下賜品(ごかしひん)があったのさ」

 怪訝そうなアキの視線に、宗能はそう種明かしをした。

 使いの者が届けた金品に、梅中は露骨に嫌な顔をした。アキの身の(しろ)のようで気に障ったのだろう。

 だが宗能は、これでふたりのお披露目を盛大にやってやれると、ありがたく思った。アキの身の代ならば尚の事、この子のために使おうと。

「猩々乱への褒賞だ。欲しい物があれば言いなさい」

「なにも」

 アキは首を振った。

「本当に何もないのか? 良く考えてごらん」

 宗能に言われ、アキはしばらく首を傾げていたが、ふと視線を動かした。

「なんだね?」

「……あの、もし叶うのなら、お勝さんに何か……」

 ああ、この子は……

 宗能は思った。

 アキは自分のためには何ひとつとして思い浮かばないのだ。自ら欲するという事がないのである。もしかしたら、望むと言う事さえ知らないのかもしれない。

「そうだな。お勝はアキにとっては母親同然だものな」

 まだ柔らかな線を残しているその頬を、宗能は物哀しく見つめた。普通の子供のようにくったくなく甘えさせてやる事は、自分には難しいのだろうかと。

「何が良いかな。(くし)(かんざし)か……。いや、いっそお勝に晴れ着を仕立ててやろうか」

「本当に?」

「本当だとも。そして、半元服も右京お披露目も、ちゃんと見てもらおう」

「あ……」

 アキは小さく叫び、泣きそうな貌を歪めて頭を下げた。

「ありがとうございます……」

「なに。そう他人行儀に言うな」

 小さな背をぽんぽんと叩き、宗能は首を巡らせた。

「隣を片付けようと思っているのだ。手伝ってくれぬか」

「はい」

 アキは甲で頬をぐいと拭うと、宗能と共に立ち上がった。


「いっこうに稽古場に来ないと思ったら……。これはいったい何の騒ぎだ?」

 アキを呼びに来たらしい梅中は、そう言って室の様子に目を丸くした。

 アキの他に、古参の弟子まで駆り出されてせっせと荷を運んでいる様は、まるで引っ越しか何かのようである。

「この部屋をアキにやろうと思ってな」

 その発言に、持っていた書を取り落としそうになったアキは、慌ててそれを抱え込み、腰をかがめたまま戸惑った視線を宗能へと流した。

「ひと間では手狭だろうが、当座はここでいいだろう。陽当たりも良いぞ」

 宗能は、荷を積む手を止めもせず、呑気に笑った。当主の使っている部屋である。陽当たりが良くて当然だった。

「ちょっと待て。それは全部終わってからの話だよな?」

「部屋が片付きさえすれば、いつでもいいぞ。なんなら今夜から使うか?」

「そんなのダメダメ。まだ今の所でいいよな? アキ」

 梅中は宗能との間に入り込み、アキの貌を覗き込んだ。

「あ、あの……」

 アキは荷を抱えたまま、右往左往するばかりである。

「第一、梅弟はどうするんだよ?」

「私が前に使っていた部屋がある。跡取りはそこと決まっとる」

 なあ? と、古くからここにいる、片腕同然の弟子へと同意を求める。

「ずるいぞ。さてはアキを独り占めする気だな」

 宗能は天を仰いで爆笑すると、にやりと梅中を覗き込んだ。

「そのとおりだ」

 梅中は、くっ……と口唇を噛み締め、足を踏み鳴らして叫んだ。

「言いたかないが、七太夫兄は大人気ない!」

「何を言う。口ばかり動かしてないで、そこの書を運んでくれ」

「誰が手伝うか!」

