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秋芳馨る  作者: 故
5/10

 室へと戻り、アキと向き直った宗能は、とにかくの無事な様子に改めて息をついた。

 顔色も悪くない。多少疲れてはいるようだが、その表情は穏やかで、少し眠そうな瞳も輝きを失ってはいなかった。

「ご苦労だったな。何事もなかったか」

 宗能であっても客との事は訊ね辛い。どうだったかと訊くのも変な気がしてそう言ったのだが、何事もないという様子でもなかった。

 アキはただ、「はい」と小さく頷いた。

「その、無体な事はされなかったか?」

「何も」

 アキは首を振った。

「とてもお優しい方でした」

 微かに溜息を零すようなその声音に、宗能はおや? と思った。僅かに瞳を伏せているアキに視線を留め、それから傍らの荷へと移す。

「それは?」

「お殿様より賜りました」

 アキは思い出したようにそれを取り上げ、宗能へと差し出した。

 形状からすでに短刀(ちいさがたな)と察せられる包みを解いてみれば、たいそうな品である。

 意匠は虎。刀の拵えとして珍しくはないが、竹林ではなく松があしらわれているのは、ご幼名を虎松君と謂われた由縁だろうか。

 若君の護り刀として誂えた物なのか、目釘の細部に至るまで緻密な装飾が施され、おいそれと人にくれてやるような物には見えなかった。ましてや、一夜の戯れに招いた相手に渡す品とは思えない。

 奇妙に思いながらも、宗能は荷を包み直してアキへと戻そうとした。

 だが、アキは掌でそれを留め、小さく首を振った。

「私には過ぎた品にございます。どうかお納めください」

「お前にと下さったのだ。それは出来まい」

 宗能の言葉にアキはふと考え込み、

「なれば、このままお預かりいただきとうございます」

と、頭を下げた。

 考えてみれば、アキは弟子達との相部屋暮らしてある。荷といえば着替えの入った行李ひとつきりで、確かにそんな所に置いておける品でもなさそうだった。

「そうか、わかった」

 宗能が了承に頷き、それを傍らへ納めると、アキは少しほっとしたような表情を浮かべた。

「疲れているだろう。朝餉をもらったら少し休みなさい」

 これ以上訊いても、この子は応えまいと宗能は思った。

 今までもそうだった。アキはどんなに瞳を赤くして戻って来ても、客の仕打ちを口にした事はなかった。ただ戻りましたと宗能に頭を下げ、恨み辛みも貌には出さず、じっと唇を閉ざして座しているのだ。

「梅中。あまり訊いてやるなよ」

 一礼して出て行ったアキを、何か言いたそうに見送った梅中に、宗能はそう声をかけた。

 昨日、宗能がこの家に戻った時、先に帰った弟子達からすでに話を聞いていた梅中は、そわそわとそれを待ちわびていた。

 猩々乱の称賛への喜びと、帰宅が遅れた事への心配が入り混じった顔に迎えられ、さすがに宗能も心の締めつけられる思いがした。

「アキは?」

 うしろを覗き込むように梅中は訊ね、その姿を捜した。

 宗能は何も応えず、奥へと足を速めた。

 異変に気付いた梅中は、それを追って来た。

「アキを置いて来たのか?」

 室に入ると、梅中は掴み掛からんばかりに宗能へと詰め寄った。

 無言から答えを察した彼は、

「なんで……」

と、言葉を失くして立ち尽くした。

「なんでだよ。もうアキをやらぬと約束したじゃないか」

 梅中は、宗能の腕を掴かむと、わっと泣き伏した。

 彼がこの家に来てから、初めて宗能に見せた涙だった。


 相手は大店の主の座を退き、道楽は老後の楽しみとばかりに暮らしている人だった。

 隠居したとはいえ、店へは元より、他の商人達への影響力もまだ大きく、その豊かな財力を背景に惜しみなく金を使った彼は、喜多にとっても大きな後ろ盾であった。

 子方として舞台に立っていたアキを気に入り、宗能がその宴席へと伴った事も幾度とあった。その頃からすでに、アキの初枕を打診されていた。

 宗能は迷ったが、いつかは迎える時である。遊び慣れている御隠居ならば、それなりの手心も余裕もあるだろう。何より、金回りの良い客を持たせるのは、アキのためだと思った。

 宗能の予想通り、アキへの深い寵愛は、喜多への多大な援助として返って来た。

 御隠居は、花見だ船遊びだと、何かとアキを連れ出そうとする。

 豪商の行楽はそれは豪勢なものだから、アキがそれを楽しんでいるのなら、舞台に支障がない限り、出し惜しむつもりはなかったが、本人はさほど喜んでいる様子もない。

 面と向かって尋ねれば、決して否とは言わぬ子だから、宗能も必要最低限以外は理由を附けて断るようにしていた。

 アキを譲って欲しいとまで口にした御隠居である。時にはその命を受けた小物が待ち伏せ、アキに接触しようと試みる。梅中は、いずれアキが拐かされるのではないかと本気で心配し、ひとり歩きをさせまいと、つきまとっていたくらいである。

