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秋芳馨る  作者: 故
6/10

 稽古場を出た梅中は、廊下の途中でふと足を止めた。

 お道具類を保管している、お蔵の扉が少し開いている。一度通り過ぎたのを気になって引き返してみると、案の定、中に人影があった。 

「アキ、起きてたのか。様子を見に行くところだったんだ」

 振り返った少し年下の少年は、愛らしい瞳に梅中を捕えると、にこりと笑った。

「なんだ、昨日の片付けか?」

 言いながら近づくと、アキは華奢な顎を小さく引き、

「あらかた済んでしまったみたいで……」

と、消え入るように言った。

「アキはおシテだからいいんだよ」

 舞台前後の雑事は年少の者が担う事が多いが、今回は急遽とはいえアキがシテを務めた。皆もそこは心得ていて、道具類の片付けなども手分けして終えている。

 後は、風通しにぶら下げてる装束を、頃合いを見て取り込む位である。

「俺がやるから心配するなって。兄が来てるんだ。お前も来いよ」

 そう手を引くと、

梅長(うめなが)さんが?」

と、貌を輝かせ、アキはすんなりと梅中の導きに応じた。

 ふたりが本舞台を覗くと、その梅長が舞っているところだった。宗能に手ほどきを受けに来ているのである。

「やっぱり上手いなあ……」

 梅中が呟くと、傍らのアキも小さく吐息をついて頷いた。

 梅中とは十二離れているこの長兄は、幼い頃には二世当能も存命で、初世長能から受け継いだその芸を直接学び育った。加えて自身の気質もあり、公達物を舞わせれば、その気品は匂うが如くとの評判である。

 どちらかと言うと芸風の煩い梅中にとっては、羨望をも越えた存在だった。

 梅中とアキは夢中でその舞いを眺め、宗能の寄せる助言に耳をそばだてた。

「やあ、ふたりとも来ていたのか」

 ひととおりの稽古が済むと、梅長はそうふたりに声を掛けてくれた。

「話が終わったら見てあげよう。少し待っておいで」

 やわらかな笑みを残すと、梅長は宗能と共に奥へと向かった。何やら話のある様子である。

 その間にふたりは、今しがた見た梅長の舞を、ああでもない、こうでもないと真似てみた。

 梅中とアキはずっとこうだった。

 お舞台や稽古を観ては、それを真似てふたりで舞い、意味も判らぬままに謡を口にし、お囃子の拍子を躰で刻んだ。

 物心のつく前から申楽に包まれて育って来たのである。時には宗能にさえ、その物覚えを驚かれる事があった。

 特に、自身の成長より先に歳上の梅中を追って来たアキは、学んだ事を自分のものにするのも早かった。

「これは、私の代役も出来そうじゃないか」

 いつの間にか戻ってそれを眺めていた梅長は、おそらくは昨日の話を聞いて来たのだろう。そう言って、アキに笑みをこぼした。

 それから彼は、ふたりに稽古をつけてくれた。梅中が務める予定の船辨慶である。

 前シテが静御前、後シテが知盛の霊と、まったく違う役柄をひとりで演じ分けるこの演目は、その劇的な構成も人気があり、良く上演された。梅中もアキも、子方として何度か経験している曲だった。

 いくつか手直しを受けた後、静御前の舞を通してみる。

 最後まで黙ってそれを見ていた梅長は、

「形としては悪くないが、性根が全く成ってないな」

と、厳しい言葉を梅中へと向けた。

「いいか。静御前は最愛の義経と別れなければならない。彼女は傍を離れたくないが、義経の思いも理解している。その身を切られるような心で舞うのが、そんなに元気でどうする」

 申楽は芝居のような演技とはまた違うのだが、役の心情は舞に表われなければならない。その心根を理解していなければ伝わらないと言うのが、梅長の信条だった。

「元気なつもりはないんだけど……」

 いつもは威勢のいい梅中も、この兄には敵わないと認めているので、しょんぼりとうなだれた。

「……そうだな。まだ難しいかもしれぬな。だが、別れが辛い人はお前にもいるだろう。ひとときも離れたくない人、ずっと傍にいたい人だ。恋しい人でもいいかもしれぬ。母者のようにな」