 梅中は、アキの抱えていた荷を奪い取ると兄弟子へとそれ持たせ、アキの手を無理やり引っぱりながら室を出て行った。

「さらわれたか」

 宗能は忌々(いまいま)しげにその後姿を見送る。

「まったく、あなた様は。梅中の事とて、我が子同然に可愛がっておいでなのに」

 そうこぼす苦笑に視線を戻し、宗能は笑った。

「私にまっすぐ物を言うのは、あの子くらいだからなあ」

 梅中の罵詈雑言(ばりぞうごん)は、いっそ清々しいほどである。宗能は半ばそれを楽しんでいるのだ。

「それにしても、良う決心なさいましたな。小秋はさぞ喜びましたでしょう」

「……すべては梅中のおかげだ。あの子の選択に、私は甘える事にしたのだ」

 僅かに視線を落とす宗能に、助太夫さんと弟弟子達が渾名(あだな)するほど喜多の支えのひとりである彼は頷き、

「梅中は、小秋のためになったのなら、さらに後悔などありますまい」

と、首を振った。 

 もともと梅中が悔いを残す子でない事は、宗能も充分わかっている。それでも、別の選択肢があったのではないかと思わずにはいられなかった。

「……いや、あの子は梅之丞殿の息子だ。それで良いのだな」

 あの子と父との絆を、形式上であっても断ち切るべきではない。

 今の梅中には、その事実しかないのだ。

 それを温めながら、いずれ寄り添い合える日を取り戻して行ける事を、宗能は願わずにはいられなかった。

「私もそう思います」

 宗能の気持ちを察したように、彼は頷いた。

「……うん。

 ――ああ、この話は、まだ本決まりではないゆえな」

 胸に留めて置いてくれと言う宗能に、古株の助太夫さんは、こらえきれないといった様子で笑い出した。

「したが、小秋をここへ移せば、さすがに皆察しましょう」

 くつくつと笑うのにしばし視線を留め、それから宗能はああと呻いた。

「……梅之丞殿は、御在宅であろうかな」

 これは今日中に押し掛けねばなるまいと思い直した宗能に、気心の知れた彼は、それこそ腹を抱えて笑い出したのだった。


 あまり遅くなる前に権左衛門家に向おうと、身支度を整えはじめた宗能の元に、訪れる者があった。

「今日も来たぞ」

 室に顔を出し、そう告げたのは梅中である。

「今日もとは、西田殿か?」

 西田清貞は昨日、昼四ツの鐘も聞かぬ内に喜多邸を訪れていた。

 とにもかくにもアキの事が気になっていたらしく、無事に戻っていると聞くや、まさに愁眉を開くといった表情を浮かべた。

「七太夫殿にも、小秋殿にも、ご迷惑を掛け申した」

 今回の礼と詫びとを何度も繰り返した清貞は、時間のない中とにかく駆けつけたのだろう。慌ただしく戻って行った。

 その際に、また改めてお礼に伺うとは言っていた。休ませたばかりだったので、アキも同席させなかったから、いずれ本人に会いに来るだろうとも思っていた。

 しかし、昨日の今日である。

 また何かあったのではあるまいなと、一瞬不安が胸を掠めた。

「どうするよ?」

「どうするとは?」

「会わせるのか?」

 梅中の視線に、宗能もまた傍らへとそれを落とした。

 着替えを手伝っていたアキは、帯を持ったまま小さく首を傾げて宗能を見上げていた。

「……まあ、それは、小秋を訪ねておいでだろうから」

 結局のところ、今回の騒動の皺寄せは、全てアキが負うような形となってしまった。謀っての事ではなかったとはいえ、西田久右衛門が気に病まずにいられるわけがない。アキに改めて詫びのひとつも言わねば、気持ちが治まらないだろう。