 拾われ子のアキには、喜多への恩に報いたい気持ちがあるから、自分に出来る事ならばと、大概の事は受け入れ我慢してしまう。

 それは、アキの心身へ大きな負荷をかけていたが、様子を見かねて声をかけても、大丈夫だと笑うばかりだった。

「必要なら俺が行く。だからもう、アキを客の所へやらないでくれ。この通りだ」

 とうとう梅中はそう言って、宗能に精一杯頭を下げた。

 客の相手をする事を嫌っていた梅中は、後先も考えずにそれを口にして来た。アキが黙ってその代わりを務め、負担していた事を、ようやく思いやったのだ。

 自分ならば否と言える事もアキは言えない。時には不甲斐ないとアキを怒り、はっきり断ればいいのだと気安く助言した自分の幼さを梅中は恥じた。

 梅中は、そもそもが人に媚びる事を知らぬ子である。酒席に向かないのは確かだが、宗能とて嫌がる者を無理強いはしない。宴に顔さえろくに出して来なかった。

 俺は芸で客を()ける。

 梅中は、そう言っていた。

 もちろんそれが理想である。芸事で飯を食う者は、皆そう願っているだろう。

 すでに世間の評判を得ている宗能でさえ、なかなかままならぬ事ではあったが、それでも梅中ならば叶うかもしれないとどこかで思っていた。いや、そう思いたかった。

 宗能とて、年端も行かぬアキに客の相手などさせたくなかった。

 くたびれ切って、お供の家人の背ですやすやと寝息を立てながら、あるいは、うとうとしながら手を引かれて帰って来るアキを見るたびに、宗能の心は揺れた。

 だが、何も持たぬアキには贔屓の引き立てが必要なのだと自らに言い聞かせ、客の元へと送り出して来た。

 もしかしたらそれは言い訳で、本心は金蔓を失いたくないだけだろうと自分を責めながら。

 宗能は気付いていたのだ。初枕から後、アキが笑わなくなった事に。

 別に暗い貌をしているわけではない。愛想はむしろ良いほどであるし、事ある毎に、にこりと愛らしい笑みが返って来る。

 だが、アキの笑い声は、その日を境に途絶えた。

 何やら家の中が静かになったような気がして、ようやく宗能はその理由に思いを巡らせた。

 アキは、どちらかと言えば物静かな子だった。一緒にいる梅中の喜怒哀楽がはっきりとしており、始終バタバタと喧しいので余計にそう感じられたのだが、それでもその梅中と戯れて、アキも楽しげな声を上げていた。

 あれでアキは良く笑っていたのだな。

 その笑い声を聴けなくなってはじめて、宗能は思った。 


「いいか、梅中。これは、あの御隠居を小秋から離せるかどうかだ」

 宗能の言葉に、梅中は涙に濡れた顔を上げた。

「甲府宰相が相手となれば、向こうは黙って引き下がる。波風も立つまいよ」

「そのお殿様が、代わりにアキを買うって事かよ」

 梅中は頬を拭いながら、半ば投げやりに言った。金を出す相手が代わるだけではないかと。

「それはわからん」

 徳川歴代の将軍達は、流派の違いこそあれ申楽を好む傾向が強く、その血を確実に受け継いだ綱豊候もまた、自ら舞扇を取って舞うほどに申楽を愛した。

 先代当主の頃から能楽の盛んな家であるから、そのお屋敷の能舞台はたいそう立派なもので、広々とした楽屋は大がかりな能会にも支障がないほどの部屋数を有し、その一角には専用の湯殿まで整える力の入れようなのだ。

 宗能はその様を目にして、なるほど甲府様の申楽好みは本物だと思った。

 こと申楽に対して金を惜しむ方でないのは確かだが、一役者にそれを出すかどうかはアキをどれだけ気に入るかによるだろう。

 ただ、他の客を牽制する理由には間違いなくなるはずだった。

「御隠居には今まで通り金は出していただいて、かつ、小秋を諦めてくださるのが一番なんだがなぁ」

「そう都合良く行くか」

 梅中は少々呆れ顔である。

「まあ、それは話の持って行きようだがね。なんにせよ、良い口実にはなろう。のらりくらりと逃げるにも限度があるでな、正直助かったと思っているくらいさ」

 宗能は冗談めかして笑った。

 縁を切る事は簡単だが、それは同時に、その財力も諦めると言う事だった。それを購う支援者が現れればそれも良いかもしれないが、それでも波風を立てないに越した事はない。喜多の庇護者として繋ぎ留めながら、出来るだけアキをやらずに済ませようと、宗能はこれでも苦労しているのだ。