 梅長はそう言って、歳の離れた弟の肩を愛しげに叩いた。

 母とは今の継母ではない。ふたりを産んでくれた人の事だった。

 逢いたくても逢えない。止むに止まれぬ事情。どうしようもない現実。なんとなくではあったが梅中にも、静の心情を掴む糸口が見えたような気がした。

「さあ、次は長刀(なぎなた)を教えよう」

 気分を変えるように梅長は言い、後シテの長刀の捌きを細かに教えてくれた。

 七太夫宗能と云う人は、幼い頃から天賦の才を見せ、七才で器用に舞った事から七ツ太夫の異名をとった長能の再来とまで言われたほどの天才だった。

 ゆえに、多少人間離れしており、さらりと難しい事をやってみせて、簡単だろうと言ってのける。

 本人は本当にそう思っているので、全く悪気はないのだが、凡人にでも理解出来るように噛み砕いて教え諭すという発想が、そもそも存在しないのである。

 その舞を見れば、師匠と尊敬する以外の気持は湧いて来ないのだが、教えを仰ぐには少々難しいところも持ち合わせている人だった。

 その点梅長は、ひとつひとつ丁寧に動きを教え、細かな直しもしてくれる。ふたりにとっては頼りになる兄であり、師であった。

 長刀を使う演目は他にもあるが、同じように振り回せば良いというわけではない。今回の知盛は「桓武天皇九代の後胤」と自ら名乗りを上げるように貴人(あてびと)である。荒々しいだけではならず、それでいて義経を討とうと襲い掛かる怨霊だから、威圧感や禍々しさも必要だった。

舞働(まいばたらき)は私より巧い位だ」

 梅中の知盛を眺め、兄はそう笑った。 

 選り好みをするつもりはないが、静か知盛かと言われれば、後シテの方が梅中の気質に合っているのか稽古も楽しい。

「小秋もずっと良くなった。背が伸びたから少し楽になったかな」

 長刀は子供の背丈では捌くのも難しいが、形も綺麗に決まらないのである。

「猩々乱の事聞いたよ。面掛(おもてがけ)と披きおめでとう」

「ああ、そうか」

 兄の言葉に、梅中もようやくその事に気がついた。当の本人も驚いた様子で、ぽかりと梅長を見上げていた。

「急な事なのに良くがんばったね。視野が狭くて大変だったでしょう」

 面に開いた小さな穴が頼りなので、視界も利かないが呼吸も苦しい。

 梅中の初面(はつおもて)は、不慣れな上に気負いと緊張が加わって、すぐに息が上がってしまった苦い経験となった。

 アキは梅長の言葉に頷きながらも、

「見えないのは少し怖かったけど、もしかしたら面のおかげで舞えたのかも」

と、小さく首を傾げた。

「お前、取られるなよ」

 あくまでも面を掛けている己であって、役そのものになってはいけないと常々言われている。そうしないと躰を取られる。憑依されると言うのだ。

 面は身支度の最後に掛け、舞台を終えると一番に外すのだが、それもその用心とされる。

 子方を卒業して面を掛けるようになり、それが持つ力を身を持って感じてはじめて、梅中にもその教えの意味がわかるようになっていた。

「そうだね。確かに面に助けられる事もないわけではないけれど、決してそれに頼ってはいけないよ。お舞台はあくまでも舞手の力量で魅せるものだと心得えなさい」

 そのために日々のお稽古が大切なのだと諭され、ふたりは「はい」と声を揃えて頷いた。

 続けて指導の礼を述べ、今後もお願いしますと並んで手をつくふたりに、梅長は快くそれを返してくれた。

「正直、小秋の舞に(つや)が出ていて驚いたよ。お舞台の経験を積んだせいかな。お前もうかうかしていられないな」

 帰り支度をしながら、そんな事を言って笑う。

「ご宗家も随分と褒めていた。可愛い二人乱も近いかな」

「二人乱?」

「ふふ。まあ、ふたりとも励みなさい。それから吉治(きちじ)、たまには顔を見せにおいで。継母上(ははうえ)も待っているよ」

「一言多いよ」

 本名で呼び、諭す兄に、梅中は少し口を尖らせた。

「では、また近いうちにな。ここでいいよ」

 送りに出ようとするのを留めた梅長は、丁寧に礼を述べるふたりに笑顔で頷き、館を後にした。

「アキとなら石橋(しゃっきょう)を演りたいなあ」

「梅中がおシテ?」

「そりゃあ、俺の方が兄貴なんだから」

 梅中が当然のように言うと、アキは少し驚いたような表情を浮かべた。

「なんだよ? アキも白がいいのか?」

「ううん。そんな事ないよ」

 アキは慌てた様子で首を振った。

「でも、梅中は仔獅子も巧いから」

 石橋には一人獅子とツレのある連獅子がある。

 梅中がふたりでと願っているのはもちろん後者であるが、その獅子は親子とされ、シテはどっしりと力強く、ツレは軽やかに俊敏に狂う。躰の利く梅中は、飛んだり跳ねたり敏捷に狂う赤獅子が得意なのは確かだった。