「共に連れ行こうから、少しお待ちいただいてくれ」

「……そうか。ならば通そう」

 梅中は仕方ないと言った様子で、障子戸へと手を掛けた。

「……まさか、客間に御案内してないわけではあるまいな?」

 仮にも相手は、主家から扶持米をもらう、歴としたお侍である。そうした人を玄関先で待たせておくとは、いかに梅中であっても無作法が過ぎるだろう。

「それはわかっているのだが、どうもあいつが来るとろくな話じゃなさそうで……」

 その応対に仰天した宗能であったが、そう頭を振る梅中に、多少なりとも同意を感じないわけでもない。

「まあそう言わずと、すぐにお通ししなさい。私も急ぎ参ろう」

 苦笑を浮かべて梅中を送った宗能は、手を伸ばしてアキから帯を受け取ると、その介添えを受けながら急ぎ身支度を整えていった。


 そのままアキを連れ客間へ向かうと、待ちかねていた清貞は、宗能への挨拶もそこそこに、戸口近くに控え目に座したアキへと向き直り、深々と手をついた。

「この度は良う救けてくだされた。ほんに何とお詫びして良いのやら……」

 アキは慌ててそれを止め、首を振った。

「お詫びなどと、そのような……」

「いいや。元はと言えば、我が子の力量を見誤り、虚勢を張った己の過ち。七太夫殿にも申し訳ない事を致しました」

 宗能にも改めて頭を下げた清貞は、深い溜め息を零した。

「なまじ、幼い頃から聞き分けが良うて学問も出来ましたゆえ、この子ならばと過分な期待を持ち過ぎたようにございます。あれにもだいぶ無理をさせてしまった……」

 久右衛門清貞は、己の力量で小十人組格として仕官した人である。

 甲府家は成り立ちの新しい家だから、ちょうど人を求めていた折で、自分はただ運が良かったのだと謙遜するが、浪人の数も少なくない当世で、それ叶えるだけの教養や才覚を持っている人物だった。

 そんな男が出来の良い息子を授かれば、期待をかけるのは当然であろう。

 台所事情も苦しいこのご時世、無事に成長した我が子に何かしらお役をと願わぬ親などどこにもなかった。

「いや、私こそ指導する立場にありながら間違っておりました」

 宗能は一清の様子に気がついていた。しかし、父親の願いも良くわかっていた。

 迷いながらも結局止める事なく稽古を続けてしまった。それを悔いていないと言えば嘘になる。

「久右衛門殿、もっと早くに申し上げるべきでしたが、御子息は……」

「良うわかっておりまする。これまでの御指導、かたじけのうござった」

 清貞は皆まで言わせず、頭を下げた。

 さすがに父親である。息子が何を望んでいるのか、とうに解っていたのだろう。

「あの、一清さんは……」

 おそるおそる、といった様子で、アキが口を挟んだ。

「それほど悪うございますか?」

「ああ。小秋殿にはお伝えしておりませなんだな。しばらく養生が必要だが、食べるようになりさえすれば大丈夫だと、医者は言うておりました。今朝も粥など少しばかり口にしておりましたので、やれやれと安堵致しましてな」

 アキを心配させまいと思ってか、清貞は最後には頬に笑みさえ浮かべていた。

 多少なりとも落ち着いたその様子に、宗能も胸を撫で下ろしたが、アキの方は心配そうな貌で「そんなに……」と小さく呟いた。粥くらいしか口に出来ぬと聞いて、驚いたようである。