 そこに今回のお召しである。

 損得勘定に長けた商人である御隠居が、徳川連枝の大名と争う選択をするとは思えない。大名からの要請を断れない事は誰にでもわかる。アキを簡単に他の客の元に出せなくなった事情に筋も通る。御隠居はこちらを怨思する事なくアキを諦める。宗能はそう踏んでいた。

 それによって支援が減るかもしれないが、それはまあそれで仕方がない。

 ただ、向こうにもこちらと切れたくない理由がある。

 それこそが七太夫宗能の芸であり、名声だった。

「七太夫兄は、存外と腹黒いのだな」

 言うに事いて欠いて、腹黒いである。

「お前も言うねぇ……」

 面と向ってまあこの子はと、呆れるやら、可笑しいやらである。

「だが、梅中。流派を背負う以上、こういった駆け引きは避けては通れぬ。お前も上に立つつもりなら覚えておきなさい」

 自分独りではない。その下には弟子や職分を抱えているのだ。

 さらに養子であった宗能には、この家を預かっているという気持ちが強い。喜多を潰すわけには行かぬのである。

 梅中も、そこは察した様子で、きりりと引き結んだ口元で神妙に頷いて見せた。

「ただ、辛い思いしてなけりゃいいけど……」

 アキの事である。

「今度のお相手なら、心配なかろうよ」

 甲府宰相綱豊卿は、まだ歳若いが名君と評判の人である。

 人柄も優れており、下を思いやる君なのは、西田久右衛門をはじめ実際に仕える者達の言動からも自然と伝わって来る。悲観はしていなかった。

「判るもんか。侍なんて威張りくさってて、どいつも一緒だ」

「当家も武家から禄を貰う身だ。そうあからさまに嫌うな」

 宗能は苦笑を浮かべて梅中を諭した。

 申楽は歌舞伎や文楽などと違って、その顧客の大半が武家で占められる芸能である。

 他の流派に比べて気迫を重んじる喜多流は、素朴で雄勁な芸風と言われ、そもそもが武家好みなのだ。どう嫌っても、付き合わねばならぬ相手だった。

 さらに近年、申楽そのものが武家に専有される度合いが強まっている。

 秀吉公の頃までは、申楽は裕福な商人達にとっても重要な娯楽であり、彼らの援助で盛んに興行も行われていた。

 徳川の御世(みよ)となってから徐々に武家以外での上演が制約されるようになり、この頃では公には神社などへの勧進能くらいしか認められない。

 特に、今の将軍の代になってからの締め付けは厳しさを増した。

 四年前に五代を就任した綱吉公もまた、能狂いと言われるほどの申楽好きであったが、手厚い庇護を向けるというよりはむしろ偏狭的な執着を見せ、その囲い込みへと傾いているように宗能には感じられた。

 今後は、御隠居のような人の支援は受けられぬようになるのではと、密かに危惧しているくらいである。俸禄と引き換えに、さらなる干渉を受ける事を恐れているのだ。

 何にせよ、支配階級である武家と係わらずに申楽を舞う事など、叶わぬ世なのは確かだった。

「太夫の言ってる事はわかる。けど、結局はアキを買ったんだ。どんな立派なお殿様でも、人を金や権力で自由に出来ると思ってるヤツは信用しない」

 梅中らしい、まっすぐな論理だった。

 そういう梅中こそ、侍たる気質を受け継いでいるのかもしれない。

 彼の祖父北七太夫は、庇護を受けた秀吉公への恩顧を忘れず、大坂の役には槍を引っ担いで豊臣方に加勢したと伝わる。

 その後逼塞していたのを、その舞を懐かしんだ徳川に召し出されたが、二君には仕えずと、仕官を断った気骨の人だった。

 時の将軍秀忠公は、そんな七太夫長能を大変愛でられ、なれば申楽師として仕えよと喜多の姓と禄を与えた。

 その時から、申楽の一流派として喜多は立ったのである。

 この子こそが喜多の魂かもしれぬ。

 梅中を見ていると、時々そう思う事がある。

 まだまだ粗削りではあるが、大きさを感じさせる梅中の芸風は、時には徒となるほどまっすぐな彼の気質そのままだった。

 この子の先もまた楽しみな事だと、宗能は眺める瞳を僅かに細めた。

「まあ、今は帰りを待つしかあるまいよ。こうしていても仕方ない。お前も早く休みなさい」

 梅中は何か言いたそうに口を開いたが、それでも宗能の物言いに思うところもあったらしい。小さく顎を引いて頷くと、きちんと手をついて部屋を辞した。

 しかし、夜の静寂の中に、時折人の出入りする物音が微かに響くのを、身を横たえながら宗能は聞いていた。

(アキを待っているのか……)

 宗能もまた、夜具の中で幾度となく寝返りを打ちながら、眠れぬその夜を過ごした。

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