 ただ、なんと言ってもシテの白獅子が梅中の憧れである。アキと舞いたい曲はたんさんあるが、石橋が筆頭なのはずっと変わらなかった。

「まあ、まだ先の話だけどな」

 まずは披きを許されねば成らぬが、石橋は重曲である。今少し申楽師としての精進を積まなければ、それは叶わないだろう。

「その前に、静をなんとかしないとな」

 梅中は小さく呟いて、アキとふたり稽古場に戻ると、舞扇を取ってまたそれを舞うのだった。


 夕餉を終えたふたりは、改めて宗能に呼ばれ、その部屋を訪れた。

「兄君に良う教えてもらったか」

 揃って返事を返したふたりに「そうかそうか」と頷き、彼はにやりと梅中を眺めた。

「たまには帰って来いと言われなかったか?」

「余計なお世話だ」

 ぷいとそっぽを向く。が、ふと不安になり、梅中はそれを戻した。

「まさか、俺を追い出すって話じゃないよな?」

「うん?」

 宗能は梅中を見つめ、それから声を上げて笑い出した。

「別段、追い出すつもりもないのだが、お前もそろそろ先の事を考える歳かと思ってな」

「先の事?」

「そうだ。と言っても、すぐに独り立ち出来るわけでもあるまい。まずは元服かな」

「あ……」

 梅中は数えで十七を迎えている。確かにそんな年頃だった。

「うん。先程梅長殿とも相談してな。お父君も異存はないそうだ」

「ありがとうございます」

 手をついて頭を下げる梅中に宗能は頷き、

「そこでだ」

と、話を続けた。

「お前に今一度確認して置きたいのだが、本当に左京を名乗るのだな?」

「俺は、伯父貴の名を継ぎたい」

 梅中は大きく頷き、はっきりと口にした。

 初世七太夫の長男である左京直能は、その住まいが京にあり、梅中が物心ついた頃にはすでに高齢でもあったので、近しく舞台を観る機会も、手解(てほど)きを受ける事も叶わなかったが、名人として名を馳せたその存在は、同じ血を引く梅中にとっては特別なものだった。

 二年前に伯父は天寿を全うし、左京の名は継ぐ者のないままに空いている。兄は父の権左衛門を継いだ。梅中がその名を望んでも、誰も困らぬはずである。

「ならば、梅弟(うめおと)に十太夫を名乗らせる。それでかまわぬのだな」

「異論ない」

 十太夫とは、宗能の養父二世当能の名である。すなわち、梅中の弟が喜多の宗家を継ぐという事だった。

「どのみち、親父はそのつもりだろう」

 もともと宗能が、次の四世は喜多の血縁からと考えていたのは梅中も知っている。兄に男子が産まれれば、すぐにでも養子に迎えたはずである。

 父も兄もそれを承知していた様子で、梅長は早々と所帯を持ったのだが、一向に子宝に恵まれる気配がない。

 とは言え、この先に望みがないわけでもないし、三世七太夫もまだまだ若い。さほど急ぐ必要はないと思うのだが、最近、何かとそれを口にする者がいた。

 梅中の父である先代権左衛門だった。

 長子の梅長は宗能と五つ違いで跡を継ぐには歳が近すぎるが、末の梅弟ならば二十も違う。親子とも言える歳の差である。ここは梅長の弟を養子に定め、この後に宗能なり梅長なりに子が出来れば、その次を継がせれば良いのでは。そう囁くようになったのだ。