「いやいや。必ず良くなりましょうから、そのようにご心配くださりますな」

 清貞は柔らかな笑みを浮かべ、それから何度か頷いた。

「ほんに小秋殿は、心根の優しい直ぐなお方だ。我が殿がお傍にと願われるのも無理はない」

 そう呟いた清貞は、居住まいを正して宗能へと向き直った。

「七太夫殿。本日は折り入っての御相談に参りました」

 喜多と同じように西田の家にも御下賜があり、その御礼に参上した清貞に、主から内々に打診があったのだという。

「小秋殿をぜひ御小姓にと望まれておられます」

 如何にございましょうと訊ねられ、宗能は思わず「は?」と返してしまった。

 思いも掛けぬ話過ぎて、如何も何もあったものではない。

「……御小姓と言うと、アキに御出仕を?」

 思わず小さな貌を見つめる。

 アキも整った二皮目に驚きを浮かべ、宗能を見上げていた。

「その、御子息ではなく?」

 清貞への打診であれば、西田家への話の可能性もあるのではなかろうか。

 梅中の話を聞けば、屋敷の者が直接アキを送り届けて来たようである。下賜品もあった。

 すでにアキが喜多の者である事は知れている様子だから、アキへの御出仕の話なら、こちらに直にあってもおかしくないと思ったのだ。

「いやいや。残念ながらと言いますか、小秋殿と我が倅とでは出来が違いましてな」

 冗談のように笑い、彼は続けた。

「あの猩々をと念を押されましたゆえ、間違いはございませぬ」

 ならば、やはりアキの事なのだろう。

「……よもやとは思いますが、まだこの子を西田家の者と思うておられるわけではありますまいな?」

「いや、それはございますまい。……まあ、確かに、直接申し上げたわけではございませぬが……」

 ふと不安になったのか、首を傾げる清貞の様子に、アキが「あの……」と小さく口を開いた。

「それはございませぬ。わたくしがお殿様に申し上げてしまいました」

「小秋が?」

「勝手を致しまして申し訳ございませぬ。あの方に嘘をつく事は叶わぬと思うたのでございます」

 アキは手をつき、ふたりに頭を下げた。

「なれど、誓っておふたりにお咎めのあるような事は申しておりませぬ。それだけは信じてくださいませ」

「小秋、まさか全て自分の一存だと申し上げたわけではあるまいな?」

 宗能はふと不安になって訊ねた。

 アキはどこか捨て身な所も持ち合わせている子である。

 案の定、少年は小さく俯いた。

「……お殿様は笑っておられました。私ひとりで舞台に上がれるはずがございませぬ。浅慮にございました」

「勝手をしたなどと責めるつもりはないが、しかし、お前良くもまあ……」

 今回は無事に済んだから良かったものの、相手によってはどんな事態になるかもわからない。最悪その命にかかわる事であるから、さすがに宗能もアキを諭さずにはいられなかった。

「申し訳ございませぬ。けれど、おふたりに何かあれば困る方がたくさんおられます」

(自分ならば良いと思ったか……)

 親のない子とはこれほどまでに哀れなものかと、宗能は思わず天を仰いだ。

 アキにとて、何かあれば皆が哀しむ。けれどアキは、自身に何かしらの価値があるなどと、ほんの露ほども思っていないのである。

「小秋殿。御身とて大切。ゆめゆめ自身をおろそかにしてはなりませぬぞ」

 清貞も同じように感じたのか、穏やかにアキを諭し、それからひとつ頷いた。

「なれど、そうした心映えにこそ、我が殿も感じ入られたのでございましょうなあ」

 しみじみと呟いた清貞は膝頭をアキへと向けて座り直し、改めて「小秋殿」と語りかけた。

「そこもとさえ嫌でなければ、西田の家へ参らぬか。この清貞が嫡子としてお迎えしとうござる」

「久右衛門殿、突然そのような……」

 宗能は思わず横から口を挟んでいた。

 養子云々でも驚くのに、いきなり嫡子にとはどういう話なのか。

 言われたアキも、面食らってしまっていた。

「小秋殿の話を聞いて、はっきりし申した。殿は、あくまでも小秋殿を西田の長子として通すおつもりなのでしょう。拙者にご内意を明かされたのは、そうした御心の証。なれば、この身も心を決めずばなりますまい」

「しかし、だからと言って歴とした御嫡男のある身で……。第一、一清殿をどうするおつもりだ」

「一清か。あれにはしばらくのんびりさせてやりたいと思うておりましたゆえ、ちょうど良いかもしれませぬなあ」

「久右衛門殿。そのような冗談を言うている場合か」

「はは。冗談のつもりもござらぬが、なに、次男丈夫届けでも出せば丸くおさまりましょう」

 あくまでも清貞は穏やかに笑っていた。

 このような重大事であるのに、一度心を決めた侍とはこういったものであろうかと、宗能は驚きと同時に不可解をも覚えた。

「のう、小秋殿。これは、我が身かわいさに言うておるのではござらんでな。常々そこもとの事は、かほどに心映えも美しく聡明な子は稀なものだと感じ入っておりました。家格の低い我が家が迎えたいだなどと、むしろ過ぎたる望みなのかもしれませぬが、どうか冗談などと思うてくださりますな」