 親父は変わった。そんな話が耳に入るたびに、梅中は思った。


 二世十太夫当能は、四十を僅かに越えたところでこの世を去った。芸に円熟味も増し、これからという時の早過ぎる死であった。

 養子は迎えていたものの、まだ十五歳。喜多には他に、二世の弟権左衛門と、その子敏丸(さとしまる)がいた。梅中の父と兄である。

 血筋を理由に、三世には権左衛門か、あるいは、喜多の芸をしっかりと受け継ぐ敏丸を推す声も上がった。若年ではあったが、父親の後ろ盾があれば、(よわい)十歳の彼が三世として立つ事も不可能ではなかった。

 しかし当の権左衛門は、芸事の継承に重きを成すのは血筋にあらず。二世がその才を見込んで迎えた子がいる以上、跡目を論議するには及ばずと主張した。さらに年少の我が子で良いのなら、歳など問題なかろうと。

 そうして七太夫宗能を三世として立て、その看坊(後見)を引き受けたのである。

 その事が彼の名を上げた。

 喜多の分家に過ぎなかった権左衛門家は、跡を継いだ長子の評判もあり、今では本家と肩を並べるほどの隆盛ぶりである。

 権左衛門自身は、喜多の血を引いてはいるが、どちらかというと茶の湯や俳句などを愛した人だった。長能の子として厳しく仕込まれ、当然ながら分家として立つだけの器量は備えている。ただ、芸道に対する欲が薄く、上にも下にも兄弟がいるのを幸いとばかりに風流の道を楽しみ、嫡男の申楽師としての教育さえ、兄を頼りと任せきりだった。

 彼は別名を梅之丞と言い、自身も大変梅の花を好んだ。季節になると良い香りで満ちる館の評判もあり、梅太夫とも呼ばれた。その子供達という事で、三兄弟は、梅長、梅中、梅弟と呼ばれているのである。いわば愛称のようなものだった。

 兄はすでに権左衛門を継ぎ、(いみな)を成能と謂ったが、変わらず周囲は梅長である。

 梅中もまた、幼名から改めた吉治と言う名があまり好きではなく、ずっとこちらで通して来た。

(でも、左京だったら呼ばれるのも悪くないかな)

 そう思っていた。


「確かに梅之丞殿はそうお考えの様子だが、それはそれだ。決めるのは私だよ」

 宗能はそう言って、心持ち梅中へとその身を傾けた。

「梅中。父や弟と争いたくなくて、左京を継ぎたいと言ってるのではないのか? 長子相続の順から言っても、舞手としての力量にしても、次は……」

「待ってくれ」

 梅中は師の言葉を途中で遮った。

「頼む。それ以上言わないでくれ」

 宗能が前々から跡目を自分にと思ってくれていた事には、梅中も気付いていた。

 だが、それは受けられない。自分でそう決めたのだ。

「俺を見込んでくれるのはありがたい。そして、確かにこれ以上親父と揉めたくない気持ちもあるのかもしれない。けど、正直なところ、四世の名がさほど欲しいとは思わんのだ。第一、俺が公方様やら御大名やらと、穏便に話が出来ると思うか?」

 全て本心である。

 梅中は自分のこらえ性のなさも充分承知している。短気を起こして不興を買えば、それこそ喜多の進退にかかわるのだ。そんな重責を負える器ではないし、負いたくもなかった。

 宗能は一瞬真顔で梅中を見つめ、それからははと笑った。

「なるほど。正直な子だ」

 流派を背負う者は、当然ながらまず芸の良し悪しが問われるが、幕閣や諸大名との関わりが避けられぬ以上、政治的な才覚もまた必要な立場であった。

 名声は、(ねた)(そね)みも同時に呼び込む。成り上がりの喜多家を良く思わない者もあったから、時には無理難題も降りかかって来る。忍耐も、機転も、場合によっては狡猾(こうかつ)さもなければ喜多を守れないのだ。

「それに、実際に家督を譲るのはまだまだ先なんだから、跡継ぎだって若いに越した事ないだろう?」

 それには年若の梅弟が適任だとの、梅中なりの論理なのだろう。

 彼らしいと笑みを零しながらも、宗能は大業に肩をすくめて梅中の顔を覗き込んだ。

「お前さん、私に早く楽をさせてやろうとか、そういう気持ちはないのかい? これでも梅之丞殿を羨ましく思っているんだがね」

 半ば冗談ではあるが、長子が成人するや家督を譲り、趣味人として悠々と暮らす。そんな人生に憧れる気持ちがないわけでもない。

 しかし、そんな宗能を笑うでもなく、梅中は真顔で言い放った。

「申楽しかないのに、隠居して何するんだ?」

 言ってくれるじゃないかと、反論する言葉を探してみるが、確かにこれと云った趣味もない。うーむと腕を組んだ宗能に、梅中は重ねた。

「俺は無論だが、梅弟とてもまだまだ精進が必要だろう? 隠居とか当面無理だぞ」

「なるほど、早くに楽をしたければ、まずはお前達を育てろと言うのか。なれば明日から容赦なくやるぞ」

 戯言(ざれごと)半分、負け惜しみ半分で言い放てば、梅中が大仰に叫んで仰け反ったので、やや溜飲を下げる宗能であった。

 歴史の浅い喜多家には、宗家を支える分家も職分もまだまだ少ない。それを思えば、兄二人を分家として大成させ、年若い梅弟の()り所とするのも、理に叶っているのかもしれなかった。

「……俺が左京を望むのは、親父にとって嫌味になるか?」

 珍しく不安を漂わせた物言いに、宗能は視線を戻した。

 喜多流二世を継いだのは、嫡男の左京直能ではなく、弟の十太夫当能だった。

 すでに喜多の後継者として名を馳せていた直能が、齢四十で突如隠居したためである。

 長能は病を理由に直能を廃嫡し、当時伊達家に召し抱えられていた当能を戻して跡目へと直した。彼は十歳で舞台を務めた際に、自身の七ツ太夫の謂れから、十太夫を名乗らせたほどの愛児である。長能の贔屓による跡目すげ替えと噂された。

 今また弟が十太夫で、兄が左京を名乗ろうとしている。梅中が左京を欲するのは、長子の順を(くつがえ)しての継承への当て(こす)りだと邪推されるのを案じていた。

「梅之丞殿とて子細はご存じなのだ」

 気に病む必要はないと、宗能は首を振った。

 実のところ、直能は芸に邁進(まいしん)するあまりその心を取られていた。舞からそれを察した長能は顔色を(なく)し、彼を舞台から遠ざけた。このまま申楽師として面を掛け続ければ命を取られる。誰しも我が子が可愛いのは当然である。長能は、喜多の名声より子の命を選んだのだ。

 無論、跡を継ぐにふさわしい舞手が他にいたことも、廃嫡を容易にはした。

 結果的に、二世を継いだ当能は早死にし、廃嫡され入道した直能は翁と呼ばれる年まで永らえた。人の一生とは判らぬものである。

 芸道を歩む者は、際限のない高みを目指して日々の精進を重ねる。もっと上へと自らを鼓舞する思いは、時には狂気となって己を(むしば)みさえする。彼らは、父の、上つ方の、世間の、数多の期待に(こた)えなければと、自らを追いつめ、もがき苦しんだ。立場は違うが、一清もまたそうだった。