「待ってくれ、久右衛門殿」

 本気なのだと悟った宗能は、慌てて話へと割って入った。

「この話はどうかしばらく。せめてこの子に考える時間をくださらぬか」

「もとより、今すぐ返事を頂けるとは思うておりませぬ。なれど、小秋殿。我が殿は一時の気まぐれで、かような事を口にされるお方ではない。もちろん身共(みども)とて仮にも武士だ。二言はござらぬ。本気の事と良う考えてくだされ」

 今一度、まっすぐにアキに告げた清貞は、また改めてお返事を伺いに参りましょうと、ひとまずその場を辞した。

 送りに立つ事も忘れ、アキは呆然と座っていた。

 宗能とて同じである。清貞と挨拶を交わしながらも、心ここにあらずといった体であった。

(いったい、何がどうなっているのだ……)

 確かに宗能は、その気に入られ方によっては、お抱えの話が来る可能性は承知していた。

 大名家は祝い事にせよ、もてなしにせよ、何かと御能であったから、たいていそのための要員を抱えている。甲府家のように御当主の趣味ともなれば、その人数もなかなかのもので、喜多から多くの者が採り立てられていた。

 お気に入りの申楽師となれば、舞台を務めよ、稽古の相手だと呼ばれるようになり、お出入りの役者として可愛がられるか、お召し抱えとして籍を置く場合もあったが、宗能の予想範囲はあくまでも申楽師としてのそれであり、まさか小姓に求められるとは考えてもみなかった。それも、この速さである。

(いや、確か小姓もいたか)

 長能の次男が、紀伊徳川家に小姓兼申楽師として仕えたはずである。ただ、彼の場合は父親と確執があり、支援者である紀州を頼っての選択だった。その上若死にしてしまったので、籍を置いた年数も短く、この度の参考になど全くならない。

 どう対処すべきなのかさえ思い浮かばぬほどに、宗能は狼狽していた。当人のアキなど、それ以上であろう。

 ふたりはしばらく言葉もないまま、その場に座り込んでいた。


「西田殿はお帰りのようだが、話は済んだのか?」

 静まり返った客間を、そう覗き込んだ者があった。梅中である。

「……いったいどうしたのだ、ふたりとも」

 室の様子に梅中は少なからず驚いたようで、アキの傍に座り込むと、心配そうにその貌を覗き込んだ。

「やはり、ろくな話じゃなかったか」

 忌々しげに呟いて、玄関の方へと視線を向ける。塩でも撒きそうな気配だった。

「いや、ろくでもないという事もあるまいが……」

 それどころか、アキにとってはとてつもない申し入れである。

 こうしている場合ではないと宗能は気を取り直し、改めてアキへと向き直った。

「小秋、お屋敷で何があった。甲府様からなんぞ言われたのではないのか?」

 え……? とアキは貌を上げ、それから「何も……」と首を振った。

「そんなはずはあるまい。良く思い返してごらん」

 言われて視線を流したアキは、何か思い当たった様子で小さく口を開いた。

「何だね?」

「……あ、でも……」

 憚るような事なのか口を閉ざす。

「ならば、あの日の事を順に聞かせてくれまいか」

 この度の話が、いったいどういった想いで下されたものなのかを判断するには、そこを問い正すしかないと宗能は思った。

 それを強いるのは初めてである。

 アキはためらいを見せたものの、宗能に逆らう子ではない。ぽつぽつと語り始めた。

 西田久右衛門がその場で語ったように、アキもまた、聞かされていたのとは掛け離れた謁見の状況にまず戸惑い、甲府宰相から間近く声を掛けられても、ただただ恐れ多く、ひたすら伏していたと云う。

「……西田様が出て行ってしまうと、ただもう心細くて、どうしたものかと……」

「そうであろうな」

 宗能もその心情は良くわかり、小さく頷いた。

「でも、お殿様はとてもお優しいお方で、いろいろとお言葉を掛けてくださいました。そして歳を訊かれました時に、私が偽物だと御存知なのではと思いました」

「それで小秋から申し上げたのだね。お叱りは受けなかったか」

「はい。むしろ良く舞ってくれたと褒めてくださいました」

「そうか。実際に小秋は良く舞ったと思う。あれを観れば褒めずにはいられまい」

 声を励まして宗能が言うと、ようやくアキは心持ち表情を和ませた。

「そのあと、名をお訊ねになりましたゆえ、全て包み隠さず申し上げました」

 拾われ子だと告げたという事である。

「甲府様はなんと申された」

「そっと抱きしめてくださり、親を恨むなと……」

 そうかと宗能は頷いた。やはり、そういうお方かと。

「あのお方はな、ご先代様がお若い頃に、お手付きのお女中との間にもうけられたお子様で、御結婚前の事ゆえ相手側への配慮もあって、一度他家へ出されたのだそうだ。その後、他に男子がなく呼び戻されはしたが、ああしたお血筋に生まれながら、苦労なさっておいでなのだと聞いている」

「ああそれで……」

 アキは一度瞳を閉じた。

「あの方の瞳が少し赤くて、どうして私などのために泣いてくださるのだろうと……」

「そうだな。御自身が一度親に遠ざけられた方ゆえ、お前の身の上も他人事(ひとごと)とは思えなかったのであろうよ」

 頷くアキの瞳もまた赤く潤んでいた。

「お殿様は、もったいなくも私の兄になろうとまで仰ってくださいました。肉親の縁が薄いなら、念友として護ろうと……」

「アキ、それで、お受けしたのか?」

 傍らの梅中は僅かに顔色を変えてアキを覗き込んだ。

「お受けするも何も、あんな立派なお方を兄に持つなど許されるはずがないもの。ただ、その御心が本当に嬉しくて、一夜限りでも幸せだった」

「では、一夜限りの事なのだな?」

「だって、梅中。あの方は御大名なのに」

 アキはそう言って首を振ったが、宗能はそういう事だったのかと妙に納得してしまった。

 アキを屋敷に留め置かれた時、あのようなお方が役者遊びなどなさるのかと、正直意外に思った。だが、この話を聞けば、アキのもらって来た護り刀も、この度の小姓にとの思し召しも、全てに合点が行く。

 綱豊候は遊びのつもりなど微塵もなく、アキを念弟と想い定めて契りを交わした。

 アキから感じる認識の相違は、端からお客の相手とお傍に上がったゆえのものだろうか。

 いや、この子はむしろ、過ぎた期待を抱かぬように、自らに言い聞かせているようにも思える。

 三十五万石の大名など、雲の上の存在である。逢いたいからと逢える人ではない。

 たとえ一度限りの逢瀬であっても、心の内で生涯兄と慕う。それほどの覚悟で肯いたのかもしれなかった。

 容姿も心映えも美しいこの子が、念弟として望まれるのは、何も不思議な事ではない。アキに不足があるとしたら、その出自くらいの事だろう。綱豊候は西田の子として出仕させる事で、それさえ補おうとしているのではなかろうか。

 小姓ならば常に間近に(はべ)り、直接言葉も交わせる身分となる。

 これは、向こうは本気に違いないと思った。

 だとすれば、少々の事では引き下がらないかもしれない。

 もしこのまま、あの手この手でお召しが続くのなら、西田家の子として出仕するのがアキにとっては一番良い気がした。

 西田久右衛門という人が、家族思いの優しい男なのだという事は、宗能も常々感じていた。侍らしくないと言えば語弊があるが、支配階級にありがちな虚勢というものが全くなく、頭を下げるべき時には(いざぎよ)く下げ、己の非も素直に認める。それこそが真の(おとこ)らしさであり強さなのだろうと、むしろ好印象なくらいである。