 己の力量より大きく見せようなどとは露とも思わぬ宗能であるが、舞手としてその苦しみは理解しているつもりだった。

 それは、左京や十太夫と同じ父を持つ梅之丞もであろうし、梅中もまたその悼みを()る者である。

 (ひと)り京で仏門に入り、継ぐ者もないまま生涯を閉じた伯父に対する追悼の思いが、名の継承に込められているのかもしれなかった。

「ただ、縁起が良いとも言えぬから、梅之丞殿は案じられるかもしれぬがな」

「縁起だのゲンだの、一切気にしないぞ」

「まあ、そうだろうがね」

 訊くまでもないと宗能は笑った。

 左京も長能から受け継がれた名であるが、彼はかつて六平太(ろっぺいた)とも名乗っていた。

 名付けたのは、彼を可愛がっていた太閤秀吉公である。

 一説にはポルトガル語由来ともされるその名を、梅之丞は次男にと考えていたようだ。

 ただ、今は徳川の御世である。長能もそれを(はばか)り、末子に六平と名付けるに留めた。

 (こと)に今の公方様は癇性である。何がお気に障るかは判らない。そんな危険を冒してまで名乗らせる必要もなかろうと宗能と語り合い、その話は立ち消えとなったのだ。

「俺は、左京として立てると思うか?」

 真顔で尋ねる梅中の視線を受け止め、宗能はまた笑い出した。

「らしくない物言いだな」

「どうなのだ」

「そうさなあ」

 また、是でも否でもないこれである。

「だから、そう言ったところは好かぬと言うに」

 梅中は()れるが、宗能も一筋縄では行かぬ人である。にやにやとそんな梅中をおもしろがりながら、のらりくらりとかわしてみせる。

「ま、先の事はお前次第だろうがね。ただ、言うておくが、左京の名とて軽いものではない。おいそれと許した気はないよ」

 まだ頬に笑みは残しているが、梅中には充分だった。

「肝に銘じる。ここまで御指導いただきました事、心から感謝しております。そして、これからもどうかお導きください」

 きちんと手をついて頭を下げる梅中に宗能は頷き、

「今少し私の元にいなさい。お前がいなくなると家の中が静かになり過ぎて、寂しくなりそうだ」

と笑った。

 梅中は少々気色ばんだが、目を細めて自分を見つめるその姿に、まあいいかと思うのだった。


「さて、次は小秋だ」

 片隅で、じっとふたりのやりとりを聞いていたアキは、そう声を掛けられ視線を上げた。

「少し遅うなったが、梅中と一緒に、お前も半元服しなさい」

 この頃ようやく背が伸びて来たが、少し前まで歳より小柄で貌立ちも幼かったアキは、澄んだ声をしていた事もあり、梅中に比べるとずいぶん長く子方を務めて来た。

 なまじ可愛い貌をしているので、元服を惜しまれているのではないかと周りが笑っていた位である。

 拾われた年から数えると、アキは梅中のふたつ下のはずだから、決して早いわけではないのだが、なにやら意外な気さえするのはそのせいだろうか。

「ありがとうございます」

 アキの方は、驚くでも喜ぶでもなく、ただ神妙に手をついていた。

「それで仮名(けみょう)だが、右京はどうだ?」

「右京……」

 梅中とアキは、共に小さく呟いて、どちらからともなく顔を合わせた。

 左京と右京。宗能はふたりに対の名を与えてくれたのである。

「そうだな。とりあえず、中条でも名乗るか」

「中条って……」

 梅中はそこで口を結んだ。

 中条は宗能の旧姓である。それを名乗らせると言う事は、正式にアキを養い子に迎えるつもりであろうか。

「ひとつ言って置かねばならないが、喜多の跡目はあくまでも梅弟だ。それは承知しておいてもらわねばならないよ」

「そんな……」

 アキは小さく首を振った。跡継の話に自分がかかわるなどと、ほんの少しでも考えるアキではない。

 宗能もそれは充分承知している様子で、何度もアキに頷いてみせた。

「良うわかっている。それでも言っておかねばならぬのだ。いいね? アキ」

「はい」

「うん。正直、私がしてあげられる事など、お前を職分として立たせてやる位かもしれない。それでも良かったら、私の子になりなさい」

 アキは言葉もなく宗能を見つめていたが、やがてその瞳に涙が溢れ、頬を伝って膝元へと砕け散った。

「どうした。泣くほどイヤか?」

「違……」

 アキは大きく首を振った。

「そん……ない……って……」

 全く言葉にならないまま、アキはしゃくりあげた。

 宗能が我が子として迎えてくれるとは、想像もしていなかったのだろう。

「良かったな、アキ」

 梅中が背を撫でると、アキは頬を拭い拭い頷いた。

「もっと早くにきちんとしてやれば良かったのだが、お前にはいろいろと辛い思いをさせたね」

 宗能の言葉にアキは首を振った。

 アキは、ここに置いてもらっているだけで充分なのだと、途切れ途切れに言った。

 宗能が拾わなければ、アキはここにはいなかった。落としていたかもしれない命を救い、こうして育て上げたのだ。

 改めて梅中はそれを思い、師を凄いと思った。

 血の繋がらぬ流派を背負ってさえいなかったら、この人はとっくに自分を父と呼ばせていたのかもしれない。跡継は梅弟と定めるのと引き換えに、アキを我が子に迎える事を選んだのではないか。そんなふうに梅中は思った。