 加えて、この度の事ではアキに恩を感じている。その彼が、アキを(ないがし)ろにするとは思えなかった。

 さらに、甲府様、桜田様と呼ばれる綱豊候である。

 喜多流三世の立場上、さまざまな大名と交流がある宗能だが、綱豊候のお人柄については、まさに非の打ちどころがないといった印象であった。

 強いて難を上げるとしたら、今の将軍との関係であるが、それさえも()の人に落ち度があっての事ではない。

 先代将軍の次弟の子である綱豊候は、長子相続の順からすれば、将軍として立っていてもおかしくないお血筋の方である。ただ、父君が早くに身罷(みまか)られた事がその運命を変えた。五代将軍の座は、父の弟の綱吉公へと渡ったのである。

 しかし、本来の相続人は綱豊候であるとの意見は根強く、自身の子を次期将軍として立てたい綱吉公にとっては大きな妨げとなっていた。

 この一連の問題はふたりの間の溝となり、現将軍はその甥を冷遇した。

 機を見るに(びん)な者は、すでに甲府家とのかかわりを避け始めているが、それでも綱豊侯の事を()(ざま)に言う人はいない。それだけのお人柄なのである。

 そういった人に望まれてお傍にお仕えするのは、アキにとってはこの上もない幸運に違いないと宗能は思った。少なくとも、自分の養子として申楽師になるよりは、ずっと開けた未来がそこにはある。

 アキを留めてはならない。宗能は思った。

「アキ。この度の西田殿からのお申し出、悪い話ではないと私は思う」

 言われて、アキは戸惑ったように視線を上げた。

「何の話だ。あの男は何を言って来たのだ」

「あの男などと。アキにとっては養父になるかもしれない方だ。そう言った口のききかたは止しなさい」

「養父って……。だって、アキは中条右京になるんだろう?」

「甲府様がアキを御小姓にと望まれているそうだ。久右衛門殿はそれを受け、西田家の嫡子として迎えてくださる心づもりでおられる」

「嫡子? 一清がいるのにアキを?」

 そんな馬鹿なと、梅中は首を振った。

「だいたい、そのお殿様だっておかしいじゃないか。たった一度会っただけのアキを小姓にだなんて」

「おかしいか? 私はそうは思わない。アキほどの子なら望まれて当然だ」

 不安気な貌を覗き込み、宗能はにこりと笑った。

「小秋はずっと私の身の回りの世話をしてくれているが、一度も不足を感じた事はない。それどころか、良く気の廻る得難(えがた)い子だと思っていた。御小姓として出仕しても、立派に務まるだろう」

 それを請われた時、アキはあくまでも喜多の子方だと釘を刺したが、かの御隠居もまた、アキを傍に置きたいと宗能に懇願したものだ。アキはそういう子なのである。

「アキ。これはお前が決めなさい。今までのしがらみは全て別にして、アキが進みたい道を選びなさい。もし、お前が私に恩を感じているのなら、はっきりと言っておく。私はアキに一番良い道を選んで欲しい。たとえそれが袂を分かつ道であったとしても、最善の選択ならばそれでいい。子に幸せになって欲しいと願わぬ親は、どこにもおらぬのだよ」

 宗能は、涙に濡れる赤い瞳を見つめた。

 なかなかきちんとしてやる事が出来なかったが、アキの事は我が子同然に思っていた。

 いや、黄金の葉が降りしきる大樹の元から拾い上げたその時から、確かにアキは宗能の子だった。

 この子には、してやりたくても成せなかった事がたくさんある。教えてやりたかった事も、伝えきれなかった事も山ほどある。

 けれど、それでも宗能は、その道を閉ざすまいと思った。それがせめてものこの子への(はなむけ)なのだと。

「この話は、アキが決断するまでこちらからは口にしない。良く考えて、心を決めたらアキから話しておくれ。梅中も、この件に関してはいっさい口を挟んではならない。いいね」

「だけど……」

 さすがの梅中も、どうしたらいいのかわからないといった様子で、アキと宗能を交互に見ていた。

 その傍らでアキは泣いていた。

 ただ肩を震わせて、零れ落ちる涙を指先で拭っていた。

 けれど、その涙を止めるのは、自分ではないのだと宗能は思った。

 これは、アキ自身が選ばなければならない。

 込み上げて来る思いをこらえながら宗能は立ち上がり、その室を後にした。

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