「ならば、承知だね?」

「はい」

 改めて訊ねる宗能へと頷き、それから手をついてアキは頭を下げた。

 言葉には出来ぬ様子だが、その想いは滲み出て、ふたりへと伝わって来た。

「良い日を選んで式を執り行おう。ふたりのお披露目も正式にするつもりだ」

 これが兄の言った二人乱かなと、梅中は思った。

 それなら石橋などと贅沢は言わぬ。左京右京の揃い踏みで舞うなら、なんでも楽しそうだった。

「本決りになったら私から皆に話そう。なに、近いうちに梅之丞殿と相談して全て決めて来る。それまでの事ゆえな」

 それまでは黙っていろと言う事だろう。

「ああ、今ひとつ。いずれ梅弟はこちらに住む事になるから、そのつもりでな」

 宗家の跡継ぎとして宗能の養子となるのだ。当然だった。

「あ……」

 頷こうとした梅中は、そういう事かと思わず声を上げた。

「どうした。確かにお前にはいろいろ不自由はあろうが……」

「梅弟の事などどうでもいい。心配せずともわかってる」

 弟を次期当主として立てて行かねばならぬのだ。座る場所から全てが梅弟の下の扱いとなるだろう。

 だが、梅中にはどうという気もない。それよりも重要な事があるのだ。

「頼みがある。アキを俺にくれぬか。この通りだ」

 梅中は師の前に手をつき、頭を下げた。

 アキがこのまま宗能の子になるのも、職分としてひとり立ちするのも構わない。だが、次の四世の片腕にと思ってもらっては困るのだ。

 梅中の思い描く未来には、常に傍らにアキがいる。

 他は何を諦めても構わない。

 なんなら、左京の名だって要らない。

 けれど、アキだけは譲れなかった。

「兄には父の代からの職分達がいる。梅弟も宗家の弟子達を受け継ぐ。けど、俺には誰もおらん。もちろん自分で育てねばならぬのはわかってる。だが、せめてアキをつけてくれぬか。いや、アキだけでいいのだ。頼む、アキを俺にくれ」

 まっすぐな梅中の視線を、宗能はゆったりと受け止め眺めていた。

「そうさなぁ、はナシだぞ」

 しっかりと釘を刺し、きりりと見据える。

 宗能は、これは先を越されたと愉快そうに笑い、それから梅中の顔を覗き込んだ。

「ならんな」

 厳しい声に、どきりと胸が痛んだ。

「――と、私が言ったら、お前は諦めるのか?」

 思わず言葉に詰まる。言われてみればその通りだった。

「第一、訊ねる相手を間違っておろうが」

「あ、そうか……」

 傍らのアキへと視線を移す。

 アキは驚きのあまり涙が止まったらしい。潤んだままの瞳を見開いて、梅中を見つめていた。

「まあ、私とて考えもなく右京の名を与えたわけではないが……」

「なら!」

 勇んで身を乗り出す梅中を掌で留め、宗能は言葉を続けた。

「まずは、お前がきちんと一人前になるのが先だ。その上でこの子に訊くがいい」

「アキが承知すれば良いのだな」

「いや、アキが良いと言ってから私が考えるのさ」

 ふふんと、勝ち誇ったように宗能は(わら)った。

「そんなのひどいよ」

「何がひどい。大切な我が子の進退だ。私を越える舞手とならずば、許す気はないからな」

 口では厳しい事を言いながらも、見つめる瞳は暖かかった。

「わかった」

 梅中は背筋を伸ばし、大きく頷いた。

 七太夫宗能という存在はとてつもなく大きい。それでも梅中は、いつか必ずこの人を超えてやるぞと深く胸に誓った。

「ならば、この話はまたにしなさい。アキが混乱する」

 見れば、アキは驚き過ぎて言葉もない様子である。

 宗能の申し出がすでにアキにとっては青天の霹靂(へきれき)とも言うべき衝撃だったのだ。確かにこれ以上の話は酷かもしれない。

「どちらにしろ、この子が元服するまで時はある。ゆっくり行こうじゃないか」

 それまでは、自分の傍に置くという事だった。

 ようやく親と子になろうとしているふたりである。それを見守って行くのが先だろうと梅中も頷こうとした。

 が、ふと思う。

「……まさか、アキの元服を引き伸ばすつもりはないよな?」

 急に不安になって訊ねると、一瞬きょとんとした彼は、「おお、そうか」と膝を打った。

「その手があったか」

 言うのではなかったと梅中は思った。

 思った傍から口にする己の性格を、今ほど呪った事はない。

「そうだな、アキ。時間は充分ありそうだ。焦る必要などないからな」

 にこにことアキを眺める宗能に、この人は本気だぞと梅中は肩を落とした。

 案外と子供じみた所のある人である。こいつは前途多難だなと、梅中は深い深い溜め息を(こぼ)すのだった。

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